「ドストエフスキー曼陀羅」8号に掲載した原稿の一部を紹介。伊藤景「「ラザロの復活」を朗読して」


清水正が薦める動画「ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ」

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

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新刊本の紹介
ドストエフスキー曼陀羅」8号に掲載した原稿の一部を紹介します。
伊藤景さんは日芸大学院博士後期課程在学、わたしの講義の補助を丸三年務めている。

「ラザロの復活」を朗読して
 伊藤 景

 ソーニャはどんな女だったのだろうか。ソーニャは、聖女としての役割が与えられながらも、淫売婦として生計を立てている女である。そんな彼女は、敬虔なキリスト教徒であり、観照派に属している。ソーニャのことを知ろうとすると、多くの矛盾にぶつかる。まず、モーセ十戒によって禁じられている「汝、姦淫するなかれ」を彼女は破っているのだ。誰よりも紙を信じる存在として描かれているが、彼女は神との約束を破っている女でもある。ソーニャとは、どんな人間だったのか。そんな疑問を紐解くきっかけとなるシーンが存在する。それこそが、ソーニャによる「ラザロの復活」の朗読シーンだ。
 ドストエフスキーは「罪と罰」において、ソーニャという淫売婦に福音書に記されている「ラザロの復活」を朗読させてる。主人公・ラスコーリニコフの懇願を通して、ソーニャは復活の秘儀である「ラザロの復活」を声に出して読ませるのだ。彼女は自分でも言っているように「けがれた女」であり「たいそうなたいそうな罪の女」である。ここのシーンを読んだときは、そんな女に黙読ではなく、声に出して「ラザロの復活」を読ませるなんて、随分と非道な行ないだと苦い気持ちになった。誰よりも罪を自覚しながら、彼女はイエス・キリストの教えを「信じている」のだと口にしなければならなかったのだ。ひどく矛盾に満ちた行ないであるかのように見える。しかし、ソーニャはここで罪の告白をしているのではない。彼女は、自分の信仰を告白しているからこそ、淫売婦であり純潔ではない身であってもイエス・キリストへの熱い思いをマルタの言葉に重ねて発することができた。ソーニャは本当にイエス・キリストの存在を信じていたのだ。
 私が初めて「ラザロの復活」のシーンを読んだとき、このシーンの重要性に気付くことはなかった。まさか、このシーンが罪深き女・ソーニャの信仰を告白しているものだとは思いもしなかった。ただの朗読シーンであり、作者であるドストエフスキー福音書の中から「ラザロの復活」を選別した理由なんて考えもしなかったが、清水先生の講義を受けてこのシーンは私の中で激変することとなる。ソーニャの眼前には幻でありながら実体を伴ったイエス・キリストが現れているなんて、想像もつかなかった。しかし、ドストエフスキーは確かにイエス・キリストの存在を描いていた。次のシーンにしっかりと登場していたのだ。

  『「主よ、信じます。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の子であると信じております。」』
  彼女はそこで言葉を切って、ちらと彼のほうに目をあげかけたが、すぐ自分をおさえて、先を読み続けた。

 この引用文の「彼」には「、」とわざわざ強調するようにルビが振られている。清水先生は講義でいつも「強調するようなルビが振られていたり、イタリック体になっているところは注意深く読み込むように」と指導している。まさに、この「彼」は見逃してはいけないポイントだったのだ。なぜなら、ここに登場する彼こそがイエス・キリストのことであったからなのだ。しかし、最初に「罪と罰」を読んでいたときには、このヒントに気付くこともなく読み飛ばしてしまっていた。清水先生の講義を受けて、「彼」がイエス・キリストのことであったのだと知ることができたとた。私一人では、このシーンの深層に至りつくことはなかっただろう。私では、「彼」とはこの後すぐに登場する主人公・ラスコーリニコフのことだろうとしか理解できていなかった。ドストエフスキーの用意した罠にまんまとはまったのだ。講義を受けなければ、深層に秘められた壮大な物語に出会うことすらできなかっただろう。しかし、それでは本当に「罪と罰」を読んだとはいえないのだ。このシーンにはまだまだ注目するべきポイントがある。
 ラスコーリニコフは、ソーニャに対して「つましい、むしろみすぼらしいほどの身なりをした、少女とも言えるくらい幼い感じの娘だった。物腰は遠慮がちで折り目正しく、おだやかな顔だちをしていたが、表情はどことなくおどおどしていた」といった印象を抱いている。この他に、より詳細に彼女に対する印象を語っているものが次の文章である。

