漫画家青木雄二の『僕が最後に言い残したかったこと』を読む

近況報告

金曜日は大学院生二人に手伝ってもらって研究室の本の整理。四十年以上にわたって研究室を使用しているので、実に久しぶりに再会する本もあり、手に取って読み始めでもしたら、まったく作業がすすまないことになる。箱詰めにして自宅に送り届けると今度いつ再開するかわからないので、すぐに読み返したいほんはカバンにいれて持っていくことにする。そんな一冊に漫画家青木雄二の『僕が最後に言い残したかったこと』(2003年11月 小学館)があった。この日は金曜会の後、帰りの電車の中で読むことにした。第四章「マルクスへ」から読む。わたしは二十歳の昔からマルクスの『資本論』を読もうとしていまだに読めていない。二十代後半の頃、わたしのところに出入りしていた学生(早稲田で革命運動に参加、日芸に転向してきた学生)に「ドストエフスキーマルクス」について書くように指示しながら、自分は読まなかったのである。読もうとしてなかなか読めない本がある。トルストイの作品は三十歳を過ぎてから強制的に読んだが、そうでもしない限り、ドストエフスキーに没頭していたわたしはいつまでもトルストイを読むことはできなかっただろう。

青木雄二は冒頭、マルクスを読み始めてから唯物論について深く考えるようになったと書いている。『資本論』は青木にとっても最初は読みづらい難解な本だったらしいが、辞書を引きながら読み進んでいくうちに理解力も自然と身についていったらしい。青木によればマルクスは日本で復活するということで、なかなか説得力もある。

青木は『資本論』と同時に『罪と罰』も読んでいる。彼はこの二冊をたいへん高く評価している。わたしは五十年以上にわたって『罪と罰』を読み批評して飽きないが、マルクスの『資本論』は謂わば食わず嫌いになるのだろうか。挑戦してみたい気にも少しはなったがはたしてどうなることやら。

この本は今日の午後五時過ぎに読み終えたが、どの章も面白く読めた。

金曜日は山下ゼミの卒論五編の面接試験がある。二篇ほど読んだ。

神経痛でからだが思うように動かせないので、たいてい横になって痛い腹部を布団で抱えながら、動画を観たり、本を読んだりしている。

動画は日本第一党党首桜井誠の「桜井誠・オレンジラジオ」、札幌学派の安濃豊、さくらチャンネルなど要するに右翼保守系のものをよく観ている。退院後三年ほど観続けているので彼らの主張や人間性にも詳しくなった。彼らの共通した主張とお互いの罵詈雑言も興味深い。日蓮各派の激しい罵詈雑言も動画で観てきたが、宮沢賢治の『どんぐりと山猫』に登場するどんぐりどもの激しい自己主張と同じ性格のものを感じる。ユダヤキリスト教の唯一絶対神日蓮法華経の絶対性などは他の教えを認めない。宗教は自らの神の絶対性の相対性を認めない限り、決着のつくまで徹底的に戦わなければならないというわけだ。池田大作が『新・人間革命』などの著作で繰り返し訴えている世界平和の実現のための対話の重要性、人道主義も、自らの神・仏の絶対性の相対化を受け入れない限り根本的な解決とはならないであろう。また、対話を重要視する池田大作日蓮正宗との対立確執をどうすることもできない現実がある。

一神教の神を奉ずるユダヤ教キリスト教イスラム教などと人道主義に基づく対話でどのように手を結ぶというのだろうか。各々の絶対神が自らの絶対を相対化すれば、もはやその神は絶対神から失墜しなければならない。事は簡単に行きそうもない。