帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載32) 師匠と弟子

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載32)

師匠と弟子

清水正

 福音書に描かれるイエスがわたしにとって魅力的なのは、イエスが自分の信じるものに向かって一途に生きるその過程において悩み悲しむことを抑制していないところにある。わたしは福音書に描かれたイエスに対して、ここではあくまでも〈人の子〉を見ようとしているので、イエスの焦燥、苦悩、怯え、不安を人間のものとしてとらえる。イエスは人間であるからこそ、ユダの裏切りを裏切りとして受け止め、そんな者は生まれてこなければよかったのだとまで言い切るし、ペテロの裏切りも面と向かって口にする。イエスは十二弟子たち全員がつまずくことを知っている。こういった予言性は人間と深く関わったものであるならば、別に神の子である必要はない。革命運動においても組織のトップに立つものは不断に同志や部下たちの裏切り、策謀に敏感である。理想や志は高くても、それを実現する過程において主導権争いはどんな組織においても見られる。イエスの実現しようとする理想が、既存の権威を脅かすものとして受け止められた以上、彼および彼の仲間や弟子たちが弾圧の対象になることは当然の成り行きである。
 戒律を重んじるユダヤ教の祭司長たちがイエスを逮捕し、裁判にかけ、死罪を決定したことは、はたして彼らにとって有利に働いたであろうか。たとえイエスが自ら〈ユダヤの王〉を自称したにせよ、極力無関心を装っていたならば、イエスを〈神の子〉とするキリスト教の教義は成立しなかつたに違いない。イエスの受難は、それが尋常を逸すれば逸するほど、悲劇的な英雄性を獲得する重要な材料となってしまう。イエスはローマ兵たちに茨の冠を被せられ、殴られ、唾を吐かれている。これほど屈辱恥辱的な愚弄と嘲笑はない。イエスゴルゴタの丘への道行きにおいて単なる犯罪者以上の屈辱を受け続ける。この受難を神の子キリストの受難と受け止める者にとっては、受難は即栄光となるだろう。人間イエスの次元で見ればどんなに屈辱的な受難も、神の子キリストの次元で見れば輝かしい栄光となるのである。
 わたしの脳裏に浮かんできたのは十九世紀ロシアの革命家の公開処刑の場面である。

 革命のために自らの命を犠牲にできる革命家と十字架上で息を引き取ったイエス、彼らに共通しているのは自らが正しいと信じるものに対する揺らぐことのない確固たる意志である。意志に揺らぎが生じれば、死に際においてみっともない醜態をさらけ出すことになる。革命家とイエスの違いは、前者に復活はなく、後者に三日後の復活が用意されていたということである。前者に信じる絶対的な神の存在はなく、彼らの死は新しい命を獲得することはできない。

 革命家が何故に革命を絶対視し、その実現のために自らの命をまで投げ出すのか。彼らの行動を内的に支える情念はいったいどこから生じているのか。わたしは革命家が信じている革命後の理想的な社会を具体的に描き出すことができない。この地上世界にユートピアを実現することはできないし、もし実現しようとすれば、当初の理想社会とはまったく正反対の社会(誰もが自由でなく、平等でない社会)の来現に直面することになろう。革命家が目指す理想的な社会は畢竟幻想でしかないということになる。もし革命家が革命後の社会を生きたら、その社会から真っ先に逃げ出すのではなかろうか。人間の自由は社会制度によって保証されるものとは根本的に性格を異にしているものなのである。
 イエスはいったい何をしたかったのだろうか。イエスの言動は旧約聖書を引きずっているが、しかしその世界に踏みとどまってもいない。もしイエス旧約聖書の神を否定して、新しい神として登場して来るのなら理解しやすい。理性の次元で考えれば、旧約の神の子として登場するイエスの言動はいたるところで解決しようのない矛盾を晒している。
 モーゼの十戒において旧約の神は「汝殺すなかれ」と命じているが、ヨシュア記においては厳しく「殺す」ことを命じている。ヨシュア記に何度「聖絶」という言葉が出てくるか数えてみたらいい。ユダヤ教の神は自らが選んだユダヤ人以外の人間に対して情け容赦のない皆殺し(聖絶)を許容する。神が絶対であるなら、二つの異なる命令を同時に受けたユダヤ教徒はどちらの命令に従うのであろうか。可能な選択は、「殺すなかれ」は同胞の者に限定し、「殺せ」は他部族の者に限定するという解釈に則って判断するということであろう。それではキリスト者はどうするのであろうか。イエスは愛と赦しを説いた〈人の子〉である。右の頬を打たれたら左の頬を差し出せと言い、汝の隣人を自分と同じように愛せと言ったイエスの言葉に従えば、「殺せ」と命じる旧約の神の命令に反することになる。イエスを神の子と信じるキリスト者は、この時、父なる神に従うか、それとも子の神に従うかの、恐るべき二者択一に迫られることになるのではなかろうか。こういった二者択一の前に苦悩したキリスト者があったのだろうか。
 ゲツセマネの祈り自体の中に、わたしはイエスの〈人の子〉としての苦悩を見る。誰よりも神を問うているのがイエスなのではないか。ゲツセマネのイエスに、イワン・カラマーゾフの神に対する不信と懐疑を注入したら、イエスは実に生々しい存在として今日の世界に蘇ることになる。

 

   ドストエフスキー文学に関心のあるひとはぜひご覧ください。

清水正先生大勤労感謝祭」の記念講演会の録画です。

https://www.youtube.com/watch?v=_a6TPEBWvmw&t=1s

 

www.youtube.com

 

 「池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

 

 https://www.youtube.com/watch?v=KuHtXhOqA5g&t=901s

https://www.youtube.com/watch?v=b7TWOEW1yV4