清水正・ドストエフスキーゼミ・第四回課題

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清水正ドストエフスキーゼミ・第四回課題
プリヘーリヤの手紙を読んで

ドゥーニャについて


ドゥーニャについて
篠原 萌

 ルージン、プリヘーリヤ、ドゥーニャを私なりの考えで置き換えてみると、学
校においての立場はルージンがいじめっこでプリヘーリヤが見て見ぬふりの傍観
者。そしてドゥーニャがいじめられっこである。おまけにロジオンはいじめられ
っこの母親といったところだろうか。いじめれらっこは学校から逃げ出さない。
とっとといじめっこのいない所へ行けばいいのに来る日も来る日も学校へ通い続
けるのである。それは愛する母の為である。いじめられている事実をすれば母が
悲しむ。学校へ行かなければ母が悲しむ。「学校は楽しい?」という母からの問
いには笑顔で「楽しいよ」と答える。「いじめられてるの、助けて」と言えばき
っと救ってもらえるだろう。その代わり母は苦しい思いをするかもしれない。子
供がいじめられているという事実にショックを受けるだろう。だから自分の気持
ちに蓋をする。そして傍観者はいじめを知っていても止めることは無い。止めた
ところで自分に利益など無いからだ。止めたところで、自らが火の粉を被るだけ
。傍観者の安全というのはいじめられっこの尊い犠牲の元に成り立っているので
ある。
 ドゥーニャが逃げ出さない理由は愛する兄の為ともう一つ、傍観者の無言のプ
レッシャーがあるからだと思う。プリヘーリヤはドゥーニャに「絶対にあの人と
結婚しなさい」とは言わない。ドゥーニャを追い込むようなことは言わない。か
と言って「あなたが嫌ならあの人と結婚しなくてもいいのよ」と救いの手を差し
伸べることも無い。ドゥーニャの気持ちは知っている。だけど彼女を助けること
はしない。ドゥーニャも母が自分の気持ちを知っていて、その上で何もしてくれ
ないことをわかっているのだと思う。いじめの傍観者はいじめられっこが進んで
いじめの対象になっているわけではないことはわかっている。だけど何もしない
。何かしたところで利益などないからだ。いじめられっこもまた傍観者が助けて
くれないことを知っている。逃げることもせずに、大事な人の為に身を差し出す
。ここで傍観者が助けるか、いじめっれっこが逃げ出すか。自分の役割以外のこ
とをしたら話は大きく変わるのに、大抵の場合はそのままいじめは変わらずクラ
ス替えや卒業式を迎えるまで続くのである。プリヘーリヤとドゥーニャもまた、
自分の役割以外のことはせずにそのまま話が進められていく。この二人の場合は
時代背景だとか兄の将来性だとか色々な要因が組み合わさっているから学校のい
じめほど単純な話でもないのだが、大体似たような構図だと思う。
 私の想像だが、ドゥーニャの行動に共感する人はそこまで多くないと思う。「
自分の人生は自分で決めたい」「自分の結婚相手は自分で決めたい」「自分のこ
とを犠牲にしたくない」というような考えを持つ人が多いだろう。私はドゥーニ
ャと同じ立場に立った時、きっと彼女と同じ行動をとるだろう。自分が我慢する
ことで優秀な兄がまた輝ける場所に戻れるなら、出来る限り協力したいと思う。
好きでも無い相手と結婚するのは嫌だ。だけど兄には頑張って欲しい。他に良い
手立ても無い。ならば私が犠牲にならなくては。自分の気持ちに蓋をすれば、愛
する兄は救われるのである。自分の利益だけを考えるのなら全部投げ出して逃げ
出せるのに、大事な人のことを考えると足は止まってしまう。それはきっと逃げ
出したら、後悔するのだろうと思うからだ。その先に大好きな相手と結婚できた
としても、あの時兄を救えなかった自分が、あの時母の無言のプレッシャーを振
り切った自分が、とてもとても腹立たしくなるのだろう。きっとその気持ちは好
きでもない相手と結婚したという事実よりも、よっぽど私を苦しめると思う。そ
れは私の結婚相手がどうだとかいうことよりも、優秀な兄を日の当たる場所まで
押し上げる方がずっと価値のあることだと思えるからだ。
 当たり前のことだが、私はドゥーニャではない。だからドゥーニャが何を思っ
て、結婚を決意したのかよくわからない。だが兄を思い、自己を犠牲にする精神
があったことは間違いないと思う。だからといって彼女は一方的に食い潰される
弱者なのか。それは少し違うと思う。何の前触れも無しに一方的に搾取されるよ
うになったその辺のいじめられっこではない。そもそも彼女は普通ならいじめら
れっこにすらならない人間である。彼女は自らいじめられることを選んだ人間だ
。そしてそれが引き返せる地点でロジオンに見破られてしまっては意味が無い。
いじめっこに殴られて出来た痣を堂々と出して帰宅するのと同義である。だから
全てが片付くまでロジオンはこのことを知らされなかった。はっきり言って、ド
ゥーニャの作戦勝ちだと思う。自分の結婚はもう撤回できないところまで来た。
兄は妹が犠牲になってしまったことに気が付いてまた頑張るようになるかもしれ
ない。彼女が自分の犠牲によって得たものは兄の幸福である。それは彼女にとっ
てどれほどの価値があるのかはわからないが、自分の人生よりは重要なものなの
だろう。だから私にとっての彼女はただの弱いいじめられっこではない。いじめ
られっこではあっても、自分の欲しいものを手に入れた成功者である。



