文学の交差点(連載24)■瀬戸内寂聴の小説『藤壷』をめぐって

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

最初、「源氏物語で読むドストエフスキー」または「ドストエフスキー文学の形而下学」と名付けようと思ったが、とりあえず「文学の交差点」で行く。

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

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ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

文学の交差点(連載24)

清水正

瀬戸内寂聴の小説『藤壷』をめぐって

    現在わたしたちが読むことのできる『源氏物語』に光源氏と藤壷の最初の不義密通は何も書かれていない。この場面に関しては武田宗俊『源氏物語の研究』、大野晋丸谷才一の対談『光る源氏の物語』、丸谷才一の小説『輝く日の宮』などでも検討されているが、ここではとりあえず瀬戸内寂聴の小説『藤壷』(講談社文庫、二〇〇八年六月)を題材にして想像力を存分に発揮していきたいと思う。

 光源氏が藤壷との〈契り〉にはたしてどこまで〈極悪道〉の意識を持っていたのか。この問いは何度問うてもいいような気がする。瀬戸内寂聴は王命婦に「この企ては、人倫の道にも仏の道にも叛いた極悪道でございます」と言わせているのだが、光源氏が人倫、仏道をどのようにとらえ意識していたのかが曖昧に処理されているので、そもそも彼の〈叛逆〉が体感的に伝わってこないのである。一夫多妻の時代における男女関係を今日の恋愛観に即して判断することはできないので、光源氏が複数の女たちと契りを結ぶことを人倫に反する行為と見なすことは出来ない。

 藤壷は父桐壷帝の妻であるにしても、それが光源氏にとってどれほどの重みを持っていたかは実はよく伝わってこない。王命婦は言う「生きて露見すれば只事ではおさまりますまい」と。さて〈露見〉が問題である。王命婦が手引きする以上、〈不義密通〉は当事者の光源氏と藤壷だけの秘密ではないということである。ここで『光る源氏の物語』(中公文庫上巻、一九九四年八月)から大野晋の言葉を引いておこう。

 大野 『源氏物語』の本質をとらえるときに大事なことが一つあると思うんですよ。それはヨーロッパでは、フランスの作品の具体的な名前をぼく知りませんけれども、「お女中文学」というのがあるということです。『源氏物語』を語っているのは「女房」といわれる人たちですが、いわば今日の「お女中」でしょう。この人たちはお姫様が男の人と一緒になるときには隣の部屋にひかえていて、万事知っているといったぐあいに、お姫様についている女房はお姫様のあらゆることを知っている。そういう位置にいて、しかも一人前には扱ってもらえない「女房」が『源氏物語』を語っているということです。(56~57)

 藤壷には王命婦だけが女房として付き添っていたわけではない。乳母子の弁や王命婦以外の命婦も何人かはいた可能性が高い。王命婦の〈手引き〉が他の女房たちの眼や耳や第六感の網の目にかからなかったはずはない。ただ光源氏と藤壷の〈不義密通〉に感づいていた女房たちが、それを心の奥底に封じ込んで、公にしなかっただけのことである。秘密を知っている女房たちの声にならない噂話は心の闇の中で止むことはない。もちろんそんなことは女房でもあった紫式部はよく知っている。こと光源氏と藤壷の〈不義密通〉に関しては王命婦も乳母子の弁も、そして作者の紫式部も共犯関係を結んで、あたかもその秘密は保持されたかのように振る舞い続けるのである。恐るべし〈女房〉、ということである。

 先に引用した瀬戸内寂聴「藤壷」の続きを見てみよう。

 

  それにしても王命婦はいつまで待たせるのかと源氏の君は焦ってきました。狐のような顔付のこの女がいかにも狡猾なように見えてきて、この女の思うよう自分があやつられているような不快な気持さえしてきました。

「これ以上、待たされるなら、もうよい。頼まぬ。文も届けてくれぬ。返歌もいただけぬ。まるで霞と恋をしているようにはかなすぎる。そなたとこうして逢うのも……」 「飽いたとおっしゃりたいのですね」

