帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載23) 師匠と弟子
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師匠と弟子
福音書に描かれたイエスは、『罪と罰』のマルメラードフがラスコーリニコフに向かって説いた悪人正機的な、どんな卑劣な人間をも最終的には赦すといった優しい神様ではない。彼の言動を真に理解できない弟子たちにいつも苛立ち、激しく厳しい言葉を発していたのが福音書のイエスであり、その肖像は十九世紀の作家ドストエフスキーが思い描いていたような真に美しく善良な理想的なものとは異なっている。
たとえば、ドストエフスキーがキリストの具現化を目指して描いたというムイシュキン公爵やアリョーシャ・カラマーゾフは福音書に登場するイエスとは明らかに異なっている。イエスは人間イエスから神の子キリストへと変容するその過渡期の姿を福音書記者によって描かれているが、ムイシュキン公爵やアリョーシャ・カラマーゾフはあくまでも人間の次元にとどまっている。ドストエフスキーは彼らを神秘のヴェールに包み込んで神聖化することはなかった。ドストエフスキーは処女作『貧しき人々』から最晩年の未完の大作『カラマーゾフの兄弟』に至るまで、あくまでも人間を主人公として小説を描き続けた。そこでは天使も悪魔も神も人間存在から超脱して独自の存在性を主張することはなかった。イワン・カラマーゾフにおける〈悪魔〉、アリョーシャ・カラマーゾフにおける〈天使〉は存在しても、悪魔や天使や神が主体性を確保して登場することはない。その意味でドストエフスキーはどこまでも近代の作家であって、理性や知性の次元をファンタスティックに飛び越えて、読者を空想、妄想、信仰へと洗脳するようなことはしなかった。
ドストエフスキーは「人間の謎」を解こうとした作家であって、謎そのものに無条件に寄り添おうとした作家ではない。「何でもしてくださる」と無条件に神を信じていたのは狂信者ソーニャであって、決してドストエフスキーではない。ソーニャの信じる神に跪拝したのはエピローグにおけるラスコーリニコフではあっても、ドストエフスキー自身がソーニャとラスコーリニコフの〈信仰〉を共にしていたという証にはならない。ドストエフスキーは〈信〉と〈不信〉の間を永遠に揺れ動いたディオニュソス的な作家であり、この作家の内実を包みきれる存在をひとりイエス・キリストに求めることができるかどうかをこそ問わなければならない。
ドストエフスキー文学に関心のあるひとはぜひご覧ください。
「清水正先生大勤労感謝祭」の記念講演会の録画です。
https://www.youtube.com/watch?v=_a6TPEBWvmw&t=1s
「池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」
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これを観ると清水正のドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。
ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube