帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載24) 師匠と弟子

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近況報告

近藤承神子さんから五味康祐の著書が二冊送られてきた。そのうちの一冊『西方の音』(中公文庫)を読み終えた。わたしは髭もじゃの五味康祐をテレビなどで見知っていたが、彼が剣豪小説家であるという以外のことはなにも知らなかった。つまり彼の存在はわたしにとって何の影響もなかったし、今回近藤氏がこの本を送ってこなかったらまったく無縁の存在に終わっただろう。

五味康祐はオーディオの飽くなき探求者であり、本の中身ももっぱら彼が聞き続けてきたクラシック音楽とオーディオ蒐集にまつわるマニアックな話で構成されている。鬼気迫る蒐集熱で読んでいて圧倒される。テレビで抱いていた通俗的なイメージはすぐに払拭された。

本書に三か所ほどドストエフスキーに関する言及があった。夫々興味深いので引用して紹介しておこう。

外国文学で、ドストエフスキーバルザックをのぞけば、もっとも深く感銘し繰り返し読みふけったのはリルケの著作である。(50)

ゲーテはワグナーに比べれば聡明すぎるし、バルザックは人間的な幅がまるでない。辛うじて、ワグナーに匹敵する感動を文学で現代にもたらしたのはドストエフスキーかと思う。(139)

ハンス・ホルバインの描いた『墓の中のキリスト』という絵がバーゼル美術館にあるが、ドストエフスキーはこの絵を見て「人々から信仰を奪いかねない」と叫んだそうだ。たしかにこれほど凄惨なイエス・キリストを私は見たことがない。同時代のドイツの今一人の画家グリューネバルトの『十字架のキリスト』をコルマール美術館で見たときも、これほどの凄絶さは受けなかった。

 ホルバインのは、言ってみればリアリズムである。一五二〇年代の作である。カンタベリーのアンセラムらにより、すでに神の存在の証明にリアリズムが顔を出しているとは言え、古くはギリシャやゴシック彫刻に神も人間的・現実的生体と肉感を付与されたと断ってみた所で、なんになるか。イエスがナザレの大工のせがれであることは分りきっている。十字架にかかったのは、だが、ナザレのイエスではなくてすでにキリストなのである。神に一つの理想化された生体美を与え、崇厳にこれを描くことこそが、他ならぬリアリズムではないのか。宗教心でのリアリズムとはそういうものだと私は思う。イエスが放尿している図を描くのはばかげていると同様、『墓の中のキリスト』のリアリズムを私は採らない。(173~174)

三番目の言及に関しては、引用だけではすまされない重要な問題提起を感じる。が、ここでは私見を述べることは控えよう。

もう一か所、紹介したい箇所がある。

 私は日本人だから、ノーベル文学賞といえば──川端康成三島由紀夫氏らを連想するが、このすぐれた日本人も、しょせんは井の中の蛙ではないか。全世界の人々に、救世主として待ち望まれる文業を本当に想定できるだろうか。日本でいうエリートとは、せいぜい東大出である。神を有たなくても彼自身痛痒は感じないし、ジャーナリズムもそんなことは気がつかない。そういう国に、私はいる。まぎれもなく私はそんな日本人の一人だ。大学はかつて神学を講義する場として建てられた。およそ神を抜きにした思想など西洋にあり得ない。神観念をもたぬ哲学はない。言葉も同様だろう。日本人だけが、神をほったらかしてヘーゲルを論じマルクスを語る。バッハやベートーヴェンを聴いている。断じて私もそんな一人だった。(292)

来年2021年は日本大学芸術学部創設100周年である。実質的な創設者松原寛は苦悶と求道の哲人であった。今、わたしは「松原寛&ドストエフスキー」特集の『ドストエフスキー曼陀羅』の編集と校正に従事している。松原寛の著作を読めば、彼の哲学がおつにすました机上の空論でないことはすぐに分かろう。松原寛は苦悶と求道の宗教的な哲学者であり、生涯を通じて神を求め続けていた。哲学、神学なき大学はもはや大学とは言えまい。いくら設備を整え、規模を拡大しても、大学人に哲学、神学がなければそれは就職予備校にすぎない。大学人はここに引用した五味康祐の言葉を苦く噛み締めなければなるまい。

帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載24)

師匠と弟子

清水正

 

    ペテロは、遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の庭の中まではいって行った。(14章54節)

 

    ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中のひとりが来て、

  ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。「あなたも、あのナザレ人、

あのイエスといっしょにいましたね。」

  しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない。」と言って、出口のほうへと出て行った。

  すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、「この人はあの仲間です。」と言いだした。

  しかし、ペテロは再び打ち消した。しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」

  しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません。」と言った。

  するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います。」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。(14章66~72節)

 ペテロはなぜ危険を犯してまで逮捕されたイエスの後を追って行ったのか。ペテロはイエスの弟子として、イエスの身を守る者として大祭司の庭に至りついたのではない。ペテロはいわば目撃者としての役割をはたすためだけにイエスの後を追ったに過ぎない。ペテロはすぐに大祭司の女中にイエスといっしょにいた者であることを見破られてしまう。この女中はかつてペテロがイエスと行動を共にしていたのを見ていたのか、それともペテロは肉体や衣装においてナザレ人としての特徴を備えていたのか。言葉を発すればナザレ人独特のなまりでもあったのか、いずれにせよペテロはイエスの仲間であることを看破されてしまう。イエスの預言通り、三度にわたってイエスを知らないとしらを切ったペテロは、その後、どのような扱いを受けたのか、マルコはいっさい触れない。

  ユダの裏切りとペテロの裏切りではその性格を異にする。ユダの裏切りはあくまでも自覚的である。書かれてはいないが、ユダにはイエスを裏切る明確な理由があったはずである。ユダはイエスが神の子を僭称する不埒な者と思っていたのかもしれない。ペテロはイエスの何たるかを分かっていないが、イエスの圧倒的な力の前にはひれ伏すしかない無力な存在であった。ペテロはイエスに悪魔と罵られても反逆の牙を剥くことはできなかったし、最後の晩餐においてもイエスへの忠誠を誰よりも強く口にしている。にもかかわらずペテロはイエスの預言通りに行動してしまう。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません」と断言したペテロが、敵の陣営で三度もイエスを知らないと言い張ってしまうのである。

 イエスの預言の言葉に思い当たって、とつぜん泣き出したペテロは、はたしてこの時、真にそれまでの自己欺瞞に気づいたであろうか。欺瞞に覚醒して、さらなる欺瞞の底へと落ちていく者がある。ペテロの裏切りの構造は決して単純ではない。裏切りから脱する、さらなる裏切りというものがある。

 

 ドストエフスキー文学に関心のあるひとはぜひご覧ください。

清水正先生大勤労感謝祭」の記念講演会の録画です。

https://www.youtube.com/watch?v=_a6TPEBWvmw&t=1s

 

www.youtube.com

 

 「池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

 

 https://www.youtube.com/watch?v=KuHtXhOqA5g&t=901s

https://www.youtube.com/watch?v=b7TWOEW1yV4