  痩せがたの、というより、ひどく痩せこけた青白い小さな顔は、あまり
整ってはいず、妙にぎすぎすとがった感じだった。鼻も顎も小さくとがっていた。とても美人とは言えないだった。そのかわり彼女の空色の目は実に美しく澄んでいて、それが生気をおびると、顔の表情が実にやさしく無邪気になって、思わず見とれずにいられないほどだった。彼女の顔つきには、というより、彼女の容姿全体には、そのほかにもうひとつ、きわだった特徴があった。十八歳だというのに、彼女は年よりずっと若く、まだほんの少女のように、いや、ほとんど子どものように見え、それが何かの動作のはしばしに滑稽なくらい顔を出すのである。

 彼女は決して美人ではなかったが、思わず見惚れてしまうこともあるような人物だった。そんなソーニャであるが、彼女からは自信というものは欠片も感じられない。本当に淫倍婦として客を相手にできていたのか、商売として金をきちんともらえていたのか不思議なくらいだ。彼女のセリフには「……」と三点リーダが多用されており、話す言葉にも自信のなさが滲み出ている。そんな彼女が、「ラザロの復活」を朗読する際には、最初は声が声にならなかったり、最初の一句を二度もつっかえてしまっていたのだが、「『後でどんなことになろうと、かまうものか!』」とラスコーリニコフがソーニャの目から読みとってからは、ソーニャは情熱的に「ラザロの復活」を読み上げた。
 では、この情熱的にとはどのような口調で、声量で行なわれたのか。清水先生の指導のもと、自分でも朗読してみたのだが、再現するのは実に難しかった。なぜなら、ソーニャは「まるで自分が公衆の面前で懺悔してでもいるように、苦しげに息をつき、一語一語を区切って、力をこめて読んだ」とされているからだ。公衆の面前で懺悔をするとは、どんな気持ちだろうか。私であれば、まず恥を感じる。自分の罪深さを多くの人に曝け出す恐ろしさも感じるだろう。その際には、ソーニャのように苦しげに息をつくことはあるだろうが、力を込めて読むことができるのかなどと、彼女を理解して朗読するまでに随分と時間がかかってしまった。なぜなら、ソーニャは苦しげに息をつきながら、力を込めて読んだだけではない。「彼女はもうほんとうの熱病にかかったように、全身をわなわなと震わせている」のだ。どうしても、この「震え」を再現することができなかった。私はソーニャになりきれるほどには、イエス・キリストのことも「主」のことも信じてはいないのだ。信じていないからこそ、私の発する「主よ、信じます」には力がない。何回読んでみても「まだ震えていないな」と清水先生に言われてしまう。私は、何であれば信じることができるのだろうか。ソーニャが主に対して絶対的な信頼を置くように、私も何かを絶対的に信じたことがあるのか。自問自答をしてみるが、私には盲目的なまでに何かを愛したことも信じきったこともないのだと、あまりにも虚しい「自分」と向き合う結果となった。何も信じていない私では、ソーニャのように全身を震わせながら、まるで愛の告白のようなこの一言を発することはできない。そのことを痛感した。だからこそ、他の学生の朗読する「ラザロの復活」を注意深く聞くようにした。私には足りないものを持ち、それを表現している人たちの言葉は、嫉妬をするとともに聞いていて心地よかったのだ。
 特に、印象に残っているのは「雑誌研究」の授業において映画学科の女学生が朗読したものだ。他の学生は最初は朗読ではなくただの音読かのように、まるで感情がこもっていなかったのだが、その学生は違っていた。彼女は震えるように、しかし切実な思いが相手に届くように「主よ、信じます。」と、か細くありながら芯の強さを感じさせる朗読をしていた。私はその学生を後ろから見ていたのだが、あの朗読の後では彼女の姿がいつもとは異なっているようにさえ感じた。声が、吐息が震えているのだ。しかし、震えてしまって声にはならないという弱い声ではない。彼女はソーニャの心の奥に秘めた情熱的な信仰心を確かに吐露していた。清水先生の演技指導を重ねて、より原作に描かれているソーニャかのような朗読に変わっていった。しかし、私は先生の指導が入る前に、きっと彼女が原作を読んだ上で演じたのであろうソーニャが一番印象に残っている。テキストを見るために俯いた彼女の姿、首筋からもソーニャの痩せた体型を想起させた。それほどまでに、引き込まれたのは今まで何人かの朗読を聞いたが、彼女だけであった。しかし、私の中でもう一人ソーニャの朗読で印象に残っている学生がいる。彼女が演じたソーニャは映画学科の学生が演じたソーニャとは全く異なるものである。
 「罪と罰」は多くの訳者によって日本語に翻訳されている。今まで引用してきたものは、すべて江川卓の翻訳による「罪と罰」である。江川は、

