ソコロワ山下聖美「さまざまな出会い  〜『宮沢賢治とドストエフスキー』をめぐって〜」



https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk

これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

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新刊本の紹介
清水正ドストエフスキー全集』第10巻の栞原稿を紹介します。

さまざまな出会い

 〜『宮沢賢治ドストエフスキー』をめぐって〜

ソコロワ山下聖美(日大芸術学部教授)
 
二〇一七年十二月二十六日、今、私は岩手県花巻に向かう車
中にいる。通称「ケンジ実習」(一年を通して宮沢賢治作品に
ついて研究を行うことから「文芸研究実習�」をこう呼んでい
る)の花巻フィールドワークの途上だ。この引率も、もう何度
目であろうか。様々な学生と共に列車に乗ったものだ。気分
はもはや、銀河鉄道に若者を乗せて旅を繰り返す、「銀河鉄道
999」のメーテルのようだ。メーテルの時間にはかなわない
が、私は私なりの〈ケンジ時間〉を、この車中で振り返ってみ
たい。
 
そもそもこの実習が「賢治実習」ではなく、「ケンジ実習」
である理由は、前任者の清水正先生の考えによる。「ケンジ」
とカタカナにすることによって、日本近代文学を超えて、世界
文学の地平に宮沢賢治を解き放つ、これは清水正宮沢賢治
究のポリシーであり、日芸におけるケンジ教育の根幹だ。こう
して名付けられた「ケンジ」の原点にあるのが、清水正先生の
著書『宮沢賢治ドストエフスキー』(一九八九年五月  創樹社)
だ。私の〈ケンジ時間〉はこの本を読んだことによって始
まったのであった。
 
さかのぼること二十二年前の一九九六年、大学院修士時代の
最初の授業で課題に出されたのがこの本だ。「西武の〈ぽえむ
ぱろうる〉で買うように」と指示され、早速購入した本を、私
は当時の西武百貨店内にあったセゾン美術館の隣のカフェで読
みすすめた。このカフェは当時、アートを志す若い人たちや日
芸生のたまり場のようなところであったと記憶している。私は
ここで、課題として出された本を読んでいることが無性にうれ
しかった。日芸で大学院生をしている自分が満足で仕方がな
かった。
 
一方で、この頃の清水先生はまだまだケンジ童話批評に夢中
の頃であり、ちくま文庫宮沢賢治全集のびりりと引きちぎっ
た三、四枚のテキストと愛用のオアシスポケットを持ち歩きバ
リバリに執筆なされていた。研究室ではワープロを前に学科主
任の仕事やD文学通信作成を精力的にこなす姿は、パワフルそ
のものであった。この時清水先生は四十七歳、今の私はあと二
年後にこの時期の清水先生に追いついてしまう。体力気力共に、
今の私は完全に当時の清水先生に劣っていると感じる。さらに
言えば、『宮沢賢治ドストエフスキー』を出版したのは清水
先生が四十歳の時である。三〇〜四〇代は働き盛りであり、研
究者として大きな仕事を残すときだとは言うが、まさにその通
り、この本は、宮沢賢治研究における重要な位置付けにあり、
宮沢賢治作品の〈読み〉の革命を促した名著であるのだ。
 
もちろん一九九六年当時の私はそのすごさを知る由もなく、
大学院の授業の課題として、宮沢賢治の理解のために読み進
み、理解した。しかし大学院博士後期課程にすすみ、膨大な宮
沢賢治研究書を読破していく中で、この本が賢治研究史におけ
るエポックメイキング的な役割を果たしたことに気付くのであ
る。おそらく『宮沢賢治ドストエフスキー』発行当時の宮沢
賢治研究界と言えば、長年プロデューサー的役割を果たしてい
た賢治の弟・宮沢清六氏が陰の中心にいた時代だ。この清六氏
に「ドストエフスキー宮沢賢治は関係ない」と断言された、
と清水先生は語っていたが、今から思えば、ここから賢治研究
史の新たなる時代がはじまっていたのだと思う。遺族の手を離
れ、賢治は「ケンジ」へと脱皮し、壮大な地平へと羽ばたきは
じめたのである。清六氏はこの羽ばたきを受け入れられなかっ
たのかもしれない。
 
 
一方で、清水先生もまた愛するものの「羽ばたき」を体験し
たもののうちの一人だ。宮沢賢治ドストエフスキーという文
学者たちの〈出会い〉の陰にあったのは、清水先生の手を離れ、
この世から旅立って行ってしまった愛するものの「羽ばたき」
であり、それによって生じた想像を絶する大きな喪失感という
暗闇であったのだ。ジョバンニが体験し、宮沢賢治が感じてい
た銀が空間に広がる「大きなまっくらな孔(あな)」を抜きに
銀河鉄道の夜』が、そしてすべての宮沢賢治の作品を語るこ
とができないように、清水先生のすべての批評もこの「闇」を
抜きに語ることはできない。
 
人生には本当にいろいろなことがある。どのように計画をた
て、備えようとも、真っ暗な闇の「孔」に突然落ちることがあ
る。一寸先は闇であるのが私たちを取り巻く世界である。闇は
心の中にもある。私たち人間とは、闇を抱え、闇に取り巻かれ、
闇から生まれ、闇に帰っていく存在なのであろう。この闇から
逃げずに、「その底がどれほど深いのかその奥に何があるかい
くら眼をこすってのぞいてもなんにも見えずただ眼がしんしん
と痛」むのを感じながら、それでも見つめ続け、言葉を紡いで
いくことが文学であることを、私は『宮沢賢治とドストエフス
キー』から教わった。正直に言えばこの闇の存在はとても恐ろ
しく、目をそむけたいし、落ちたくはない。しかし、闇の存在
をないものとして片づけたり、解明したつもりになったりする
ことは、文学の行為ではない。その意味で言えば、文学とは厳
しく、恐ろしく、そして少なくとも私にとって、不可欠なもの
であるのだ。このことを自覚させてくれる本に接したのが、大
学院修士一年の時のことであった。私の〈ケンジ時間〉のはじ
まりであった。
 
今こうして自分の子供ほどの年齢の学生たちを見ていると、
私が大学院の時に成し遂げたケンジ文学との〈出会い〉を彼ら
が数年早くなしとげていることがうらやましく思える。私の大
学時代は、何かに出会いたくて出会いたくて、もがきながらも
出会うことはかなわなかった。この時代の渇望が私を日芸の大
学院へと進学させ、宮沢賢治との出会い、本当の文学との出会
い、そして清水先生と出会いを可能にしたのだと感じる。少し
時間はかかったが、出会いには人生のタイミングがあるようだ。
宮沢賢治ドストエフスキー』における日露文学者の運命的
な出会いも然り。さらに言えば、私自身もまたロシア人と出会
い、結婚した。(だいぶ時間はかかったが)夫は、生まれも育
ちも「罪と罰」の舞台となったサンクトペテルブルク、留学先
岩手大学という、まさに「宮沢賢治ドストエフスキー」的
な存在だ。
 
私はこんな夫とともに、「ロシアにおける日本年・日本に
おけるロシア年」である二〇一八年にある計画をたてている。
二〇一八年は、清水先生のドストエフスキー執筆五十年の年で
もある。この記念すべき年に、日露の文化交流をさらに深め
たいという願いのもと、「清水正」「ドストエフスキー」をキー
ワードとしたある試みを行うつもりだ。乞う、ご期待。