清水正・批評の軌跡Web版で「清水正・ドストエフスキー論全集」第1巻~11巻までの紹介を見ることができます。

 

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動画撮影は2021年9月8日・伊藤景

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清水正・批評の軌跡Web版で「清水正ドストエフスキー論全集」第1巻~11巻までの紹介を見ることができます。

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ソーニャの部屋

──リザヴェータを巡って──(連載19)

〈もうおしまいになった人間〉ポルフィーリイを巡って

──「回想のラスコーリニコフ」の頃を回想して──(4)

清水正

 

 思い起こせば二十歳過ぎの頃、わたしは小沼文彦の前で「おしまいになってしまった」人間、一度精神上で死を体験した者でなければ批評家にはなれないということを熱く語ったことがあった。当時、小沼文彦は渋谷に日本ドストエフスキー協会資料センターを開設し、定期的に情報誌「陀思妥夫斯基」(一九七〇年十一月十五日に創刊、一九七三年九月十五日に24号)を出していた。この情報誌は20号(全22頁)で高松敏男「ドストエーフスキー論──『地下生活者の手記』に於ける〈虫けらの哲学〉の考察──」を掲載、24号(全42頁)でグロスマン・中村健之介訳「ドストエフスキーの蔵書」を掲載したもの以外は4頁〜8頁の小冊子であった。そこでこれとは別に本格的なドストエフスキーの雑誌を作ろうということで、わたしは求めに応じて「回想のラスコーリニコフ──自称ポルフィーリイの深夜の独白──」(一九七〇年十一月五日執筆)を預けた。しかしどういうわけか雑誌は刊行されず、原稿も返却されなかった。

 小沼文彦は筑摩世界文學大系38『罪と罰』(昭和四十六年三月)の解説で「このポルフィーリイこそ実はこの『罪と罰』の本当の主人公かもしれないのである。なぜならばポルフィーリイこそ殺人を犯さなかったラスコーリニコフ、つまりドストエフスキー自身であるからである」(433)「殺人を行わなかったラスコーリニコフ、つまりポルフィーリイ・ペトローヴィッチはこのまま姿を消してしまうのであろうか? しかしポルフィーリイを新しい姿で登場させるためには、ドストエフスキーはさらに長生きをしなければならなかったし、おそらくはそのためにはまったく別な新しい作家の出現を期待しなければならないものなのかもしれない」(435)と書いている。

 わたしはこの解説を読んでおどろいた。なぜならまさにこういったことをわたしは小沼文彦に向かって熱く語っていたのであり、書いてもいたからである。関連する箇所を「回想のラスコーリニコフ」(『ドストエフスキー体験記述』所収)から一つだけ引いておく「ここまで来れば、神なき世界における私の生存にとって、真に関わり合って来る登場人物は、殺人を遂行し、更生するラスコーリニコフでなく、すでに〈おしまいになってしまった〉ポルフィーリイその人なのである。現代に生き、あるいは死んでいる人間としての私、あるいは物体としての私にとって、ポルフィーリイは私自身そのものなのである。ポルフィーリイは生活者ラスコーリニコフを翻弄し、愚弄し、嘲笑しながらも、誰よりも深く彼を愛している。もっとも、ラスコーリニコフにはポルフィーリイの愛を識ることはできない。ラスコーリニコフの必要としたのはソーニャの愛であって決してポルフィーリイの愛ではなかった。ポルフィーリイにはラスコーリニコフのすべてが見えているが、ラスコーリニコフにはポルフィーリイの正体が何であるのか見当もつかない。最後まで作者ドストエフスキーは主人公ラスコーリニコフに対して、空しくも優越した地点を離れることはなかったのである」(29)。

 わたしは原稿「回想のラスコーリニコフ」の控えを持っていたので別に返却要求もしなかった。この原稿は後に「あぽりあ」15号(一九七三年四月)に掲載、『ドストエフスキー体験記述』(一九七四年五月)に収録、「現代のエスプリ」164号(一九八〇年三月)に再録されることになる。

 小沼文彦の眼前で「おしまいになってしまった人間」ポルフィーリイに関して熱弁をふるっていたわたしは、当時、小沼訳『罪と罰』を読んでいなかった。まさか「おしまいになってしまった」以外の訳などあるなどとは夢にも思っていなかった。もし小沼文彦が〈поконченный〉を「おしまいになった」でなく「用のない」と訳したその理由を説明してくれたなら、話も面白い展開になったと思うのだが、当時、作品の中身に関して深く掘り下げるような議論はなかった。

 いずれにしても、わたしはポルフィーリイは「薹のたつた人間」でも「用のない人間」でもなく、まさに文字通り「おしまいになった人間」として受け止め、『罪と罰』の人物中、最も親近感を抱き、間断なく批評を続けてきたのである。そして原典にあたって〈поконченный〉の前に〈совершенно〉(すっかり、まったく)を発見した時の衝撃、わたしはサヴェルシェーンナ、サヴェルシェーンナと頭の中でつぶやき続けた。ポルフィーリイは単に「おしまいになってしまった人間」ではなく、「すっかりおしまいになってしまった人間」なのか。わたしはそれまでポルフィーリイにも〈復活〉の可能性は残されているのではないかと思っていたのだが、〈совершенно〉の一文字でそれを断念せざるをえなかった。同時に〈ポルフィーリイ〉を自称していた自分自身をも冷徹に見つめ直す必要に迫られた。

清水正著『ウラ読みドストエフスキー』を下記クリックで読むことができます。

清水正•批評の軌跡web版 - ウラ読みドストエフスキー

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撮影・伊藤景

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ポスターデザイン・幅観月