清水正「ソーニャの部屋 ──リザヴェータを巡って──(連載22)   〈もうおしまいになった人間〉ポルフィーリイを巡って ──「回想のラスコーリニコフ」の頃を回想して──(7)」江古田文学107号より再録

お知らせ

9月21日午後2時40分過ぎからズームで

清水正・批評の軌跡53年を振り返る──ドストエフスキー生誕200周年を記念して──」下記の要領で講義します。

清水正・批評の軌跡Web版より
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オンラインイベント開催決定!

 

2021年9月21日(火)zoomにて清水正先生による特別講義を開催いたします。

こちらの講義は、受講生以外の方や卒業生、学外者の方にもご参加いただけますので、ぜひご参加ください!

 

9月21日(火)14:40〜16:10

「特別企画 清水正先生による講義「時代を超えて読み継がれるドストエフスキーの魅力」」(表現領域拡張講座Ⅱ)

9月21日(火)16:20〜17:50

「特別企画 清水正先生による講義「本を生み出すエネルギー」」(出版文化論Ⅱ)

 

zoomURLは、こちら(https://nihon-u-ac-jp.zoom.us/j/82236911925...

当日、イベント時のトラブル等の問い合わせにつきましては、Twitterアカウント(@thanksfes_1123)にまでご連絡ください。

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ズーム参加希望者は下記の山下聖美氏のメール宛にお申込みください。

yamashita.kiyomi@nihon-u.ac.jp ソコロワ山下聖美(主催代表)

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清水正の著作購読希望者は下記をクリックしてください。

https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208

www.youtube.com

動画撮影は2021年9月8日・伊藤景

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清水正・批評の軌跡Web版で「清水正ドストエフスキー論全集」第1巻~11巻までの紹介を見ることができます。

sites.google.com

ソーニャの部屋

──リザヴェータを巡って──(連載22)

〈もうおしまいになった人間〉ポルフィーリイを巡って

──「回想のラスコーリニコフ」の頃を回想して──(7)

清水正 

 『悪霊』における〈革命思想家〉(表面的には秘密革命結社の首魁を巧みに装っていた二重スパイ)のピョートル・ヴェルホヴェーンスキーのモデルとして有名なネチャーエフは「革命家のカテキズム」(『ロシア革命』松田通雄編/平凡社所収・一色義和訳)の(6)において「彼は自己にきびしくあるとともに、他の人々にもきびしくしなければならない。家族、友情、愛情、感謝、さらには名誉といった柔弱で女々しい感情はすべて、彼のうちでは、革命の事業をめざす唯一の冷徹な感情によって抑制されねばならない。彼にとっては、ただ一つの安らぎ、慰め、報酬、満足が、つまり革命の成功があるだけである。昼夜をわかたず彼は一つの思想、一つの目標を、つまり仮借なき破壊をいだいていなければならない。冷静にたゆむことなくこの目標の達成につとめながら、彼は、みずからが非業の死をとげる用意があるだけでなく、目標の達成を妨げるすべての者をみずからの手で殺す用意がなければならない」(108)と書いている。

 「革命家のカテキズム」でネチャーエフは26の項目をあげて革命家の使命を冷徹に記している。これらは革命家の本質を知る上ですべて重要であるが、ここではポルフィーリイが指摘するラスコーリニコフの(もっとほかの理論)との関連を明らかにする上で特に(6)のみを引用することにした。ラスコーリニコフは〈あれ〉を〈革命〉と結びつけて考えたことはなかった。これは先に指摘したようにラスコーリニコフ本人の問題というよりは元政治犯であった作者の側の問題である。

 当時のインテリであったラスコーリニコフが、皇帝専制政治の弊害について何も考えていなかったはずはない。彼は、一人の作中人物として作者の思惑から抜け出すことはできない。これは主人公のラスコーリニコフばかりでなく、彼に対して鋭利な分析力を存分に発揮したポルフィーリイでさえ例外ではなかったということである。現に彼は、ラスコーリニコフに向かって〈もっとほかの理論〉について何も説明しなかった。説明すれば、ここに引用したネチャーエフの革命家のなすべきことについても言及せざるを得なかったであろう。しかし、そうすればどんな鈍感な編集者、検閲官でもラスコーリニコフの〈あれ〉と〈革命〉との関連性に気づくだろう。ポルフィーリイは作者によって、ラスコーリニコフの〈あれ〉の秘密の核心部に触れることを禁じられた存在なのである。だからこそ、作中の批評家ポルフィーリイに代わって読者がその〈秘密〉に肉薄しなければならないのである。

 ネチャーエフが(6)で記した最後の言葉「目標の達成を妨げるすべての者をみずからの手で殺す用意がなければならない」をよくよく噛みしめたらいい。革命家は〈リザヴェータ殺し〉を許容するばかりではない、母親のプリヘーリヤも、妹のドゥーニャも、ソーニャも、ポーレンカも、ラズミーヒンも......彼らが〈目標の達成〉を妨げる者であれば自らの手で殺さなければならないのである。

 ラスコーリニコフの〈あれ〉、および〈もっとほかの理論〉をネチャーエフの〈革命家のカテキズム〉に照らして検証すれば、それまで曖昧だった事柄がだいぶすっきりと理解できる。しかし、作者は敢えてそこに大きな暗幕をかけて、編集者、検閲官、そして多くの読者をたぶらかす方法を採った、否、採らざるを得なかった。

 ポルフィーリイはラスコーリニコフに「あなたが、ただばあさんを殺しただけなのは、まだしもだったんですよ」(525)〔Еще хорошо, что вы старушонку только убили.〕(ア・351)と言っている。耳を疑いたくなるようなセリフである。ラスコーリニコフがリザヴェータ殺しを予定していなかったことは確かだが、それ以上に確かなのはラスコーリニコフが目撃者リザヴェータを明晰な意識の元で殺してしまったということである。

 にもかかわらず、予審判事ポルフィーリイはラスコーリニコフを眼前にして、彼が殺したのはアリョーナ婆さんだけであったかのような言い方をしている。これはやり手のポルフィーリイが、こういう言い方でもって相手から、リザヴェータ殺しの自白を引きだそうとしたとも考えられるが、それよりも説得力があるのはやはり〈作者とポルフィーリイの結託〉である。

 ポルフィーリイは事実誤認を口にしてまで〈もっとほかの理論〉と〈あれ〉(革命思想の実行)との関係性に照明を当てたいのだが、しかしそのことに気づかれてはならないと言う作者の指示を忠実に守っている。彼は、エピローグでラスコーリニコフを復活の曙光に輝かせる作者の意向に則ってラスコーリニコフに対している。彼は予審判事という現実的な役割を大きく逸脱して、ラスコーリニコフに〈復活〉を促す預言者の衣装を纏っているのである。

(「江古田文学」107号からの再録ですが、ネット上で読みやすくするため改行を多くしてあります)

 

清水正著『ウラ読みドストエフスキー』を下記クリックで読むことができます。

清水正•批評の軌跡web版 - ウラ読みドストエフスキー

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撮影・伊藤景

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ポスターデザイン・幅観月