文学の交差点(連載17)■最初の不義密通をめぐって

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

最初、「源氏物語で読むドストエフスキー」または「ドストエフスキー文学の形而下学」と名付けようと思ったが、とりあえず「文学の交差点」で行く。

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

文学の交差点(連載17)

清水正

■最初の不義密通をめぐって

 桐壷帝の后藤壷と桐壷帝を父に持つ光源氏が契りを結ぶということはあってはならない一大事である。しかしこの一大事である最初の不義密通がいつどこでどのようにして行われたのかを作者はあいまいにしか報告していない。一回目も二回目もおそらく王命婦が手引きしたのであろうが、王命婦はこんな危険なことをどうして二度にわたって引き受けたのか。藤壷の秘められた内心を深く汲み取った上でのこととしても、大胆な手引き、本来絶対にあってはならない手引きであったことに間違いはあるまい。

 最高の権威者権力者である帝を后の藤壷が、息子の光源氏が、そして一女房でしかない王命婦が裏切っている。この〈裏切り〉はギリシャ悲劇『オイディプス王』における〈父殺し〉と〈母との合一〉に匹敵する大問題である。が、『源氏物語』において后と息子による帝に対する〈裏切り〉は『オイディプス王』に比べるとはるかに軽く扱われているように感じられる。これは作者が藤壷、王命婦および光源氏の内心に深くこだわらなかったことに起因する。さらにこの〈裏切り〉に対する桐壷帝の態度をきわめてあいまいに処理していることにも起因していよう。はたして桐壷帝はこの〈裏切り〉をまったく知らなかったのか、それとも知っていて完璧に知らない振りを貫いたのか。いずれにせよ、作者は藤壷、王命婦光源氏のそれと同様、桐壷帝の内心に深く立ち入ることをしていない。

 人物たちの内心に迫ろうとすれば、読者が想像力を働かせるほかはない。〈裏切り〉の当事者である藤壷と光源氏はもとより、そこに手引きした王命婦を加えてみると、この〈裏切り〉は果てしなく複雑な様相を呈してくる。もし王命婦光源氏が肉体関係を結んでいたとすれば、藤壷の王命婦に対する感情は微妙である。藤壷と王命婦の関係は深い信頼によって結ばれていたであろうが、王命婦が手引きした後では光源氏を間に挟んで微妙な感情に支配されたであろう。三人で仲良く性愛関係を持とうというのなら別だが、そうでなければ嫉妬が起こり、そこから憎悪や殺意に発展するのが人間心理というものである。それに藤壷にとって王命婦は帝に対する〈裏切り〉という一大秘密を握った存在でもある。こういった存在が最も胡散臭い忌避すべき存在と化すのは目に見えている。が、秘密を握っている王命婦との関係を完璧に絶つことはできない。藤壷の葛藤、ジレンマが心の病を引き寄せることは避けられない。