山下聖美 〈ある何ものか〉をめぐって(4)

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清水正ドストエフスキー論執筆50周年 清水正先生大勤労感謝祭 第一部・今振り返る、清水正先生の仕事」(日大芸術学部江古田校舎芸術資料館 2018年11月23日)で司会進行を務める山下聖美教授


 

ドストエフスキー曼陀羅」特別号から紹介します。 

 

〈ある何ものか〉をめぐって(4)
 山下聖美

 

 

 

 

ロシアの大地
 
いずれにせよ、清水先生の批評は、遙か彼方へと垂直的な まなざしを向け、そこに広がる〈ある何ものか〉という巨き な謎をめぐって、言葉を紡いできた足跡であるのだろう。そ して、このための手段が、ドストエフスキーのテキストで あったと私は考える。清水先生は「ドストエフスキーは体質 に合う」とおっしゃっていた。それはもしかしたら、ドスト エフスキーという手段が、清水先生の生理や体感、そして何 よりも右手とぴったりとマッチするラケットのようなもので あるということなのかもしれない。まるで右手と一体化した ようなラケットを持ち、清水先生は遙か彼方の何かとボールを打ち合っている。相手の姿は見えない。しかし、〈ある何 ものか〉は確実に存在する。
  〈ある何ものか〉はドストエフスキーに作品を描かせた何 かであり、ロシアの大地に吹き渡る怪しい風だ。この風と同 じものを宮沢賢治の作品の世界にも感じ取ったのが清水先生 であり、「ドストエフスキーにものを書かせている霊的なも のと、宮沢賢治にものを書かせている霊的なものが共通して いる」ということであろう。この霊的な風は何であろうか。 これを探ることは、宮沢賢治研究家としての、そして清水先 生の弟子としての、私の使命であるはずだ。この使命を感じ ながら、ロシアに行く機会が増えた私は、この国の大地に吹 く風をいつも意識している。ロシアの地に根付く、霊的なる もの。それは、古くから民衆の間で持たれていた大地信仰の ようなものであるのか。いずれにしても、この広大なロシア の地を、ロシアたらしめているのは、政治家でもなく、軍事 力でもない、大地に吹き渡る風、〈ある何ものか〉の息吹、 であるのだと感じる。
   
以上、清水先生という人物をめぐって思いを述べてきた が、神秘への情熱を持ち続ける先生の後ろ姿を見ながら私も また研究を続けられていることに、御礼申し上げたい。そし て、清水先生と出会って私の人生があることの〈神秘〉に対しても 、 深く感謝の 念を 感じる。