清水正「ソーニャの部屋 ──リザヴェータを巡って──(連載20)   〈もうおしまいになった人間〉ポルフィーリイを巡って ──「回想のラスコーリニコフ」の頃を回想して──(5)」江古田文学107号より再録

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動画撮影は2021年9月8日・伊藤景

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ソーニャの部屋

──リザヴェータを巡って──(連載20)

〈もうおしまいになった人間〉ポルフィーリイを巡って

──「回想のラスコーリニコフ」の頃を回想して──(5)

清水正 

「回想のラスコーリニコフ」でわたしは次のように書いている。

 

    私は更生の可能であったラスコーリニコフの人生を拒絶され、死せる饒舌家ポルフィーリイの同胞とならざるを得なくなった。ラスコーリニコフの懊悩も理論的行き詰まりも、それ故の老婆殺害も、ソーニャとの出合いも、それを契機とした復活も、すでに私には不要のものとなってしまった。そして、ラスコーリニコフの人生が私にとって不要であることを自覚し、ポルフィーリイと同じ視点に立った時、私には私なりに『罪と罰』の隠された部分が見え始めてきたのであった。(18)

 

罪と罰』を読む青年の大半はおそらく自分自身とラスコーリニコフを同一化するのではなかろうか。ひとのことはともかく、わたしにとってラスコーリニコフは実に親しい存在であった。しかし、わたしは同時にラスコーリニコフとの決定的な違いも感じ続けていた。なにしろラスコーリニコフは二人の女の頭上に斧を振り下ろした青年であるが、わたしは人を殺したことはない。この違いを明確に自覚して、ラスコーリニコフに親近性を抱くのは自己欺瞞でしかあるまい。わたしは殺人者ラスコーリニコフよりも「おしまいになってしまった」ポルフィーリイにこそ親近性を覚えたのである。

 当時、わたしは自分をポルフィーリイに同化させながら、しかし同時にポルフィーリイに復活の可能性はないのかとも考えていた。それは先に書いたように、ポルフィーリイを「すっかりおしまいになってしまった人間」とは見ていなかったからである。が、作者は確かにポルフィーリイ自身の口を通して彼が〈すっかり〉おしまいになってしまった人間であることを言明している。要するに、殺人者ラスコーリニコフに復活更生は可能だが、「すっかりおしまいになってしまった」ポルフィーリイに復活更生の可能性は全くなかったということになる。

 ところで、ポルフィーリイの発する言葉についてラスコーリニコフはほとんどなにも突っ込みをいれない。なぜラスコーリニコフポルフィーリイに向かって「すっかりおしまいになってしまった人間」とはどういうことを意味するのかと問わないのであろう。失恋したばかりのわたしはそれを、いっさいのことに〈さようなら〉をした絶望者と解釈したが、後に米川正夫訳で〈生活〉と訳された〈жизнь〉がイエスが口にした〈命〉であることを知って、それは〈命〉に飛び込むことのできない人間を指しているのだと理解した。しかしこう理解したからと言ってすべてを了解したわけではない。なぜポルフィーリイはイエスの〈命〉に飛び込むことができなかったのか、という疑問は依然として残る。作品の中ではいっさい触れられることのなかったポルフィーリイの「おしまいになってしまった」体験とはいったいどういうことであったのか。想像力を限りなくたくましくしてもこのポルフィーリイの〈体験〉を可視化するのは容易ではない。また、なぜポルフィーリイはまるで預言者のごとくラスコーリニコフに「神はあなたに生命を準備してくだすった」とか「何も考えずにいきなり生活へ飛び込んでお行きなさい」とか言えるのであろうか。

 ポルフィーリイは設定としては予審判事だが、ラスコーリニコフに関しては一流の心理分析官であり鋭利な批評家であり、そして預言者としても振る舞っている。わたしはポルフィーリイが預言者としてラスコーリニコフに肯定的な未来を約束しているのは、彼が作者と結託した存在であったからだと思っている。もしポルフィーリイが作者と結託した存在でなかったならば、ラスコーリニコフに対してきわどい質問の数々を発することができたであろう。

 たとえば、「なぜあなたは殺しの対象に高利貸しの婆さんを選んだのです。あなたが自分をナポレオンと見なしていたのなら、殺しの対象をちっぽけなシラミの代わりに、我が国の絶対専制君主、すなわち皇帝をこそ選んだのではないですか?」「あなたは殺人の目撃者リザヴェータを斧で叩き殺してしまいましたが、もし目撃者があなたの愛する母親や妹のドゥーニャであってもあなたは躊躇なく斧を振り下ろすことができましたか?」「あなたは殺人の道具に斧を選びましたが、なぜ斧にこだわったのですか?」──こういった問いは作者が作中に仕掛けた秘密を暴くことになるので、作者と結託したポルフィーリイは間違っても発することはない。作中に仕掛けられた謎を解くのは作中批評家ポルフィーリイの役目ではなく、テキストを眼前にする批評家である。

 ラスコーリニコフが独語した「いったいあれがおれにできるのだろうか?」(4)の〈あれ〉の内には〈老婆アリョーナ殺し〉ばかりでなく〈リザヴェータ殺し〉も、〈皇帝殺し〉も含まれていたが、このことが当時の検閲官や編集者、そして読者に分かられてはならなかった。ドストエフスキーが『罪と罰』に埋め込んだ仕掛けはそうそう簡単には暴かれないのである。小林秀雄が指摘したように「ラスコオリニコフを知ろうと思うものは、先ずポルフィイリイに転身」する必要があるが、それだけでは足りないのである。ポルフィーリイに転身しただけでは、作者と結託したポルフィーリイの発する言葉の裏に隠されたものを見ることができない。作者はエピローグでラスコーリニコフを復活の曙光に輝かせた。つまり「いったいあれがおれにできるのだろうか?」の〈あれ〉を〈復活〉として成就させた。まさに作者と結託していたポルフィーリイは作者がラスコーリニコフに用意した最終的な〈あれ=復活〉を予め知っていたということである。ラスコーリニコフの運命を最終的に決定づけられるのは作者である。ラスコーリニコフには〈復活〉の他に〈発狂〉〈自殺〉〈さらなる殺人〉など様々な可能性があったにもかかわらず、作者は〈復活〉に決定した。なぜ、作者は様々な可能性の内から〈復活〉を選んだのか。このことに関して、わたしは何度でも立ち止まり検証を続けたい。なぜなら、わたしはわたしであって、作者と結託したポルフィーリイではないからである。

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撮影・伊藤景

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ポスターデザイン・幅観月