帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載25) 師匠と弟子
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師匠と弟子
わたしは現実を生きたイエスを知らない。イエスと共に生きて彼を裏切ったユダを知らない。無自覚のうちに裏切り続けるペテロを知らない。福音書記者マルコを知らない。知り得るのはマルコ福音書というテキストのみである。このテキストをもとに、そこに描かれたイエスとその弟子たちの肖像をわたしなりに浮上させるほかはない。
わたしの人間観から言えば、首を吊って死ぬユダよりも、あつかましくふてぶてしく生きながらえるユダの方が面白い。そのことでイエスの生き方に対するユダの生き方が鮮明になる。イエスを人間とのみ見れば、彼はマリアから生まれ、戒律を遵守するユダヤ教徒から疎まれ、十字架刑に処せられた新興宗教の教祖ということになる。生前のユダにとってイエスが神の子と思えたことは一度もない。マルコは、ユダがどういうわけで十二弟子のひとりに選ばれたのかについていっさい触れていない。が、敵側に銀貨三十枚でイエスを売ったということは、ふつうに考えればユダがイエスに対して何か根深い恨みと不信を抱いていたことを意味している。それともユダは、イエスとの信頼関係以上に金を第一に考える男だったのであろうか。どの時代にあっても人間が人間である限り、生きてあることの意味を問わない者はいない。イエスにおける生の意味とユダのそれとを決定的に隔てているのは、前者においては生はこの地上の世界に限定されるのではないのに対して、後者は生をこの世に限定したことである。この世界にのみこだわれば、金、権力、地位名誉が何よりも尊重されることになる。
福音書に描かれたイエスは、地上の価値観を超脱している。イエスの求めている生は、誕生し生きそして死んでいくだけの生ではない。
ドストエフスキー文学に関心のあるひとはぜひご覧ください。
「清水正先生大勤労感謝祭」の記念講演会の録画です。
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「池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」
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これを観ると清水正のドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。
ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube