文学の交差点(連載12)■〈算盤〉をはじいて生きていた人々とソーニャ

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

最初、「源氏物語で読むドストエフスキー」または「ドストエフスキー文学の形而下学」と名付けようと思ったが、とりあえず「文学の交差点」で行く。

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

文学の交差点(連載12)

清水正

■〈算盤〉をはじいて生きていた人々とソーニャ

 同情などと言うものは学問上ですら禁じられているような時代にあって、『罪と罰』の中に出てくる人物たちの大半は不断に算盤をはじいている。商人アファナーシイ、実務家ルージン、高利貸しアリョーナなどばかりが計算していたのではない。プリヘーリヤやドゥーニャさえ、頭で算盤をはじいたからこそルージンとの結婚に同意したのである。ラスコーリニコフ母娘の算盤は時代遅れで、最新式の機能を備えたルージンのそれとでは計算式が違っていて同じ答えを導き出すことはできなかった。結婚はロジオンの大反対もあってすぐに破綻を迎えるが、しかし彼女たち二人が旧式の算盤をはじいた事実を否定することはできない。彼女たちはよりによってルージンという実務家に、学問上でさえ禁じられている〈同情〉をあてにしてしまった。

 最も〈同情〉など当てにしてはいけない二人の人物、一人は商人アファナーシイ、一人は実務家ルージン、こういった計算高い功利主義の申し子のような男たちに打算的な算盤をはじかなければならなかった彼女たちを一方的に責める気はないが、しかし彼女たちが中途半端な自己犠牲の途を選んでしまった愚かな者たちであったことは否めない。

 酒瓶の底に苦しみと悲しみを求めるマルメラードフも、その後妻カチェリーナも、彼らなりの〈算盤〉をはじいて生きている。『罪と罰』の中で唯一〈算盤〉をはじいていないのがソーニャである。このソーニャという人物を現実世界に生存している人間、および彼女の稼業と照らし合わせて考えると、とうてい理解できない。理解できないから、排除するというのではない。この、理屈の次元ではとうてい理解しがたいソーニャという人物が存在しているからこそ『罪と罰』という小説はその普遍性を獲得していると言ってもいい。わたしは、描かれた限りでのソーニャは聖者(ユロージヴァヤ=聖痴女=юродивая)であり、少女マンガの主人公のような完璧にきれいごとの世界を生きる天使のように見える。問題はなぜドストエフスキーがそのようにソーニャを描いたかである。

 プリヘーリヤの手紙から、彼女とアファナーシイの〈関係〉について思いを寄せた読者はほとんどいなかったであろう。プリヘーリヤの〈打算〉も看過されてきた。プリヘーリヤは息子思いの優しい母親というイメージで読まれてきたと言ってもいいだろう。わたしがこれまで書いてきたプリヘーリヤに対する指摘は残酷過ぎるかも知れない。が、テキストに書かれた事柄を冷静に客観的に読み込んでいけば、やはりプリヘーリヤは娘ドゥーニャにルージンとの結婚を勧めるような打算的な母親であり、ロジオンに対する愛も自己愛の次元を越えてはいなかった。ソーニャの自己犠牲的な愛の前では、プリヘーリヤとドゥーニャの愛はどんなに巧みにカフラージュしても自己愛の領域にとどまるのである。