清水正 動物で読み解く『罪と罰』の深層■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь) 連載2

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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清水正への講演依頼、清水正の著作の購読申込、課題レポートなどは下記のメールにご連絡ください。
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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。
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江古田文学」100号(2019-3-31)に掲載した「動物で読み解く『罪と罰』の深層」(連載4回)を数回にわたって紹介する。

動物で読み解く『罪と罰』の深層

 

清水正

■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь)
連載2

 

 ロジオンは高利貸しアリョーナ婆さんを一匹の有害な〈虱〉と見て、彼女を殺すことを〈良心〉に照らして許すという考えにとりつかれるが、この考えがいかに偏頗であり想像力に欠けたものであるかは前項において指摘した。ロジオンはミコールカによる老いさらばえた〈めす馬殺し〉には理不尽を感じ、激しい憐憫の情を寄せる。が、六十歳になる十四等官未亡人アリョーナには生理的嫌悪感を覚えるばかりで微塵の同情も寄せない。マルメラードフに〈ものに感じる心を持った教養のある青年〉と見込まれたロジオンは、自分の娘ソーニャをイワン閣下に身売りさせ、黄色の鑑札を受けさせて淫売婦に追いやったろくでなしのマルメラードフとその一家に同情を寄せることができるのに、ことアリョーナ婆さんにだけは同情しないというのはどういうことなのであろうか。作者はアリョーナ婆さんの喜怒哀楽を具体的に描くことなく、学生やロジオンが抱く極悪のイメージのみを書き連ねている。アリョーナ婆さんは一匹の〈虱〉である前に歴とした人間であることを忘れてはならないだろう。ロジオンが正真正銘の〈ものに感じる心〉の持ち主であるなら、アリョーナ婆さんの〈人間〉にも眼差しを注がなければならなかったはずである。

 ロジオンが〈メス馬殺し〉の夢を見たのは〈アリョーナ婆さん殺し〉の前日である。ふつうに考えれば〈めす馬殺し〉に激しい憤りを感じて大人たちに抗議したロジオンが、アリョーナ婆さん殺しを実行すること自体があり得ない。六十年の喜怒哀楽の人生を刻んできたアリョーナ婆さんを一匹の有害な〈虱〉としてしか認識できないロジオンを〈ものに感じる心〉を持った若者と見ることはとうていできない。が、描かれた限りでのロジオンはただの一度も殺したアリョーナ婆さんを気の毒におもったことはない。ロジオンはミコールカによって殺された老いさらばえた〈めす馬〉を〈アリョーナ婆さん〉に重ねることはなかったのであろうか。理不尽にも大勢の人間が乗り込んだ荷馬車を引く羽目になった〈めす馬〉の徒労な足掻きと、ユダヤ人並の高利貸し業で三千ルーブリからの金をため込んだアリョーナ婆さんの業突く張りの人生はわたしの中では重なる。アリョーナ婆さんの対他者関係の非本来性は彼女の不幸を浮き彫りにするだけで、それは彼女なりの艱難辛苦を意味している。愛と赦しの感情からかけ離れた、金中心の吝嗇主義は他者との宥和的な絆を結ぶことができず、絶えず不信と猜疑の檻の中に捕らわれた実存を生きることになる。アリョーナ婆さんはすべての同胞であるべき人間を自分の存在を不断に脅かす敵と見なして、いっさいの救いを修道院の神に委ねてしまった。アリョーナ婆さんの〈信仰〉は、現実世界での人間共同体での孤立を代償にして成り立っている。アリョーナ婆さんの〈信仰〉は腹違いの妹リザヴェータの〈信仰〉とも乖離しており、彼女の孤立に寄り添い理解を示す者はひとりもいなかった。もしロジオンがアリョーナ婆さんの高利貸しとして生きなければならなかった不可避性に思いを寄せることができたならば、彼の〈良心〉は彼女の殺しに対して許可を与えることはなかったであろう。

 殺された〈めす馬〉から連想されるのはアリョーナ婆さん以上にロジオンの母親プリヘーリヤである。プリヘーリヤは夫ロマンを亡くした後、二人の子供を女手ひとつで育てあげなければならなかった。ロマンが死んだときプリヘーリヤ、ロジオン、ドゥーニャが何歳であったのかを作者は書いていない。年金一二十ルーブリが支給されるだけの期間をロマンは役所に勤めたということぐらいしかわからない。妻のプリヘーリヤが、子供のロジオンとドゥーニャがロマンのことをどう思っていたのかも全く描かれていない。ロジオンが十歳前後の時に死んだのか、それとも十五六歳の時に死んだのかでは、残された者たちの苦労の度合いはまったく違ってくるが、作者が書いていないのであるからどうしようもない。