清水正「ソーニャの部屋 ──リザヴェータを巡って──(連載23)  〈もうおしまいになった人間〉ポルフィーリイを巡って ──「回想のラスコーリニコフ」の頃を回想して──(8)」江古田文学107号より再録

21日のズームによる特別講義

四時限目

https://youtu.be/m9e43m4Brmw

五時限目

https://youtu.be/itrCThvIhHQ

近況報告

清水正・批評の軌跡」展示会は24日に無事に終了。コロナ禍で会場に足を運ぶことのできる人は少なかったと思いますが、動画や写真の発信で少しは補えたかと思っています。展示会を企画・準備・開催してくださった文芸学科のスタッフの方々、山下ゼミの学生さんたちに感謝申し上げます。21日のズームによる特別講義は、途中、パソコンの不具合により受講の方々にご迷惑をおかけしました。編集した動画がいずれ「清水正・批評の軌跡」Web版に載る予定ですので、ぜひそちらの方もご覧になってください。

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動画撮影は2021年9月8日・伊藤景

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清水正・批評の軌跡Web版で「清水正ドストエフスキー論全集」第1巻~11巻までの紹介を見ることができます。

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ソーニャの部屋

──リザヴェータを巡って──(連載23)

〈もうおしまいになった人間〉ポルフィーリイを巡って

──「回想のラスコーリニコフ」の頃を回想して──(8)

清水正 

    さて、この辺でラスコーリニコフの独語に戻ろう。ラスコーリニコフは〈あれ〉が本当にできるだろうかと考えた。この時点で、〈あれ〉はなんら現実味を帯びていない。〈あれ〉は「まったく真面目な話でなく」〔Совсем не серьзно〕、単なる〈空想〉(фантазия)であり、〈玩具〉(игрушка)の域にとどまっている。作者は〈あれ〉(это)をわざわざイタリック体にして読者に注意を促していた。つまりこの〈あれ〉には〈アリョーナ婆さん殺し〉〈リザヴェータ殺し〉〈皇帝殺し〉そして〈復活〉まで含まれていた。今まで〈あれ=アリョーナ婆さん殺し〉と受け取られてきたが、その表層的次元での解釈でさえ、〈あれ〉はラスコーリニコフにとっては〈空想〉〈玩具〉としてとらえられていた。そして、わたしにとっても〈あれ=空想、玩具〉は極めてリアリテイがあった。

 なぜラスコーリニコフは〈あれ〉を実行してしまったのか。そんなことをいくら考えてもむだである、現にラスコーリニコフは二人の女の頭蓋を斧で叩き割ってしまったではないか。考えずに見ることだ。小林秀雄はこのようなことを書いていた。確かに、小説の中で起きてしまった事に異議を唱えても詮無いことだ。が、それを承知でわたしは異議を唱え続けてきた。わたしはラスコーリニコフの〈殺人〉から〈復活〉に至る物語を屋根裏部屋における〈真夏の夢〉とさえ書いた。この考えは未だに変わっていない。

 要するにわたしは作者が書いたことをそのまま全面的に認めるようなことはない。テキストを絶対視する評家は、そのことで作者を神の如く見なすのであろうか。わたしはテキストに対する作者の位置を相対化して見ているので、テキストを絶対不動のものと見なすことはない。

 作者ドストエフスキーは〈あれ〉を実行してしまったラスコーリニコフを描いたが、わたしは相変わらず〈空想〉〈玩具〉の次元で〈あれ〉を弄んでいるラスコーリニコフに現実味を覚える。その根拠を問われれば、まず第一にわたし自身が〈あれ〉を実行しない部類に属しているということである。これは作者にとっても同じ事である。ドストエフスキーは殺人を犯す主人公を描く側の人間であって、彼自身がラスコーリニコフのように二人の女の頭上に斧を振り下ろしたわけではない。

 犯罪に関する論文を書いて新聞に投稿し採用されるほどの分析力、文章力を持っていたラスコーリニコフに相応しいのは〈斧〉ではなく〈ペン〉であり、もし彼がその方面での努力を怠らなければ、やがていっぱしの文筆家として独り立ちできた可能性は高かった。学費未納入で大学を除籍処分された、貧乏な屋根裏部屋の思索家の未来が完璧に閉ざされていたわけではない。〈あれ〉を実行するよりは、〈あれ〉を素材にして論文や小説を書く側の人間になる方がどれだけ現実的であるかということである。

 この現実的なことを打ち捨てて、ラスコーリニコフに〈あれ〉を実行させたのは、決して〈あれ〉を実行しない作者である。ドストエフスキーは、一級の創作家であるからか、絶対に〈あれ〉を実行しない青年に〈あれ〉を実行させることができる。つまりそのように描くことができる。読者は作者が描いた事実に黙って従え、わたしはそんな声を聴いたことが一度もない。わたしは一人の読者として自由であり、テキスト解読に関してなんびとの指図も受けることはない。

(「江古田文学」107号からの再録ですが、ネット上で読みやすくするため改行を多くしてあります)

 

清水正著『ウラ読みドストエフスキー』を下記クリックで読むことができます。

清水正•批評の軌跡web版 - ウラ読みドストエフスキー

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撮影・伊藤景

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ポスターデザイン・幅観月