  王命婦がずばりと抑揚のない声で他人事のように言いました。図星をつかれて源氏の君は思わず顔を染めてしまわれました。

「ちか頃、六条あたりに御熱心にお通い遊ばしていらっしゃるとか、口さがない女房たちがお噂申しております」

六条御息所のところへは、都じゅうの気の利いた公達なら、みな伺っている。御息所の催される詩文や音楽の集りは、実に高尚で気が利いているのだ」

「何より御息所はお美しいお方ですから」

「たしかに、高貴なお方で教養があるという点では、藤壷の宮と双璧といえるお方だ。わたしなど集る公達の中では一番年が若く出る幕もない」

「さあ、いかがなものでしょう。あの気位の高い御息所のお心をどなたが射とめるかと、京雀の噂の種とやら……源氏の君さまは、もはや御息所とは」

「残念ながらいまだ高嶺の花だ。あそこに集る公達たちは、一人残らず万に一つの僥倖を期待しているにちがいない。ところが御息所は前の東宮の未亡人という御身分の上、途方もない御遺産に囲まれていらっしゃる。対等にお相手出来る公達など居るものではない」

「ただお一人、源氏の君さまを除いては」

「いやに御息所にこだわるんだね。美しいお方だけれど、もうお若くはないよ」

「わたくしより三歳の下、源氏の君さまより七つの年上でいらっしゃいます」

  そうすると藤壷の宮は御息所より二歳の御年少か、それにしては藤壷の宮は何という初々しい愛嬌にあふれたお可愛らしさなのだろうか。源氏の君は改めて藤壷の宮のお若さに感嘆しながら立ち上り、王命婦に背を向けて歩き出されました。

「恋ひわびて恨む涙にこの春も

     命むなしく過ぎ逝きにけり」

「源氏の君さま、来る二十日の深更に藤壷にお渡り下さい。その日は内裏は物忌みに当っております」

  王命婦の低いしゃがれた声が、源氏の君の耳近く聞えました。

  源氏の君は思わず振り返りさま、王命婦の手を掴んでいました。

「まことか、空耳ではなかったか。二十日、深更とな、内裏は物忌みだと……」

「その通り申しあげました」

「三日の後だ。王命婦、もう一度お礼をしようか」

  源氏の君が手に力をこめ、王命婦の体を胸に引き寄せると、王命婦は両腕で源氏の君の胸を突き、身を引き離しました。

「もう結構でございます」

  源氏の君は声をあげて笑い、若々しい足取りで出口の方へ歩いて行きました。   築地の破れの外には、すでに網代車が着けられていて、惟光が榻を整えて蹲っていました。(42~47)

 

 瀬戸内寂聴の小説「藤壷」は可能な限り史実を押さえた上で創作されている。

 王命婦は狐のような顔付として設定されているが、これに関してはウィキペディア「稲荷神と狐」「伏見稲荷創建以降」などの記事が参考になる。

 狐は稲荷神の神使であって稲荷神そのものではないが、民間においては稲荷と狐はしばしば同一視されており、例えば『百家説林』に「稲荷といふも狐なり 狐といふも稲荷なり」という女童の歌が記されている。また、稲荷神が貴狐天皇(ダキニ天)、ミケツ(三狐・御食津)、野狐、狐、飯綱と呼ばれる場合もある。

 

  日本では弥生時代以来、蛇への深更が根強く、稲荷山も古くは蛇信仰の中心地であったが、平安時代になってから狐を神使とする信仰が広まった。稲荷神と習合した宇迦之御魂神の別名に御ケ津神(みけつのかみ)があるが、狐の古名は「けつ」で、そこから「みけつのかみ」に「三狐神」と当て字したのが発端と考えられ、やがて狐は稲荷神の使い、あるいは眷属に収まった。なお、「三狐神」は「サグジ」とも読む。時代が下ると、稲荷狐には調停に出入りすることができる「命婦」の格が授けられたことから、これが命婦神(みょうぶがみ)と呼ばれて上下社に祀られるようにもなった。(以上「稲荷神と狐」より)

 都が平安京に遷されると、この地を基盤としていた秦氏が政治的な力を持ち、それにより稲荷神が広く信仰されるようになった。さらに、東寺建造の際に秦氏が稲荷山から木材を提供したことで、稲荷神は東寺の守護神とみなされるようになった。『二十二社本縁』では空海が稲荷神と直接交渉して守護神になってもらったと書かれている。神としての位階(神階)も、天長4年(827)に淳和天皇より「従五位下」を授かったのを皮切りに上昇していき、天慶5年(942)には最高の「正一位」となった。