手紙の中のドゥーニャについて
福田 紋子

手紙を読んで、この家族は本当にロジオンが大好きすぎてちょっと暑苦しいと思った。
ドゥーニャは完璧にお兄ちゃんであるロジオンのことが大好きすぎるブラコンである。
この家族のなかではロジオンはアイドルのようなもの。
ロジオンという容姿端麗、成績優秀でおまけに優しい息子、お兄ちゃんにプリヘーリヤ、ドゥーニャの二人はメロメロなのである。
だから、汚い部分をみようとしないし、自分を犠牲にしてでも輝いてほしい。
二人は彼の虜。つまり、ファン。
彼の魅力を分かち合い、二人でファンクラブをつくり、キャーキャー騒いでいるわけである。
なんというか、だから、ロジオンがプリヘーリヤの手紙でドゥーニャの婚約の話を知って婚約相手のルージン氏を殴り倒してやりたいというのはまあ兄としては妹を想って当然のことかもしれないが、客観的にみると、筋の通らない話であると私は思う。
ドゥーニャだってルージン氏の婚約を利用したってことじゃないかと思うからだ。
文面をみるに、ドゥーニャにはルージン氏を愛してはいないだろう。冗談とはいえ結婚前に自分が結婚するのは兄さんに会うためだというのはどうもおかしい。
まあルージン氏もドゥーニャやプリヘーリヤに対する行動から察するに愛は感じられないし、二人の結婚はお互いに利益を得るためになされた政略結婚のようなものである。
そこに愛はない。お金持ちのルージン氏は誠実ながら持参金のない、一度は貧しい境遇を味わったことのある娘を嫁に迎えたかったわけで、貧しいドゥーニャは都会で困っているという大好きなお兄ちゃんの力になるためにお金や仕事を回してあげたくて。
そういう二人が偶然にも出会い、そして自分の欲を満たしてくれる相手に巡り合った。
ドゥーニャはしっかりもので頭がいいのだ。
彼女はこう考えたはずだ。ルージン氏は性格は好きではないが、顏も悪くないし、世間体も悪くない、なにより金をもっている。これでお兄ちゃんの力になれる。お兄ちゃんが喜んでくれて、自分のことをより愛してくれるだろうと。
そこで、うまい話をもってきたルージン氏の話に乗ったのである。
愛はなくとも、利益は生じている。
なんと冷めた関係だろう。ただ淡々と手続きをしているようなものである。
ルージン氏がドゥーニャを嫁に選びながら大事にしないのは、少々乱雑に扱っても大丈夫という都合の良い妻としか思っていないのもあるが、ドゥーニャのベクトルがロジオンに向き過ぎだからというのもあるだろう。ルージン氏だって一応ドゥーニャを嫁に迎えるにあたって徐々に仲良くはしていきたいと思っていたはずだ。
だけど、ドゥーニャときたら、ロジオンが大好き。
面倒事が嫌いで、自分のことは大好きだけど人に尽くすのは嫌いであろうルージン氏は、ドゥーニャにドゥーニャの兄であるロジオンの仕事の世話をみてほしいと言われて心底嫌だったはずだ。どうして俺がそんなことをしなければならないんだと。
それになんだ、俺は金持ちで、年はそりゃ結構離れていておじさんかもしれないが、もてるほうなのに、話はロジオンロジオン。
ルージン氏は気に食わないし、兄さんの話を押してくるドゥーニャをみて、嫌気がさした。でも、こんなに美しくて都合のいい女なかなかまた会えないかもしれない。
だから、ルージン氏は返答に実際に会ってから決めるとお茶を濁した・・・
というように私は感じた。ドゥーニャもそれに感づいて、ルージン氏が逃げて行かないようにその話を控えるようにしたようにみえる。
なんというか、ギスギスしている。婚約というより、仮面夫婦になるといったほうがよいのかもしれない。たぶんお互い結ばれても幸せにはなれないだろう。夫婦なのに愛情がなく、自信の役割をこなすだけの・・・もうなんかみていて昼ドラの感じがプンプンするような気がする。
たぶんルージン氏は愛の無い関係に飢えて、浮気するような感じがする。でも浮気してもドゥーニャは我慢強いから別に何も言うこともなく、気にしない素振り。
それにますます不満を募らせるルージン氏と浮気されたという屈辱に一人耐えて、兄を想う気持ちがどんどん募るというドゥーニャという関係性が手に取るようにわかる。
まさに昼ドラになりそうな夫婦である。
仮に、うまく仮面夫婦を続けられて、お互いのどちらかが死に際になったときに最後に、「実はお前のこと愛してはいなかったよ・・・。」「知っていましたよ。だって私もそうだったんですから。」と最後にカミングアウトし合って、少し愛情が芽生えるフラグがたつような気がする。私は昼ドラが大好きなので、こういう展開を考えるのは実に楽しい。
私がおすすめの昼ドラ「牡丹と薔薇」のような過激で、最後に打ち解けあって死んでいくというような展開が望ましいと密かに思っている。


