帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載26) 師匠と弟子

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近況報告

五味康祐の『天の聲─西方の音─』(新潮社)を一気に読み終えた。モーツアルト、バッハ、ワーグナーの音楽を聴きながら。近ごろ、クラシック音楽を聴くことなどなかったが、今回は特別である。五味の音楽観には聞くべきものが多くある。五味の太宰治三島由紀夫に関する意見も面白かった。わたしは五味のこの本を読みながら、今書き続けている『罪と罰』の「ラザロの復活」場面を頭の中で交響楽的に再構成していた。わたしは十代の昔から作曲の才能があれば『カラマーゾフの兄弟』を壮大緻密な構成で作曲したいと思っていた。が、幸か不幸か作曲を勉強する機会に恵まれていなかったので、

文学作品(それは言うまでもなくドストエフスキーの作品群だが)を批評することに邁進することになった。わたしにとっての批評はテキストの解体と再構築で、それは役者、演出家または演奏家、指揮者の役割をも兼ねる。作者が「描かないで描いた世界」はもとより、作者すら想定しなかった場面をも観通したうえでの批評であるから、それはテキストを媒体とした独自の創造ともなる。この批評行為はもっぱら言葉によってなされるから、舞台、照明、衣装、演奏家・役者を必要としない。五味はいい音楽を聴くために、執拗にマニヤックにオーディオ装置にこだわったが、批評家のわたしにはそういった媒介装置に関する執着はない。テキストを創造的に読み込む想像力があれば事足りる。この力は単に努力すれば獲得できるものではない。わたしがドストエフスキー文学を批評し続けているのは運命であって、この運命を変更することはできない。ドストエフスキーに『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』を書かせている、あるなにものかとわたしは対話し続けているのであって、描かれた限りでのテキストを読み続けているのではない。

帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載26)

師匠と弟子

清水正

  神の子としての衣装を着せられたイエスに対して、弟子たちは限りなく人間としての弱さや卑小さを暴かれている。裏切り者ユダやペテロの内部世界に照明を与えれば、まさに一編の壮大な〈ドストエフスキー作品〉が創造されることになるだろう。

 ペテロは鶏が二度鳴く前に三度もイエスを知らないと口にした。イエスの言葉を思い出してペテロは泣いた。わたしが最初に福音書を読んだとき、ペテロの泣く姿に胸を熱くした。ペテロの慟哭が感染した。ペテロはこの時、イエスの言葉を理解したと思ったからである。わたしの言葉で言えば、この時ペテロはイエスとの実存の同時性を獲得したことになる。しかし、今回改めて読むと、ペテロの〈泣く姿〉はそうそう簡単に解釈するわけにはいかないと思った。イエスを裏切り続けるペテロのその〈裏切り〉は彼の内部世界に深く根を張っていて、本人の意志では排除しきれない性格を備えているように思える。

 ペテロはイエスから最初に「わたしについて来なさい」と声を掛けられた弟子である。ペテロにとってイエスは特別な存在であり、イエスとの関係性に絶対性を感じていたであろう。だからこそペテロはさしでがましい進言をしたりしてサタン呼ばわりされたりする。

 

 福音書に書かれたイエスの言葉は「わたしについて来なさい」である。この一言でペテロはイエスに従う。記者はイエスとペテロの関係についていっさい記していない。以前から関係があったのか、それともこの時が初対面であったのか。書かれた限りでこの場面を見れば、イエスの言葉には圧倒的な力がある。イエス新興宗教の教祖としての威厳があり、言葉を掛けられた者はその言葉に従う他はない。イエスとペテロの関係は教祖と信者、師匠と弟子といった関係に見える。が、後の弟子たちの愚かな言動を顧みると、これらとは異なった関係であったことも考えられないことはない。

 ペテロはイエスを本当に教祖あるいは師匠と思っていたのか。ペテロはイエスを先輩、仲間と思っていた可能性もある。ペテロの裏切り行為を見ると、彼が真にイエスをキリストと思ってつき従っていたとはとうてい思えない。イエスを三度知らないと言った後でペテロは泣くが、この泣く行為がペテロをさらなる自己欺瞞へと陥れていった可能性を否定することはできない。大胆なことを言えば、ペテロは最初から最後までイエスを裏切り続けた男でありながら、彼本人はイエスの教えに忠実であったと思いこんでいた節がある。あるいはその振りを全うしたとも言える。福音書を執拗にさまざまな角度から照明を与え続けると、イエスの弟子たちひとりひとりが生々しいリアリティを持ちはじめることになる。

 福音書記者は事実を端的に記して極力説明をしない。イエスもまた自分の発する言葉に対して、弟子たちにわかりやすく説明することはない。イエスは弟子たちの理解のなさを寛容に受け止めることはしない。

  ドストエフスキー文学に関心のあるひとはぜひご覧ください。

清水正先生大勤労感謝祭」の記念講演会の録画です。

https://www.youtube.com/watch?v=_a6TPEBWvmw&t=1s

 

www.youtube.com

 

 「池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

 

 https://www.youtube.com/watch?v=KuHtXhOqA5g&t=901s

https://www.youtube.com/watch?v=b7TWOEW1yV4