   東寺では、真言密教における荼枳尼天(だきにてん、インドの女神ダーキニー)に稲荷神を習合させ、真言宗が全国に布教されるとともに、荼枳尼天の概念も含んだ状態の稲荷信仰が全国に広まることとなった。荼枳尼天は人の心臓を食らう夜叉神で、平安時代後期頃からその本体が狐の霊であるとされるようになった。この荼枳尼天との習合や、中国における妖術を使う狐のイメージの影響により、稲荷神の使いの狐の祟り神としての側面が強くなったといわれる。(以上「伏見稲荷創建以降」より)

  

    王命婦と狐の関係は探ると途方もない闇を抱えているように思える。単に狡猾な女という意味での隠喩を超えたものを感じさせる。王命婦命婦の一人であるにもかかわらず〈王〉が付いている。彼女が高貴な家柄(皇族、王族)の出身であることを伺わせるが、彼女を秦氏の一族であったと見ることもできよう。権勢を誇った秦一族と天皇家との関係に関しても新たな照明を当てる必要があろう。

 わたしたちは何度でも王命婦が桐壷帝の后藤壷と桐壷帝の息子光源氏の契りを手引きしたこと、瀬戸内寂聴に言わせれば人倫に叛し仏道に叛する〈極悪道〉を手引きしたことの秘密に迫らなければならない。今日の感覚からすれば、天皇の息子が天皇の后と契りを結ぶなどという大それたことは考えるだに不謹慎であり、絶対にあってはならないことである。はたして平安時代においてはどうだったのだろうか。

源氏物語』に描かれた限りにおいては、男女の肉体関係はかなりゆるいように思える。今日から見れば強姦まがいのことも寛容に受け入れられている。愛があればすべては許されるではないが、光源氏においては相手が少女であれ、年上の女房であれ、父帝の后であれ、求愛の行動を妨げるものではなかった。人倫、仏道陰陽道も、光源氏の行動を絶対的に拘束することはできない。

   ドストエフスキーの人神論者たちは「神がなければすべてが許されている」と公言してはばからなかった。光源氏にとって彼の行動を統御支配する絶対的なものは存在しなかったのであろうか。

 或る限定された時代に生きる限り、人はその時代の風習、慣習、制度、 倫理、信仰に支配される。が、中にはこういった制約から限りなく自由であろうとする人もいる。ロジオンが規定した非凡人の範疇に属する人がそれである。ロジオンは結果として凡人の範疇に属する人であったが、犯行以前は自分を絶対者として自己規定していた。〈ロジオン〉(Родион)という名前は〈薔薇〉を意味し、これは〈美・力・聖〉を意味する。〈イロジオン〉(Иродион)は〈英雄〉を意味する。フルネーム〈ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフ〉(Родион Романович Раскольников)は〈РРР=666〉で〈悪魔〉を意味する。光源氏をロジオンに重ねて読み込んでいくと、物語の深層に潜んでいるものが浮き彫りになってくるように思える。

 ロジオンは二百年の歴史を持ったラスコーリニコフ家の出身者であるが、光源氏天皇家の血筋を引く紛うことなき選ばれた者である。この選ばれし光源氏はすべてが許されている存在として誕生してきたのかも知れない。

 王命婦を検証する上で荼枳尼天と習合した稲荷神の使いが狐であるという説も興味深い。狐は狡猾という次元を超えた夜叉神であり祟り神であると見ると、王命婦は一挙に畏怖すべき存在へと変容する。まさに藤壷と光源氏を契りの場に手引きする存在に相応しい異形なる貌を見せ始める。

 さて、話を現実的な次元に戻して「藤壷」を見ることにしよう。瀬戸内寂聴が描く王命婦はまず何よりも一人の女房であり女である。光源氏と肉体関係を結んでしまった後の王命婦は、十歳の年の差を越えて光源氏の魅力にとらえられてしまった女である。光源氏が誰よりも藤壷に愛情を向けていることを知っていながら、王命婦は何度も光源氏と契りを交わしている。王命婦の心の内に光源氏を独占したいという思いも生じてきたに違いない。が、光源氏が王命婦を抱くのは、藤壷に手引きをしてもらいたいが故なのである。女としての王命婦の葛藤、嫉妬はどれほどであったろうか。

 しかし、決断しなければならない時がやってきた。王命婦光源氏に対する思いを断ち切り、〈極悪道〉への途へと踏み込む決意をする。瀬戸内寂聴は決意した女の毅然とした姿を端的に描いている。深い迷いと激しい葛藤に決着をつけた女の姿は凛々しいのだ。決断した王命婦の姿に作者瀬戸内寂聴の思いが見事に重なった場面と言えよう。