清水正の湧き出る泉と貝の名(連載3)


清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。

清水正が薦める動画「ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ」

https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk

これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。



清水正宮沢賢治論全集 第2巻』が刊行された。
清水正宮沢賢治論全集 第2巻』所収の「師弟不二 絆の波動」より飯塚舞子「清水正の湧き出る泉と貝の名」を数回にわけて連載する。



清水正の湧き出る泉と貝の名」(連載3)
飯塚舞子


 私は清水先生に出会ったばかりの頃「時空を超えて、ドストエフスキー宮沢賢治とテニスのラリーをしているんだよ」というお話をして頂いたことがある。その時、清水先生が常人の“理解”や“思考”を超えたところで様々な作家や作品の批評をされているのだと知った。私は時空を超えてテニスのラリーなど誰ともした経験がないので、それがどのような感覚なのかは分からないが、それこそ、あの講義の言葉・熱へとつながるのであろう。昨年、私は宮沢賢治研究という授業で『清水正宮沢賢治研究』という題で、『オツベルと象』について論じるため、『宮沢賢治を解く‐『オツベルと象』の謎』と『宮沢賢治の神秘‐『オツベルと象』をめぐって』という二冊の本を読んだ。それが私にとって初めてしっかりと清水先生の批評を読む機会であった。その内の一冊は驚くほど分厚く、はじめは目を疑った。そもそも『オツベルと象』という作品自体は数ページほどのものであり、謎が多い作品として知られているものの、まさかそんな数ページの批評が膨大な量に及ぶとは想像していなかったのである。正直、読み切ることは出来ないと思っていたし、失礼ながらよくある批評のように何だか的外れなことや、同じようなことが何度も書かれているのかもしれないとも思った。しかし、最初の何章か読み進めると、私の考えは一変した。数ページの作品の批評が数百ページになったのは、必然であったのだ。もちろん同じことは書かれていなかったし、それ以上に、そこには批評をも超えた真実しかないとすら感じた。あらゆる角度から、作品について清水先生の批評を見てしまえば、そうとしか考えられなくなるほどの説得力がそこにはあった。読み終わった時には、もはや宮沢賢治清水正に批評されることを見越して、こんなにも謎ばかりの作品を残したのではないかとすら思ったのである。その時、私は宮沢賢治に関して、もう他の人による批評は聞き入れることが出来ないであろうと直感的に感じた。清水先生は講義の中で宮沢賢治研究に対し、「賢治の研究は途方もなく地を掘り、高く飛翔し、一瞬で宇宙を駆け巡るような想像力と飛翔力が無くては出来ない」と仰っている。もちろん清水先生はそれらを成し遂げ、賢治とラリーをし、批評を超えた真実を探し出したのだ。しかし皆さんもすでにお気づきだとは思うが、そのようなこと普通は、他の人には、できないのである。だからこそ、清水先生のお言葉を借りれば「賢治研究は未だに衰退の一途を辿っている」のであり、清水正による批評を読めば、その他の批評など価値を見出せなくなるのである。
 私は、このように清水先生の批評や講義、お話について考えていると、やはり「さざえ」という名の大切さを感じずにはいられない。この名は他でもない清水先生の中に湧き出る、あんなにも凄まじいドストエフスキー宮沢賢治への批評などに関する、膨大な量の水が流れ出る泉から私のためだけにポロリと降って来た「さざえ」なのだ。私は、時代を超えて誰かとラリーをするテニスボールは持っていない。しかし、私の手の中には想像の及ばないほど神聖なところから降って来た「さざえ」がある。そして、それは、もはや美味な貝をはるかに超える重さとなっている。