清水正 動物で読み解く『罪と罰』の深層〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь)

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江古田文学」100号(2019-3-31)に掲載した「動物で読み解く『罪と罰』の深層」(連載4回)を数回にわたって紹介する。

動物で読み解く『罪と罰』の深層

 

清水正

■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь)
連載1

 

■〈めす馬〉 『罪と罰』には印象深い、恐ろしい夢が描かれている。夢とは言ってもあまりにも生々しいので、それは現実以上のリアリティを持っている。中でもロジオンがアリョーナ婆さん殺しの前に見た〈めす馬殺し〉の夢は圧倒的なリアリティで迫ってくる。まずは夢の内容を簡単にまとめておこう。ロジオンは七歳、時は祭りの日(薄ぐもりの蒸し暑い日)の夕方、場所はロジオンの生まれ育った田舎町(リャザン県ザライスク)のはずれ、一軒の酒場の前で、酒に酔ったミコールカによって老いさらばえた一匹の百姓馬が鞭で、ながえで、最後には鉄梃で殴り殺される。ロジオンは父親と二人、散歩の途中でこの残酷悲惨な〈めす馬殺し〉の現場に出くわす。ロジオンは群衆をかき分け殺された〈めす馬〉に駆け寄り、血塗れの鼻面に接吻すると、ミコールカに飛びかかる。まさに幼いロジオン一人が理不尽な殺害者に捨て身の抗議をしている。  殺された一匹の〈めす馬〉は〈二十からの婆さま馬〉で、荷馬車を引ける体力はない。所有者のミコールカばかりか、この荷馬車に乗り込んだすべての者が〈めす馬殺し〉に荷担している。〈めす馬〉はカーニバル空間での生贄として血祭りにされる。荷馬車を取り囲んだ者たちで、この生贄を本気で助け出そうとする者はいない。生贄に同情し、ミコールカを非難する者も、必死で足掻く〈婆さま馬〉に時に笑いを発したりする。ロジオンだけが、残酷な〈めす馬殺し〉の共犯者を免れている。大酒くらってサディステックな残酷行為を〈めす馬〉に執拗に繰り返すミコールカと、彼に同調する荷馬車に乗り込んだ者たち、彼らは〈めす馬〉に微塵の同情も寄せない。逃げ出すことのできない、荷馬車につながれた〈めす馬〉を寄ってたかってぶち殺す者たち、彼らはロジオンの捨て身の抗議に微塵も心を動かされない。 

 『罪と罰』の中でロジオンの父親が登場するのはこの夢の場面においてのみである。読者はロジオンの父親の名前が、ロジオンの父称ロマーノヴィチからロマンということは分かるが、その他のことに関してはほとんど何も分からない。ロジオンが七歳の時、ロマンが何歳だったのか、どこに勤め、プリヘーリヤとどのような経緯で結婚することになったのか、何歳で何が原因で亡くなったのか。作者は読者が知りたいと思う基本的な事柄を何一つ書かない。もし、ロジオンのこの〈めす馬殺し〉の夢における父親ロマンが、現実の姿を忠実に反映していたとするなら、彼は息子ロジオンの性格とはだいぶ違っているように思える。息子ロジオンは理不尽な現実に捨て身で抗議できる激しい性格を備えているが、父親ロマンには息子の手を引いて現場から立ち去ろうとするだけの保身的な姿勢しか伺えない。ロマンには理不尽な現実と闘う情熱はなく、彼の心を支配しているのは諦めである。理不尽な現実に立ち向かう七歳のロジオンが、その現実から立ち去ることを選んだ父親をどのように思ったか。『罪と罰』でロジオンは父親に関してはいっさい言葉を発することはなかった。その意味では『罪と罰』は〈父不在〉の長編小説とも言える。

〈めす馬殺し〉の首謀者は酒に酔ったミコールカだが、荷馬車に同乗した者たち、その場に居合わせた者たちもまた共犯者の責めを免れない。年老いた痩せ馬を寄ってたかってたたき殺すことの理不尽、その残酷さを彼らは当の殺される〈めす馬〉の側に立って同情することができなかったのだろうか。確かにミコールカを言葉に出して非難する老人もいた。この老人の非難に賛同する者も少なからずいただろう。しかし、彼らのうち誰一人として身を挺してミコールカの横暴を阻止する者はいなかった。ミコールカを首謀者とする〈めす馬殺し〉は祭りの日の一行事として許容されてしまったかのように見える。この残酷な儀式に身を挺して抗議したのは七歳のロジオンただ一人であった。ロジオンの内には〈めす馬殺し〉を絶対に認めない〈良心〉があった。この〈良心〉はカーニバル空間における生贄の儀式そのものに対しても断固としてノーと応える。祭りに参加した大人たちが許容する〈理不尽〉をロジオンは決して許さないのである。七歳のロジオンの内に、イワン・カラマーゾフの世界に対する抗議、反逆の思想を読みとることもできよう。

