帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載33)

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載33)

清水正

 

    ドストエフスキーは全生涯を通して神の存在を問題にした。神は存在するのかしないのか。神は存在するとして、なぜこの地上世界を不条理に充ちた世界として創造したのか。いったいこの世界のどこに正義・真理・公平が体現されているというのか。『罪と罰』のカチェリーナ、ロジオン・ラスコーリニコフ、『悪霊』のアレクセイ・キリーロフ、『カラマーゾフの兄弟』のイワン・カラマーゾフの口からわたしたちは神に対する深く激しい抗議の言葉をきくことになる。はたしてドストエフスキーは自らが創造した人神論者たちを説得することができたのであろうか。アレクセイ・カラマーゾフやゾシマ長老の信仰は、彼らの不信と懐疑に十分に応えることができたのであろうか。
 ドストエフスキーが信仰と思弁の問題に関して徹底的に追及しているのは『罪と罰』である。地下の居酒屋でロジオン相手に親鸞悪人正機的な赦しの神を説くマルメラードフの神学、ロジオンの要請に応えてラザロの復活を朗読した狂信者ソーニャの信仰、これらの神学と信仰は本当に思弁の人ロジオンを回心させることができたのであろうか。わたしはドストエフスキーの人神論者以上の執拗さで神の問題を問い続けていきたいと思っている。
 マルメラードフの口にする神は、「汝姦淫するなかれ」の死罪に値する戒律を破っている淫売婦ソーニャを、自分の娘を犠牲にして酒におぼれているろくでなしのマルメラードフを、額に獣の数字666を刻印している涜神者ロジオン・ラスコーリニコフをも赦す神である。この神は愛と赦しの新約の神イエス・キリストドストエフスキー風に描き出したものと言える。マルメラードフが頭に抱いている神はおそらく新約の神イエスであって、厳しく裁き、罰する旧約の神ではない。マルメラードフの神学は旧約の神と新約の神の違いを明確にした上で展開されていないし、そもそも旧約の神の存在は彼の意識の圏外にある。ソーニャの場合も同様で、彼女の信仰の対象はあくまでもイエス・キリストである。尤もヨハネ福音書において、イエスは自分が天の神から遣わされた神のひとり子であることを証明するためにラザロの復活という奇蹟を起こすのだと口にしている。従ってイエスを信じることのうちには旧約の神を信じるということが予め含まれているということになる。
 ユダヤキリスト教の文化・信仰圏に生まれ育った者にとって神と神の子(および聖霊)の一体化は論議以前の真理として受け止められているのかも知れない。が、それとは異なる文化・信仰圏に生まれ育った者にとっては旧約の神と新約の神の一体化を理性的に理解することはできない。ましてや聖霊となるとちんぷんかんぷんである。なぜ、神と神の子の一体のほかに聖霊を必要とするのか。聖霊をたとえば、神と神の子の間を仲介する天使と見れば、それなりの理解はできるが、それにしても神と神の子の間になぜに仲介者を必要とするのか、その理由がわからない。
 『罪と罰』の中で観照派に属すると思われるソーニャはイエス・キリストを〈幻〉(видение)として視ることができる。「ラザロの復活」の朗読の場面において、ソーニャは部屋の片隅に現出したイエスを視ている。大半の読者には理解できないとしても、ドストエフスキーはそのように描いている。わたしがここで問題にしたいことは、ドストエフスキーはこのイエス・キリストの〈幻=видение〉を、その場にいたロジオン・ラスコーリニコフには分からないように描いていることである。『分身』における新ゴリャートキンは作中において旧ゴリャートキンのみならず、その他のすべての登場人物にとっても実在している人物として描かれている。もし、ドストエフスキーが『罪と罰』においてイエス・キリストを〈幻=видение〉としてではなく、誰にでも認知できる存在として描いたなら、この作品の評価はずいぶんと異なったものになったに違いない。
 ドストエフスキーの文学は既存のキリスト教を大々的に広めるために創造されたわけではない。彼がなしたことは、はてしのない不信と懐疑の力によってキリスト教の深みへと徹底的に踏み込んでいったことにある。このドストエフスキー的な不信と懐疑の洗礼を受けていない信仰は信仰とは言えない。換言すれば、キリスト者を称する者はすべてドストエフスキー的な不信と懐疑に真っ向から対面し対決しなければならない。ソーニャが感知しているイエス・キリストの存在〈幻=видение〉を同様に感知できる者は、ソーニャと同じ信仰を獲得していると言えるかもしれない。が、それを感知できない者にとってはイエス・キリストの存在はないに等しいのである。
 ソーニャと同じ部屋にいて、ロジオンはソーニャの視ている〈幻=видение〉を感知することはできない。ロジオンはソーニャの信じる神を信じようとしても、彼の弁証法(диалектика)がソーニャの信仰を〈狂信〉としか認めないのである。信仰と思弁の戦いはおそらく永遠に決着がつかないであろう。ところで『罪と罰』を書いたドストエフスキーは、この永遠に決着のつかない問題に決着をつけてしまった。

 

   ドストエフスキー文学に関心のあるひとはぜひご覧ください。

清水正先生大勤労感謝祭」の記念講演会の録画です。

https://www.youtube.com/watch?v=_a6TPEBWvmw&t=1s

 

www.youtube.com

 

 「池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

 

 https://www.youtube.com/watch?v=KuHtXhOqA5g&t=901s

https://www.youtube.com/watch?v=b7TWOEW1yV4