清水正「ソーニャの部屋 ──リザヴェータを巡って──(連載17) 〈もうおしまいになった人間〉ポルフィーリイを巡って ──「回想のラスコーリニコフ」の頃を回想して──(2)」江古田文学107号より再録
動画撮影は2021年9月8日・伊藤景
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ソーニャの部屋
──リザヴェータを巡って──(連載17)
〈もうおしまいになった人間〉ポルフィーリイを巡って
──「回想のラスコーリニコフ」の頃を回想して──(2)
小林はポルフィーリイが口にした「もうお了いになった人間」について言及しない。そんなことは言及するまでもなく自明であるかのように、ポルフィーリイの言葉に立ち止まることがない。が、わたしはこのポルフィーリイの言葉にこだわり続けてきた。未だにこだわっている。
ポルフィーリイはラスコーリニコフに「あなたはいったい何者です!」と問われて、次のように応えている。まずは前半部を引用しておく。
「わたしが何者かって? わたしはもうおしまいになった人間です。そりゃまあ感じもあれば、同情もあり、何かのこともちっとは心得た人間かもしれませんが、しかし、もうおしまいになった人間です。ところが、あなたは別ものです。神はあなたに生命を準備してくだすった(もっともあなたの場合だって、煙のように消えてしまって、何も残らないかもしれない、そりゃだれにもわかりませんがね)。あなたが別な人間の部類へ移ったからって、それがなんです? まさか、あなたのような心をもっている人が、コムフォート(安逸)なんか惜しむのじゃないでしょう? またあまりにも長い間、人があなたを見ないことになるかもしれないが、いったい、それしきのことがなんです? 問題は時にあるのじゃなくて、あなた自身の中にあるのです。太陽におなりなさい、そうすれば、みんながあなたを仰ぎ見ますよ! 太陽は、まず第一に太陽でなければなりません。」(525)
──Кто я? Я поконченный человек, больше ничего. Человек, пожалуй, чувствующий и сочувствующий, пожалуй, кой-что и знающий, но уж совершенно поконченный. А вы──другая статья: вам бог жизнь приготовил(а кто знает, может, и у вас так только дымом пройдет, ничего не будет). Ну что ж, что вы в другой разряд людей перейдете? Не комфорта же жалеть, вам-то, с вашим-то сердцем? Что ж, что вас, может быть, слишком долго никто не увидит? Не во времени дело, а в вас самом. Станьте солнцем, вас все и увидят. Солнцу прежде всего надо быть солнцем. (ア・352)
まず疑問はポルフィーリイはいったい何をもって自分を「おしまいになった人間」と見なしているかである。わたしは勝手に失恋後の絶望を受け入れざるをえなかった自分のことを「おしまいになった人間」と見なしたが、作中でポルフィーリイはこのことについて何ら説明していないので本当のことは分からない。分かるのは、ポルフィーリイはラスコーリニコフに対して「神はあなたに生命を準備してくだすった」〔вам бог жизнь приготовил〕と言っているから、ポルフィーリイは神から〈生命〉を授けられなかった存在ということになる。
ポルフィーリイのラスコーリニコフに対する言葉は暗示的で預言者的な趣を持っている。「──がまあ、あまり理くつっぽくせんさくしないで、何も考えずにいきなり生活へ飛び込んでお行きなさい。心配することはありません──ちゃんと岸へ打ち上げて、しっかり立たせてくれますよ」(524)〔 а вы лукаво не мудрствуйте; отдайтесь жизни прямо, не рассуждая; не беспокойтесь, прямо на берег вынесет и на ноги поставит.〕(ア・351)などもその代表的な言葉である。
二十歳前後のわたしは家族の皆が寝静まった深夜、ひとり起きてドストエフスキー論を書いていたから、まさにふつうの生活人と真逆の観念的な生活を送っていた。だからこのポルフィーリイの言葉を読んだとき、彼の言う〈生活〉を健全な生活者の生活と受け取って疑わなかった。
ところが後に原典にあたってこの〈生活〉は〈жизнь〉で、これはイエスが〈ラザロの復活〉の場面で口にする「われは甦りなり、命なり」(368)〔Я есмь воскресение и жизнь〕(ア・250)の〈命〉(жизнь)を指していることを知って衝撃を受けた。以来、わたしはドストエフスキー文学を翻訳でのみ読むことの危険性を感じ、必ず原典にあたることにした。ポルフィーリイはラスコーリニコフに向かって四の五と考えずにいきなりイエスの〈命〉に飛び込んでしまえ、そうすれば必ず向こう岸へと立たせてくれると言っていたのである。
清水正著『ウラ読みドストエフスキー』を下記クリックで読むことができます。
撮影・伊藤景