プリヘーリヤの手紙(の中のアヴドーチヤ)について
櫻井遥日

 「プリヘーリヤの手紙の中でのドゥーニャについて」を書くべく、前回の課題とあわせ、もうかれこれ四度ほどこの長ったらしい手紙を読み返しています。しかし視点が変わらないと全く気の留まらないこともあり、その内の一つがドゥーニャがスヴィドリガイロフに宛てて書いたという手紙です。
 その手紙は、スヴィドゥリガイロフがドゥーニャに対して迫ったいわばセクハラの数々を詰るものだった、とプリヘーリヤは記しています。しかしここで問題なのが、そこに記されている悪行が「はっきりと指摘」されていたこと、そしてその直後にある「涙なしには読めないほどいじらしく」書かれていたという点です。ここに疑問を感じるに至ったのは、ゼミ内で軽く触れられていた「罪と罰の登場人物は皆狡猾である(散々課題文の中で取りあげていますが)」といい考察を聞いてからここを読み返したからであり、私には今、このドゥーニャの手紙がやっと「用意された証拠品」のように見えてきたのです。第三者に対して事件を告発するならともかく、その犯人に向かってわざわざ仔細に悪行を並べ立てる必要はそもそもありません。なのにドゥーニャがこのような書き方をしたのには、後になって面倒が起きたときに、自らの身を助ける情報としてこれを紙に残しておいたのではないかと推測します。さらにマールファの性分を知っていれば、この手がスヴィドゥリガイロフを充分に貶める事になるのも予想がついただろうと思います。ドゥーニャは極めてうまく復讐まで企てていたのかもしれないと考えると、この一本すじの通った気高い娘も恐ろしい存在に思えてきます。
 ところでスヴィドゥリガイロフが自白に至ったのには、当然プリヘーリヤの手紙にはありませんが彼なりの葛藤があったことでしょう。私は、前の感想文でも述べた「マルメラードフの告白はラスコーリニコフのソーニャへの告白に影響を与えている」という仮説と同じようなことがここにも当てはまるのではないかと思います。つまり、スヴィドゥリガイロフの葛藤が、ラスコーリニコフの殺人後の葛藤に関係があるのではないかと思うのです(この場合は影響ではなく暗喩でしょうか)。攻める側に証拠が揃っており、且つ罪人が泳がされて罪悪感や暴露への恐怖に苛まれる様は、作品の後期の展開に似通ったところがあります。
 私の方では残すところ二百ページ弱ほどの罪と罰。果たしてラスコーリニコフはスヴィドゥリガイロフと同じ最後を迎えるのか。一巻を離れそろそろ三巻に戻りたいと思います。

プリヘーリヤの手紙を読んで ドゥーネチカについて

渡部菜津美
ドゥーネチカについてはいうまでもない
ラスコールニコフの母、プリヘーリやの言う通り天使そのものだろう。
どんなにいじめられ、どんな仕打ちにも耐え忍び、覚えのない罪を着せられても怒ることすらない。
なんてできた人間だろう。
果たしてそんな人間が現代にいるだろうか。否。
しかし、私は思う。
ドゥーネチカよ それでいいのか?
まぁドゥーネチカだったら「もちろんよ。」と言うだろう。
いや、むしろ「どうしてそんなことを聞くの?」なんて逆に質問されるかもしれない。
ドゥーネチカにとって母とラスコールニコフは、自分の全愛情を注ぐ全てで、生きる意味でさえある。
だからそんな二人が存在していてくれるかぎり、どんな困難も喜んで受け入れ、怒りという感情を知らずに生きているのだろう。
人を憎むということがないのはおおいにけっこうなことだ。
しかしそれは人間といえるのだろうか?
もちろん本の中の登場人物にすぎないし、ドストエフスキーは存在することはありえない程の心の美しい少女を書きたかったのかもしれない。
だが、私はあえてドゥーネチカを一人の『存在する少女』として書きたい。

