文学の交差点(連載16)■王命婦と光源氏

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

最初、「源氏物語で読むドストエフスキー」または「ドストエフスキー文学の形而下学」と名付けようと思ったが、とりあえず「文学の交差点」で行く。

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

文学の交差点(連載16)

清水正

■王命婦光源氏

 藤壷に仕える一女房でしかない王命婦が、光源氏を藤壷のもとに手引きするなどという大胆不敵なことがどうしてできたのか、作者の言葉だけではとうてい納得が行かない。

 納得するためには、まずは藤壷と光源氏の内的関係を緻密に描かなければならない。次に藤壷と王命婦の関係にじっくりと照明を当てる必要がある。さらに王命婦光源氏の関係に迫っていかなければならないだろう。どれをとっても、詳細に見ていけばそれだけで一編の小説ができあがるだろう。ここでは王命婦光源氏に照明を当ててみたい。

 光源氏はどんなに藤壷に思いを寄せても直接彼女に会うことはできない。藤壷に何人の女房たちが付いていたのか分からないが、描かれた限りで想像すれば、王命婦ひとりが取り次ぎ役を果たしていたことになる。名前に〈王〉がついているくらいだから身分の高い家柄であったろうし、藤壷の厚い信頼を得ていたことも確かである。だからこそ光源氏はほかの女房には目もくれず、ひたすら王命婦に藤壷との逢瀬を執拗に頼み込んだのである。言葉だけでなく様々な贈り物など、あらゆる手段を講じたに違いない。が、ことの大事を知り尽くしている王命婦光源氏の必死の頼みも拒んだであろう。最後の手段として、光源氏は王命婦と契りを結んだことが考えられる。

 目的を達するためには手段を選ばず、光源氏は自分の男としての魅力を知り尽くしていたから王命婦を誘惑することで願いを叶えようとしたとしても不思議ではない。王命婦が何歳なのかは不明だが、おそらく光源氏よりは年上であったろう。光源氏に執拗に追い廻され、藤壷との逢瀬取り次ぎをせがまれているうちに王命婦自身が光源氏の魅力に心動かされていた可能性も大きい。否、そうでなくては王命婦の最終的な決断を理解することははなはだ困難である。

 藤壷ですら桐壷帝を裏切って光源氏と契りを結んだその事実を冷徹に直視すれば、女房である前に一人の紛れもない女である王命婦光源氏口説きに屈しなかったなどとは思えない。女と男の関係を結んだ王命婦の内面に想像をたくましくすれば、余りにも屈折した心理心情が浮上してくることになる。

 契りを結んでみれば、王命婦もまた光源氏に深く魅惑されたであろう。一人の女として光源氏を藤壷に取り次ぎたくないと思うのは当然である。しかし、光源氏を受け入れてしまったことで、光源氏の本来の願いを叶えてやらなければならない。王命婦光源氏の魅力に呑み込まれた女として見れば、この葛藤は凄まじかったずである。

 いずれにせよ、王命婦光源氏を藤壷に取り次ぐことになる。取り次ぐにあたって王命婦は、そのことの正当性を自らに納得させなければならない。表沙汰になればどんな弁解も通用しない不義密通を手引きした罪は重い。この重圧に耐えられる自己正当化として王命婦が考えたことは、藤壷の秘められた光源氏に対する熱い思いを忖度したということである。結果として藤壷は光源氏の求愛を受け入れたのであるから、手引きした王命婦のみに罪をきせることはできまい。藤壷が毅然として光源氏を拒み続ければ、いくら強引な光源氏といえども契りを結ぶことはできなかったのではないかと思う。

 藤壷に何人の女房がついていたのかは不明だが、闇の中で不審な声や物音がすれば、だれかには気づかれ怪しまれるであろう。王命婦ひとりがどんなに配慮し、手引きしても、ほかの女房たちの目を覆い耳を塞ぐことはできない、まして彼女たちの口を閉ざすことはできないのである。

 作者は藤壷と光源氏の不義密通の場面を具体的に描いていないので、読者が勝手に想像するしかないのだが、この密通がばれない程度の拒みしか藤壷はしなかったということであろう。そうであれば、王命婦は藤壷が抑圧していた光源氏に対する思いを十分に酌んだ上での手引きということになり、言わば〈不義密通〉に関する共犯者ということになる。

 テキストの表層だけを読めば、〈不義密通〉は当時者の藤壷と光源氏、それに手引きした王命婦の三人だけが知っていることになる。が、こんな読みの次元にとどまっていたのでは『源氏物語』の面白さを満喫することはできないだろう。ドストエフスキーの文学を半世紀に渡って読み続けてきた者にとって『源氏物語』は異様なほど面白い。藤壷にしろ王命婦にしろ、彼女たちの肖像はほんのわずか、その輪郭ぐらいしか描かれていない。彼女たちの抱えている闇は深く、作者の闇はさらに深い。照明の光を瞬時に吸収してしまう無限の奥行きを感じさせる。

 参考【女房】(ウィキペディアより)

 平安時代から江戸時代頃までの貴族社会において、朝廷や貴顕の人々に仕えた奥向きの女性使用人。女房の名称は、仕える宮廷や貴族の邸宅で彼女らにあてがわれた専用の部屋に由来する。

 もっぱら主人の身辺に直接関わる雑務を果たす身分の高い使用人であり、場合によっては乳母、幼児や女子の主人に対する家庭教師、男子の主人に対する内々の秘書などの役割を果たした。主人が男性の場合には主人の妾(召人)となったり、女性の場合には主人の元に通う男と関係を持つことが多く、結婚などによって退職するのが一般的であった。

 尚、内裏で働く女房のうち、天皇に仕えるのは「上の女房」(内裏女房)と呼ばれる女官で、後宮の后(ひいてはその実家)に仕える私的な女房とは区別される。 後宮の后に仕える女房である「宮の女房」のほとんどが、后の実家から后に付けられて後宮に入った人々で、清少納言紫式部なども女叙位は受けていたものの、この身分であったと考えられている。