帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載29) 師匠と弟子

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近況報告 

漸く『ドストエフスキー曼陀羅』の校正が終わった。と言っても初校だが。引用文の校正が面倒で疲れる。近日中に『清水正ドストエフスキー論全集』第11巻の初校と共に印刷屋に送ることにしたい。校正は原稿を書く三倍ぐらい疲れる。

帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載29)

師匠と弟子

清水正

 強調されているのは「祭司長たちと全議会は、イエスを死刑にするために、イエスを訴える証拠をつかもうと努めた」ということである。が、イエスに関する不利な証言はすべて偽証であったとマルコは記している。モーゼの十戒において偽証は厳しく戒められている。にもかかわらず、ここでは多くの人々の証言が偽証とみなされている。偽証をもってしてもイエスを処刑にしなければならないという祭司長側の願望が露骨に反映されている。
 被告として裁きの場に立たされているのはイエスただ一人、それに対し裁く側のユダヤ人は大勢である。が、イエスを死刑にするための決定的な証言はない。そこで大祭司はイエスに向かって「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」と聞く。今まで頑なに沈黙を守っていたイエスがついに口を開く「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、なたがたは見るはずです。」と。この「キリストですか」の問いにイエスは「わたしは、それです」と答える。わたしはこの答え方に妙な感覚をおぼえる。
 イエスは自分がキリストであることを公言していなかった。弟子たちに対しても、自らの口を通して自分がキリストであることをはっきり表明することはなかった。なぜ、イエスは大祭司の挑発に乗って「わたしは、それです」と言い切ったのか。この言葉を発することによって、自分が死刑の判決を受けることは明白である。福音書に書かれたこの場面をそのまま受け止めれば、イエスは単なる人として布教活動を展開していたのではないということになる。
 それにしても、なぜイエスは「わたしは、キリストです」と言わずに「わたしは、それです」などという曖昧な言い方をするのであろうか。く人の子〉〈それ〉〈キリスト〉という言い方のうちに、人の子イエスが神の子キリストへと変遷していく内的過程が潜んでいるのかもしれない。
 裁く側のユダヤ人にとってイエスが発した言葉「わたしは、それです」は神を最大限に侮辱する偽証ということになる。全員一致でイエスの死刑を決定したというのであるから、祭司側の人々のうち誰一人としてイエスをキリストと見なした者はいなかったということになる。ところでイエスの側の者、祭司長の中庭にまで忍び込んだペテロはどうだったのか。ペテロははっきりとイエスをキリストだと言っていた。が、イエスはペテロが裏切ることを予め知っていた。ペテロはイエスがキリストであることを確信してはいなかった。つまり、イエスは裁く側の者からも、弟子たちからもキリストとは見なされていなかった。わたしが問いたいのは、はたしてイエス自身は自分をキリストと確信していたのかどうかである。
 マルコの福音書を読むかぎり、マルコはイエスをキリストと見なしていることは確かである。そうでなければ福音書を書く根拠は失われることになる。しかし、マルコの人間を描き出す眼差しは冷徹である。マルコは裏切り者ユダやペテロの内的世界に深く立ち入ってその心理を詳細に描き出すことはなかったが、端的な文章で彼らの内的世界を浮き彫りにしている。
 マルコは人間イエス、人間ユダ、人間ペテロを冷徹な眼差しで見つめている。イエスに反感、憎悪、恐怖を覚え、なんとしてでもイエスを処刑せよというユダヤ人たちもまた人間として見られている。が、福音書は人間たちの織りなす横糸のドラマの中に、別の縦糸が差し込まれてくる。縦糸とは言うまでもなく、神の子キリストの出現である。わたしがまず問題にしたいのは、このキリストの出現の仕方にある。
 『白痴』のムイシュキン公爵はもちろん虚構の人物であるが、彼はあくまでも人間として振る舞っている。ムイシュキンは善良で純粋無垢な青年であり、作者ドストエフスキーは彼の造形を通して〈十九世紀ロシアに出現したキリスト〉を描き出したいと願っていた。しかし『白痴』全編を通してムイシュキンがキリストの衣装を身につけることはなかった。ムイシュキンは〈白痴〉とか〈おばかさん〉とか呼ばれることはあっても〈キリスト〉と見なされたことはなかった。福音書に登場するイエスは数々の奇蹟を行うが、ムイシュキンはただ一つの奇蹟も行うことはなかった。ドストエフスキーはムイシュキンを徹底的に人間の次元にとどまらせた。
 マルコにはこのドストエフスキーの視点はない。マルコにはイエスを人間の次元でのみ描こうという意志はない。マルコの課題は、人間イエスをいかにして神の子キリストとして描き出すかということにあったように思える。福音書記者マルコにとって、イエスが人間イエスの段階にのみとどまっていたのでまずいのである。イエスはナザレ人イエスから神の子キリストへと変容を遂げてもらわなければなんの有り難みもないということになるのであろう、少なくともキリスト者にとっては。
 福音書記者は人間イエスにキリストという新しい威厳のある衣装を着せたが、わたしはその衣装をはぎ取り、生々しい人間イエスを復活させたいという願望がある。
 福音書を書いているマルコの後ろ姿を見つめながら、わたしは人間イエスを浮き彫りにしたいと思う。

 

 

   ドストエフスキー文学に関心のあるひとはぜひご覧ください。

清水正先生大勤労感謝祭」の記念講演会の録画です。

https://www.youtube.com/watch?v=_a6TPEBWvmw&t=1s

 

www.youtube.com

 

 「池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

 

 https://www.youtube.com/watch?v=KuHtXhOqA5g&t=901s

https://www.youtube.com/watch?v=b7TWOEW1yV4