先ほども述べたとおり、ドゥーネチカはもはや人間ではない。
人間とは、喜怒哀楽のすべての感情を持っているから『人』なのだ。
嬉しいときは喜び、嫌なことがあったら怒り、哀しみにくれて泣き、楽しいときは笑う。
このどれかひとつが欠けていたら、人間という存在ではあっても『人』ではないだろう。
つまり、喜怒哀楽の『怒』が欠けているドゥーネチカは人ではないのだ。
しかも皮肉なことに怒りという感情を持たない人間が好かれない訳がない。むしろ尊敬さえされるだろう。彼女は天使のようだ、と。
だからこそ、ドゥーネチカの母のプリヘーリヤもラスコールニコフへの手紙で彼女のことを『天使』と連呼したのかもしれない。いや、絶対そうだろう。

余談だがもし私がドゥーネチカだったら。いや、ドゥーネチカの立場で仕事をしていたらの話をしたいと思う。
まず、好きな人だからこそついついいじめてしまうというまるで小学生の男子のような幼稚な脳をもつ主人のスウ゛ィドリガイロフさん。
私だったら荷物をまとめて、さんざん罵声を浴びせてから即刻初日に帰らせていただくが、私がドゥーネチカのように辞めたくても辞められない立場にいるとしよう。
まず、あからさまに「私はあなたが大嫌いです」という態度をとる。
いわれた仕事はきっちりこなしても、スウ゛ィドリガイロフさんの前では常に無表情。嫌悪感まるだし。いわゆる「顔に出す」というものである。
そして友達にスウ゛ィドリガイロフに悪口を散々書いた手紙を送る。もちろん親にも。
そして、かすかな嫌がらせを仕掛ける。(自分の名誉のために言うと、本当にちょっとしたやつです。)
あそしていよいよスウ゛ィドリガイロフが自分にあからさまに好意を示してきたこと。
これはドゥーネチカと一緒の行動をします。
手紙を書いて、口で「嫌です。」とキッパリ言う。
まぁまずあからさまにあなたが嫌いだということを態度で示しているわたしに、スウ゛ィドリガイロフが好意を示してくることはないでしょうけど。
話は戻りますが、このあとドゥーネチカはスウ゛ィドリガイロフのこの行動が原因で、スウ゛ィドリガイロフの奥さんマルファ•ペテローウ゛ナに夫をたぶらかしていると誤解されてしまいます。
しかも誤解されたまま屋敷を追い出され、やっとの思いで家についたらなんとご近所中に噂が広まっている。
いつの時代もおばさんの習性はかわらないんですね。
そうして、ドゥーネチカとプリヘーリヤはしばらくのあいだ、身を縮めて暮らさなければならなかった。
なんと辛いことでしょう。それなのにドゥーネチカは文句の一つも言わない。
私だったらそんなことありえない。それに奥さんが誤解した時点で、私は潔白だという証拠を見せるだろう。
現に、スウ゛ィドリガイロフが心を改めて証拠をみせたからドゥーネチカとプリヘーリヤは幸せになれたものの、もしいつまでもスウ゛ィドリガイロフ
が隠し通していたらいつまでもどん底の生活だったかもしれないではないか。
自分のしていないことは誰になんと言われようともしていないと主張する。
これは私のポリシーであり、譲れないプライドでもあるのだ。

しかし、私はドゥーネチカの行動についてあれこれ言いません。
ドゥーネチカは耐えた。神を信じ、いつかは潔白が証明されると思って待っていた。そしてその結果、潔白は証明されただけではなく、高い地位の人に求婚され、素敵な人との結婚も決まった。
それはプリヘーリヤやラスコールニコフをも幸せにする結婚であり、ドゥーネチカにとってはこのうえない幸せだろう。
耐え忍ぶことですばらしいものを手にすることができた。
もちろんそれは現実ではあまりないことだし、私も自分のポリシーは大事にしたい。
しかし、これだけは言える。良いことも悪いことも、自分がしたことは自分にかえってくる。全ては繋がっているのだ。