清水正「ソーニャの部屋 ──リザヴェータを巡って──(連載21)〈もうおしまいになった人間〉ポルフィーリイを巡って ──「回想のラスコーリニコフ」の頃を回想して──(6)」江古田文学107号からの再録

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9月21日午後2時40分過ぎからズームで

清水正・批評の軌跡53年を振り返る──ドストエフスキー生誕200周年を記念して──と題してお話します。

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動画撮影は2021年9月8日・伊藤景

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ソーニャの部屋

──リザヴェータを巡って──(連載21)

〈もうおしまいになった人間〉ポルフィーリイを巡って

──「回想のラスコーリニコフ」の頃を回想して──(6)

清水正 

 ラスコーリニコフは『いったいあれがおれにできるのだろうか?』と呟いた後、次のように続ける『そもそもあれがまじめな話だろうか? なんの、まじめな話どころか、ただ空想のための空想で、自慰にすぎないのだ。玩具だ! そう、玩具というのがほんとうらしいな!』(4)〔Разве это серьезно?  Совсем не серьезно.  Так, ради фантазии сам себя тешу; игрушки!  Да, пожалуй что и игрушки!〕(ア・6)と。

 小説においてラスコーリニコフが思っていた〈あれ〉(アリョーナ婆さん殺し)はたしかに実行された。さらにラスコーリニコフが予定していなかった〈リザヴェータ殺し〉まで実行してしまった。小林秀雄は「そうだ、見る事が必要なのである。だが、評家は考えてしまう」(119)と書いた。あたかも〈考える〉ことを軽視しているかのような書き方であるが、批評家が作品を前にして考えることを止めるようなことをしてはならない。〈見る〉ことを重要視するあまり、〈考える〉ことを疎んじるようなことがあってはならない。小林の『罪と罰』論において、ラスコーリニコフの〈あれ〉が注目されることはなかった。つまり、小林はラスコーリニコフの犯罪理論と老婆アリョーナ殺しを結びつける視点はあっても、〈あれ〉自体に込められた秘密を看破することはできなかった。批評家はテキストに謙虚に立ち向かわなければならない。考古学者が何度でも発掘現場につくように、批評家もまたテキストに何度でも執拗に真摯に立ち向かわなければならない。

 わたしは最初に『罪と罰』を読んだときからラスコーリニコフのリザヴェータ殺しが不可解であった。単純に考えれば、リザヴェータ殺しはラスコーリニコフの非凡人思想、すなわち非凡人は「良心に照らして血を流すことが許されている」に合致していない。にもかかわらず、どうしてラスコーリニコフはリザヴェータをも殺してしまったのか。わたしはこの疑問で頭をいっぱいにして考えに考え続けた。わたしは、小林とは違って考えを徹底することによって見えてくる世界があると思っていた。現に、考え続けることで見えてきたことはある。

 ラスコーリニコフの〈踏み越え〉(преступление)は〈アリョーナ婆さん殺し〉だけであってはならなかった。そこに〈リザヴェータ殺し〉をも含み入れてこそ、ラスコーリニコフが独語した「いったいあれがおれにできるのだろうか?」の〈あれ〉の重要性がクローズアップされてくるのである。ここで初めて、作者がわざわざ〈あれ〉(это)をイタリック体にした意味が浮上することになる。

 批評家はテキストの森に分け入り、一本一本の木に、その枝葉の一枚一枚に細心の注意を払いながら歩み続けなければならない。テキストに向けて様々な疑問の矢を放ちながら突き進むことによって、作者が予め仕込んでおいた秘密が発見されたり、さらに作者にさえ見えていなかった光景の現出に立ち会うことも可能となるのである。〈リザヴェータ殺し〉の内には、ラスコーリニコフの内に封印された革命思想の断片、否、核心が潜んでいたと見ることができる。

 ポルフィーリイはラスコーリニコフに向かって「あなたが、ただばあさんを殺しただけなのは、まだしもだったんですよ。もしあなたがもっとほかの理論を考え出したら、それこそ百億倍も見ぐるしいことを仕でかしたかもしれませんよ! まだしも神に感謝しなきゃならんかもしれませんて。なんのために神があなたを守ってくださるのか、そりゃ、あなただってわかりっこありませんや。」(525)〔Еще хорошо, что вы старушонку только убили.  А выдумай вы другую теорию, так, пожалуй, еще и в сто миллионов раз безобразнее дело бы сделали!  Еще бога, может, надо благодарить; почем вы знаете: может, вас бог для чего и бережет.〕(ア・351)と言っている。

 ポルフィーリイがここで言う〈もっとほかの理論〉が〈リザヴェータ殺し〉をも許容する理論だったと考えられる。ラスコーリニコフは〈もっとほかの理論〉に関して問い質さず、ポルフィーリイもいっさい説明しないので見逃しがちだが、〈リザヴェータ殺し〉や〈斧〉に特別の関心を抱きつづけていたわたしはこの〈もっとほかの理論〉に注目した。〈あれ〉が〈革命〉的な意味を内包していたことは確実に思えた。

〈革命〉の文脈で見れば、〈斧〉は〈アリョーナ婆さん〉の頭上に振り下ろされるより〈皇帝〉の頭上に振り下ろされるべきなのである。読者は、当時の革命家の誰もが考えた〈斧〉の使用相手を、ラスコーリニコフが間違えていたことの滑稽をしかと認識しなければならないだろう。ラスコーリニコフには封じられていた〈革命思想〉を、作者は密かに〈リザヴェータ殺し〉や殺人道具の〈斧〉に託していたと見ることができる。

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撮影・伊藤景

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ポスターデザイン・幅観月