「清水正・批評の軌跡──ドストエフスキー生誕200周年に寄せて」展示会の感想を何回かにわたって紹介します。

清水正・批評の軌跡──ドストエフスキー生誕200周年に寄せて」展示会の感想を何回かにわたって紹介します。

【1】

進学や進路選択の折にたびたび直面してきた、「どんな人生を送るか」という難題。これという一つの対象を思い浮かんだことも、何か一つに捧げる人生も、想像したことはなかった。

そんな私には清水正氏の一声が、『何かに人生を捧げる喜び』=人生への問いに対する答えへと結びついたように感じた。

「なぜこんなにもドストエフスキーに執着するのか。それは彼の文学が十九世紀ロシア文学という時代と民族を超えて、今日に生きるすべての人間の諸問題に肉薄しているからである(ウラ読みドストエフスキーより)」

批評の奇跡の展示では、清水氏の著書のひとつひとつが彼の子どものようで、まるで親の帰りを並んで待っている時間が流れているかのような重厚な展示だった。

人間の神秘を解きあかすために全生涯をかけて小説を書き続けたドストエフスキーと文学を通して対話すること。それは世の無常感と、それでも生き続ける人間とはいったいなんなのかという人生をかけた清水正氏の人生をかけた「人間」を諦めないための答えなのだろう。何が善か。何が悪か。戦後に生まれ平和を掲げる世界に育ち、それでも地球のあちこちでは人々が憎しみあい殺し合う。そんな矛盾の中で自己を保つもっとも大きな存在が、ドストエフスキーだったのだと捉えられた。

ではわたしはなにを礎に、この不条理な世界を捉えるのか。

手段こそ違えど、表現することを止めたくはないと強く思う。

神はどうやらいないということが分かっていて、〈愛〉とか〈赦し〉が虚しい言葉になったとしても、人々は祈り願いすがることをやめない。それは、芸術が、時代が変われど存在し続け求められ続ける、という確証をおびているのではないだろうか。

【2】

清水正先生の批評の展覧会を見た。当時の執筆時に使われた媒体や先生の数多くの著物を見て感じたのは先生の批評対象に対する、言い方が分からないがあえて言うなら狂気的に迫るような愛情を強く感じた。これを最初に感じたのは先生が言っていた「一度読んだだけじゃ本を理解することなんて出来ない」という言葉を聞いた時に、先生が批評対象のことが好きなんだなということが理解出来た。なぜなら単純で嫌いなものを何回も読んで、それを誰よりも理解しようなんて考えは人間には浮かんでこないと考えたからだ。それに付箋だらけの本を見て、自分は恐怖に似た感覚を感じた。あそこまで付箋を張り、内容を理解しようとするのは言葉を選ばずに言うなら狂気的だと自分は感じてしまった。しかしこれは先生を批判するわけではなく、かえって自分のように集中力がない人間からすると素晴らしいと思った。このような、いわば狂気的な愛情こそが、表現する情熱の源なのではないかと感じた。

21日のズームによる特別講義

四時限目

https://youtu.be/m9e43m4Brmw

五時限目

https://youtu.be/itrCThvIhHQ

 

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動画撮影は2021年9月8日・伊藤景

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清水正・批評の軌跡Web版で「清水正ドストエフスキー論全集」第1巻~11巻までの紹介を見ることができます。

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ソーニャの部屋

──リザヴェータを巡って──(連載23)

〈もうおしまいになった人間〉ポルフィーリイを巡って

──「回想のラスコーリニコフ」の頃を回想して──(8)

清水正 

    さて、この辺でラスコーリニコフの独語に戻ろう。ラスコーリニコフは〈あれ〉が本当にできるだろうかと考えた。この時点で、〈あれ〉はなんら現実味を帯びていない。〈あれ〉は「まったく真面目な話でなく」〔Совсем не серьзно〕、単なる〈空想〉(фантазия)であり、〈玩具〉(игрушка)の域にとどまっている。作者は〈あれ〉(это)をわざわざイタリック体にして読者に注意を促していた。つまりこの〈あれ〉には〈アリョーナ婆さん殺し〉〈リザヴェータ殺し〉〈皇帝殺し〉そして〈復活〉まで含まれていた。今まで〈あれ=アリョーナ婆さん殺し〉と受け取られてきたが、その表層的次元での解釈でさえ、〈あれ〉はラスコーリニコフにとっては〈空想〉〈玩具〉としてとらえられていた。そして、わたしにとっても〈あれ=空想、玩具〉は極めてリアリテイがあった。

 なぜラスコーリニコフは〈あれ〉を実行してしまったのか。そんなことをいくら考えてもむだである、現にラスコーリニコフは二人の女の頭蓋を斧で叩き割ってしまったではないか。考えずに見ることだ。小林秀雄はこのようなことを書いていた。確かに、小説の中で起きてしまった事に異議を唱えても詮無いことだ。が、それを承知でわたしは異議を唱え続けてきた。わたしはラスコーリニコフの〈殺人〉から〈復活〉に至る物語を屋根裏部屋における〈真夏の夢〉とさえ書いた。この考えは未だに変わっていない。

 要するにわたしは作者が書いたことをそのまま全面的に認めるようなことはない。テキストを絶対視する評家は、そのことで作者を神の如く見なすのであろうか。わたしはテキストに対する作者の位置を相対化して見ているので、テキストを絶対不動のものと見なすことはない。

 作者ドストエフスキーは〈あれ〉を実行してしまったラスコーリニコフを描いたが、わたしは相変わらず〈空想〉〈玩具〉の次元で〈あれ〉を弄んでいるラスコーリニコフに現実味を覚える。その根拠を問われれば、まず第一にわたし自身が〈あれ〉を実行しない部類に属しているということである。これは作者にとっても同じ事である。ドストエフスキーは殺人を犯す主人公を描く側の人間であって、彼自身がラスコーリニコフのように二人の女の頭上に斧を振り下ろしたわけではない。

 犯罪に関する論文を書いて新聞に投稿し採用されるほどの分析力、文章力を持っていたラスコーリニコフに相応しいのは〈斧〉ではなく〈ペン〉であり、もし彼がその方面での努力を怠らなければ、やがていっぱしの文筆家として独り立ちできた可能性は高かった。学費未納入で大学を除籍処分された、貧乏な屋根裏部屋の思索家の未来が完璧に閉ざされていたわけではない。〈あれ〉を実行するよりは、〈あれ〉を素材にして論文や小説を書く側の人間になる方がどれだけ現実的であるかということである。

 この現実的なことを打ち捨てて、ラスコーリニコフに〈あれ〉を実行させたのは、決して〈あれ〉を実行しない作者である。ドストエフスキーは、一級の創作家であるからか、絶対に〈あれ〉を実行しない青年に〈あれ〉を実行させることができる。つまりそのように描くことができる。読者は作者が描いた事実に黙って従え、わたしはそんな声を聴いたことが一度もない。わたしは一人の読者として自由であり、テキスト解読に関してなんびとの指図も受けることはない。

(「江古田文学」107号からの再録ですが、ネット上で読みやすくするため改行を多くしてあります)

 

清水正著『ウラ読みドストエフスキー』を下記クリックで読むことができます。

清水正•批評の軌跡web版 - ウラ読みドストエフスキー

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撮影・伊藤景

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ポスターデザイン・幅観月