  (ここでソーニャは、まるで自分が公衆の面前で懺悔してでもいるように、苦しげに息をつき、一語一語を区切って、力をこめて読んだ。)

 と訳しているが、米川正夫は次のように翻訳している。

  (ソーニャはさも苦しげな息をつぎ、句読ただしく力をこめて読んだ。それはさながら全世界に向かって、説教でもしているような風であった。)

 ほかにも、中村白葉は

  (ここでさも苦しげに息をついで、ソーニャはくぎりをつけてはっきりと、力をこめて読んだ、さながら全世界に向って、自分の信仰を告白でもしているように。)

 このように翻訳している。三人の訳者によるものだけでも、いかに異なった文章で存在しているのかがよく分かる。米川と中村はソーニャが「全世界に」向かって、この文章を読み上げたのだとしている。自信のなさばかりが目立つソーニャが、そんなにはっきりと話せるのだろうかと疑問に思ったものだが、清水先生指導のもと、学生たちが演説調にこの文章を朗読すると印象も変わってくる。ソーニャの篤い信仰心が爆発したかのように、この言葉に圧倒されてしまうのだ。この演説調の朗読を行なったある院生が、私の中でもう一人強く記憶に残っているソーニャなのだ。
 それは大学院の講義においてである。私もそのときに二パターンの朗読を行なったが、普段から声を張り上げたりすることが少なく、私の声量ではまだまだ全世界に届くほどの力をもった朗読を行なうことはできなかった。清水先生にも、学校の敷地からは出ていないなと言われてしまった。イメージはあるのだが、どうしても私ではイメージ通りのソーニャの朗読を再現することはできず、やきもきしていた。そんなときに、一人の大学院生が清水先生に指名されて演説調に「ラザロの復活」の場面を読み上げたときに「これだ!」と衝撃を受けた。私の思い描いたソーニャが現実に朗読しているのではないかと目を見張ったものだ。
 彼女の朗読はまさに高らかであった。声を張り上げ、怒鳴るのではない。透き通った声のまま、声を震わせるかのような繊細な響きのままに、どこか遠くを目指して彼女は「主よ、信じます。」と告白というよりは宣言するように読み上げていた。私が出したかった響きのままに、彼女は「ラザロの復活」を朗読する。私では表現できなかったソーニャが演じられていて、羨ましかった。前に彼女は自分はキリスト教徒だと話していたから、私には分からなかった「主」の教えを理解した上で発したのだろう。だからこそ、ソーニャのような強さと純粋さを声にこめることができたのだ。やはり、信仰を理解できていなければ信仰告白は行なえない。日頃、神のことを考えていない人間の言葉には力が宿らないのだ。
 「ラザロの復活」の朗読を行ない、また多くの学生の朗読を聞いた上で、私のソーニャ像はまた姿を変えた。ソーニャはただ快楽に身を任せる淫売婦ではなかった。ただの姦淫の罪を犯した罪人でもない。彼女こそが、誰よりも神の存在を信じたキリスト教徒であり、その教えに反する罪人でもあるのだ。ソーニャは自身が苦しむことによって、罪がいかに辛いものか。そして、その身に降りかかる罰がいかに苦しいものかを伝えているのではないだろうか。敬虔なキリスト教徒であるからこそ、罪を犯すとどのような苦痛が身に降りかかるのかを自身で体験したのだ。私の中では、ソーニャはただただか弱いだけの存在であったが、この「ラザロの復活」の朗読をしたことによってソーニャは罪を体現する大いなる信仰者へと姿を変えた。彼女はたしかに、誰よりもキリストの教えを理解したキリスト者であった。