帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載27) 師匠と弟子

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載27)

師匠と弟子

清水正
 イエスは弟子たちの無理解に対していらだちの感情を押さえ込むことはない。イエスは弟子たちと同じ時空を生きているが、彼らと実存の同時性を生きることができない。もし、弟子のうちの一人でもイエスと実存の同時性を獲得していた者があれば、イエスの孤独は解消されたであろう。が、同時にイエスは選ばれし者としての単独性を失うことになる。単独者が二人以上存在するとなれば、イエスの単独者としての聖性や権威はただちに相対化されてしまうことになる。
 弟子たちは生前のイエスと実存の同時性を獲得することはできなかった。裏切り行為やつまずきは、実存の異時性を生きざるを得なかった弟子たちにとって不可避的なことであった。もちろんイエスに表面上つき従っていただけの弟子たちは、実存の同時性も実存の異時性も理解していない。ペテロに限って言えば、彼はイエスをキリストと見なす以上に、新しい宗教上の仲間、友の一人として考えていたのではないかと言うことである。預言者は故郷に受け入れられないとはよく聞くが、同時代を生きた同じ年頃の青年たちにとっても、預言者がカリスマ性を存分に発揮することは難しいのである。ましてや衣食住を共にした共同生活を続けていれば、カリスマ性や威厳を保つことはより困難となる。福音書に描かれたイエスから、〈神の子〉の衣装を容赦なく剥ぎ取れば、ユダやペテロの裏切り行為も、仲間うちのそれとなる。この文脈で見れば、ユダの自殺、ペテロの泣く行為は、イエスをキリストの次元で再構成するための粉飾とさえ見えてくる。
  もう一度、ユダがイエスに口づけした直後の場面を見てみよう。

  すると人々は、イエスに手をかけて捕えた。

  そのとき、イエスのそばに立っていたひとりが、剣を抜いて大祭司のしもべに撃ちかかり、その耳を切り落とした。(マルコ福音書14章46~47節)

 大祭司の耳を切り落とした者がだれであったのかマルコは記していない。マタイ福音書とルカ福音書では次のように書かれている。

  すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。
  そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。
  それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。
  だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。」(マタイ福音書26章51~54節)

  イエスの回りにいた者たちは、事の成り行きを見て、「主よ。剣で撃ちましょうか。」と言った。
  そしてそのうちのある者が、大祭司のしもべに撃ってかかり、その右の耳を切り落とした。
  するとイエスは、「やめなさい。それまで。」と言われた。そして、耳にさわって彼を彼を直してやられた。(ルカ福音書22章49~51節)

  マルコ、マタイ、ルカの三福音書においてしもべの耳を切り落とした者の名前は伏されている。名前が明確に記されているのはヨハネ福音書のみである。

  シモン・ペテロは、剣を持っていたが、それを抜き、大祭司のしもべを撃ち、右の耳を切り落とした。そのしもべの名はマルコスであった。
  そこで、イエスはペテロに言われた。「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう。」(ヨハネ福音書18章10~11節)


 ペテロはイエスを守ろうとして剣を振るっている。が、すぐにイエスによってとめられる。なぜかペテロの行為はイエスの意に沿ったものとはならない。ペテロのやることなすことすべて裏目にでる。イエスはユダの裏切りによって逮捕されるが、ユダの裏切りの前に自ら出頭する気はない。かといって、敵側の者たちと徹底的に戦う姿勢を見せるわけでもない。こういった指導者の下につくものは、自分の行動を一義的に決定することができず、真剣に考え始めたらノイローゼになってしまうだろう。
 いずれにせよ、ペテロは大祭司のしもべの耳を切り落としてしまったのだから、彼の立場は明確である。イエスがペテロの行為をたしなめたことは、ペテロにとっても他の弟子たちにとっても理解不能であったろう。ユダはイエスを銀貨三十枚で売り飛ばし、いけしゃあしゃあとイエスの前に現れて接吻する。はたしてユダ以外の十一弟子たちは、この時、ユダの裏切りをはじめて知ったのであろうか。それとも、ユダが最期の晩餐の直後、姿をくらました時点で彼の裏切り者であることを確信していたのか。いずれにせよ、ユダが再び現れたのを見て、イエスの弟子たちの間に動揺が走ったのは確かであろう。弟子たちのうち誰もユダを撃とうとする者はなかったのであろうか。
 イエスはペテロに向かって「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。」と言う。それならなぜイエスは弟子たちに剣を持つことを許していたのかという疑問が起こる。進言すればサタン呼ばわり、イエスの身を守ろうとして剣を振るえばたしなめられる。イエスが逮捕されると弟子たちは逃げ出してしまうが、逃げ出すほかに何か手だてがあったであろうか。
 ペテロは逮捕されたイエスの後を追っていくが、すでに見たようにイエスの仲間であることを三度にわたって否定する。このペテロの三度の否定をどのように受け止めたらいいであろうか。もし、ペテロが素直に認めていればどうなったのか。彼もまたイエスと同様に逮捕されるのか。否、パリサイ派の者たちが狙っていたのはあくまでもイエス一人と言っていいだろう。自分たちが守ってきた教義、儀礼、慣習を根底から脅かすのはイエスであり、彼を処刑にすることが、彼らの第一の目的である。

   ドストエフスキー文学に関心のあるひとはぜひご覧ください。

清水正先生大勤労感謝祭」の記念講演会の録画です。

https://www.youtube.com/watch?v=_a6TPEBWvmw&t=1s

 

www.youtube.com

 

 「池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

 

 https://www.youtube.com/watch?v=KuHtXhOqA5g&t=901s

https://www.youtube.com/watch?v=b7TWOEW1yV4