帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載13) 師匠と弟子

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載13)

師匠と弟子

清水正

  現代医学の知識で納得のいく奇跡もあれば、自然科学的次元ではとうてい納得のいかない奇跡もある。イエスが起こした奇跡のうち、パンの量を増やしたことは、先に引用した荒野での悪魔の誘惑に乗ったことと同じように見える。わたしの個人的な考えとしては、いっさいの奇跡を起こさない無力で滑稽なイエスにこそ真実を覚える。

 ヨハネ福音書で前後未曾有の一大奇跡と言われるラザロの復活を起こしたイエスを立派とは思わない。ここでのイエスは自分が神に使わされたひとり子であることを証明するために奇跡を起こしている。イエスは自分の言葉と行為に神の権威を付与するために奇跡を起こしていている。ヨハネ福音書においてイエスは神の権威を必要としている。荒野で悪魔の誘惑を退けたイエスは、ここでは積極的に悪魔の誘惑に乗っているばかりか、そのことを正当化している。『ヨブ記』の悪魔は神と予め相談のうえ、ヨブの信仰を試みている。『ヨブ記』の神と悪魔は実に親密な関係にあり、この関係は『創世記』の全知全能の神と蛇との間にも見られる。先にも指摘したように、『創世記』の神はどう見ても全知全能とは思えない。神はアダムとエバに向かってエデンの園に生えている知恵の実を食したら死ぬと言った。しかし、蛇の誘惑に乗って知恵の実を食したエバとアダムは死ななかった。この時点で神の言葉は絶対性を失っている。わたしの目には、神と蛇は創造主と被造物の関係にあると言うよりは、同一のものの裏表の関係にあるように見える。エデンの園から姿を消した神は、すぐに蛇に化身して自らの被造物を言葉巧みに誘惑している。自らの被造物を試みなければならないほど、この神は退屈していたのだろうか。いずれにしてもアダムとエバが神の命令に従わず、蛇の誘惑に乗ったことで、人間の喜怒哀楽のドラマ(歴史)は始まったとは言える。

 ユダヤキリスト教の教えの中で納得のいかないことは多いが、特に分からないのは〈罪〉である。人間は生まれながらにして罪深き存在なのだ、と言われてもさっぱり分からない。いったいユダヤキリスト教で当たり前の如く言われている〈罪〉とは何なのか。

  人間は生まれた時から罪を背負っているのだという、そういう考え方がそもそも受け入れられない。神の命令に背いたことが罪なのであろうか。それなら神は自分の命令に背くようなものをはじめから造らなければよかったのではないか。知恵の実を食したことが罪という考え方も納得がいかない。神は被造物アダムとエバが永遠に無知のままエデンの園にとどまることを願っていたのなら、知恵の実を植えておかなければよかったのではないか。

 いずれにせよ〈原罪〉という言葉自体に微塵のリアリティも感じない。〈悪〉も〈善〉も、民族、宗教、時代によって異なっており、それを知った者はもはやこれらに絶対的な一義性を与えることはできない。

 人間が知恵の実を食して神のような存在になることが、なぜ罪なのか、それが分からない。

  人間は共同社会の中で生きていかざるを得ないので、その社会・組織の維持安定のために一定の掟(ルール)を作る。その掟に背いた者は厳しく罰せられることになる。これは知性や理性に則って現代社会を生きる者にはよく理解できる。あくまでもルールであり、ルール違反であって、そこに絶対的な神の命令や、命令に反したことによる罪が生ずるわけではない。

 一民族に唯一神が存在するとすれば、もうそれだけでこの神は相対化を免れない。相対化をあくまでも拒もうとすれば、決着がつくまで徹底的に戦わなければならないことになる。そういうことで、今でも戦いは続いている。

 わたしはキリスト者ではない。しかし十七歳からドストエフスキーの作品を読み続けていることで、いつも神のことを考え続けてきたし、人間イエスの生き方、死に方には深い関心を持っている。ドストエフスキーはデカブリストの妻フォンヴィージナ宛の手紙の中で「もしキリストが真理の外にあっても、私は真理と共にあるよりはキリストと共にありたい」と書いた。この箇所だけを読めば、ドストエフスキーは正真正銘のキリスト者となる。が、ドストエフスキーは同じ手紙に「私は同時に不信と懐疑の時代の子です」とも書いている。ドストエフスキーは信仰においても一筋縄ではいかない。わたしは二十歳の昔からドストエフスキーはその内部に神も悪魔も抱え込んだディオニュソス的作家と見なしている。あるいはベルジャーエフの言うように、ドストエフスキーはそれまでのキリスト教をはてしなく深めた作家ということになろうか。

 わたしは今、マルコ福音書を読むことで人間イエスに照明を与えようとしているのだが、福音書に登場するイエスはすでにたっぷりと〈神のひとり子〉の衣装を着せられている。荒野で悪魔の誘惑をことごとく退けたイエスが、なぜ弟子や人々の前で数々の奇跡を起こすのか。わたしはいっさいの奇跡を起こさないイエスに人間イエスを見る。マルコで墓場の狂人にとり憑いていた〈汚れた霊〉を豚に乗り移らせたりするイエスは人間イエスの範疇から逸脱した存在である。

 

 

 

 ドストエフスキー文学に関心のあるひとはぜひご覧ください。

清水正先生大勤労感謝祭」の記念講演会の録画です。

https://www.youtube.com/watch?v=_a6TPEBWvmw&t=1s

 

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 「池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

 

 https://www.youtube.com/watch?v=KuHtXhOqA5g&t=901s

https://www.youtube.com/watch?v=b7TWOEW1yV4