 が、ロジオンの〈理不尽〉に向けての抗議の叫びも〈めす馬〉の命を救うことはできなかった。ロジオンは父親に手を引かれ、その〈理不尽〉の現場を離れることしかできなかった。現実世界を生きるとは、この〈理不尽〉に直面し続けることを意味する。〈理不尽〉を受け入れ、妥協する途があり、〈理不尽〉と闘う途がある。後者を選んだ者を待ち受けているのは共同体からの疎外であり、弾圧であり、もしくは発狂である。妥協なき革命家や宗教家は例外なく既成社会からの弾圧を受けることになる。追放され処刑された革命家や宗教家は数限りなく存在した。さてロジオンの場合はどうだっであろうか。

 『罪と罰』の読者はロジオンが三年前にペテルブルクに単身上京するまでの幼少年期のほとんどすべてを知らない。七歳時の〈めす馬殺し〉の場面はあくまでも〈夢〉であって〈事実〉ではない。父親のロマンの死に関して作者は一切報告しない。ロジオンが田舎でどのような教育を受けてきたのか、友達や恋人はいなかったのか。とにかく作者はわざとのように何も報告しない。ロジオンがペテルブルク大学法学部を目指した理由も分からないし、成人するまでにどのような本を読み、どのような作家や思想家の影響を受けたのか、とにかく作者はわざとのように何も報告しない。ロジオンの内的世界、その思想を知る一つの手がかりとなるのは、彼が週間雑誌に投稿した犯罪に関する論文だが、この論文を作中人物のポルフィーリイやラズミーヒン、それに母親のプリヘーリヤでさえも読めたというのに、読者はそのテキストを発表されたままの形で提供されない。読者はこの論文の内容に関してポルフィーリイの〈解釈〉とロジオン自身の〈説明〉によって知るほかはない。その論文から推測するに、ロジオンは自身を既成の社会に従順な凡人ではなく、自分自身の独自の言葉を発し、自らの第一歩を踏み出すことのできる非凡人の範疇に属する者と考えていたらしい。一つの問題は、この場合の〈第一歩〉をナポレオンのように行動家としてのそれと見るか、著作家としてのそれと見るかである。ロジオンが論文を投稿していたことに注目すれば、彼が文学界や論壇において独自の地位を占めようと努力していたことが伺える。わたしは実際に〈踏み越え〉を行うロジオンよりは、屋根裏部屋の思索家にとどまるロジオンにリアリティを覚える者だが、作者は主人公に自らが職業作家を目指した若き日の運命を与えず、一種の〈幻想〉(фантазия)、〈玩具〉(игрушка)でしかなかった〈アレ〉(踏み越え=преступление)へと押し出してしまった。わたしはロジオンの〈アレ〉はロジオン自身の意志の結果と言うよりは、はるかに作者の意志が働いていると見ている。ロジオンの〈アレ〉は、第一の〈踏み越え〉(アリョーナ婆さん殺し)から始まって最終的な〈踏み越え〉(復活)に至って幕を下ろすことになるが、この〈アレ〉の脚本・演出家は作者ドストエフスキーにほかならない。

 自分では人殺しなどしなかったドストエフスキーが、自分の分身でもあるかのようなロジオンになぜ屋根裏部屋の〈思索家〉から〈犯罪者〉へと背中を押したのか? 

 〈踏み越え〉(アリョーナ婆さん殺しとリザヴェータ殺し)てみなければ開けてこない世界がある。その世界を作者はロジオンの〈踏み越え〉を通して描きたかったのであろうか。確かに最初の〈踏み越え〉があってこその最終的な〈踏み越え〉(復活)の実現である。が、わたしは一貫してこの図式に納得しない。二人の女を殺して、最後まで〈罪〉(грех)の意識に襲われない殺人者の〈復活〉など絵空事としか思えない。冗談もほどほどにしてくれという思いである。ロジオンは狂信者ソーニャの信仰を受け入れ復活の曙光に輝くが、わたしはこの設定自体を認めがたく思っている。わたしが自然に素直に受け入れられる信仰はソーニャの狂信ではなく、キリスト様のお恵みだと言ってロジオンの手に二十カペイカ銀貨をさりげなく握らせる商家の女将の信仰であり、ロジオンに何くれと世話をやく笑い上戸の女中ナスターシャの信仰である。わたしは信仰の自然な姿はそのようなものだと思っている。こういう少しも大げさでない信仰こそ本物の信仰だと思っているので、殺人者や娼婦に身を堕とさなければ獲得できない信仰に関しては眉唾物という思いを拭いきれない。