清水正 動物で読み解く『罪と罰』の深層■〈虱〉(вошь) 連載8

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江古田文学」99号(2019-3-25)に掲載した「動物で読み解く『罪と罰』の深層」(連載3回)を数回にわたって紹介する。

動物で読み解く『罪と罰』の深層

 

清水正

■〈虱〉(вошь)
連載8

 屋根裏部屋の空想家ロジオンはプロの物書きをこそ目指すべきであった。地下生活者の途(手記を書くこと)を文学界で徹底的に歩み尽くすことがロジオンに与えられた使命であったはずだが、彼は悪魔の誘惑に堕ちて〈アレ〉を実行してしまった。ロジオンを〈踏み越え〉(アリョーナ婆さん殺し)へと誘惑したのは〈悪魔〉(дьявол、черт)だが、彼の最終的な〈踏み越え〉(преступление)が〈復活(воскресение)であることを忘れなければ、この悪魔は神そのものに他ならない。が、わたしがここで書いているようなことは『罪と罰』の中では真っ正面から取り扱われることはない。

 先に少しばかり触れたように、『罪と罰』には当時の編集者や検閲官に看破されてはならないこと(たとえば〈アレ=皇帝殺し〉)が秘かに埋め込まれていた。〈良心〉に照らせば業突く婆あのアリョーナは殺しに値する一匹の〈虱〉ということだったが、当時の過激な革命家に言わせれば社会の諸悪の根源は皇帝にこそあると考えていた。つまり革命家の〈良心〉に照らせば皇帝は打ち倒さなければならない巨大な一匹の〈虱〉であったことになる。

 ロジオンは作中において〈虱=皇帝〉を口に出すことを禁じられている。禁じているのはもちろん作者、政治犯として死刑執行寸前の体験と八年のシベリア流刑を宣告されたドストエフスキーである。作者はロジオンの非凡人の思想が当時の絶対的権力者皇帝に及ばないように、すべての登場人物に厳しく箝口令をしいている。ポルフィーリイ予審判事、ラズミーヒン、スヴィドリガイロフといったロジオンの内部世界に深く食い込んでいる人物たちは、彼の犯行や理論に関してその矛盾点など鋭く突くことが可能であったはずなのに、みながみな、その危険な領域に関しては一歩も踏み込んでいくことはなかった。彼ら登場人物たちは見事に作者ドストエフスキーの統治に従っている。

 ドストエフスキーの根源的な人間認識のうちに「人間はすべて卑劣漢である」というのがある。こういった認識を持った者の眼から見れば、きれいごとを言っているような人間こそ卑劣漢ということになる。現に作者はマルメラードフの告白の中で〈生神様〉(божий человек)と賞賛されたイワン・アファナーシィエヴィチ閣下が実はソーニャの処女を銀貨三十ルーブリで買った淫蕩漢であること、またプリヘーリヤの手紙で金を都合してくれた〈いい人〉(добрый человек)アファナーシイ・イワーノヴィチが実は年金以外の担保を要求していたかもしれない卑劣漢であることを暗示している。