清水正 動物で読み解く『罪と罰』の深層■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь) 連載5

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

f:id:shimizumasashi:20181228105251j:plain

清水正の著作はアマゾンまたはヤフオクhttps://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208で購読してください。 https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208 日芸生は江古田校舎購買部・丸善で入手出来ます。

 

清水正への講演依頼、清水正の著作の購読申込、課題レポートなどは下記のメールにご連絡ください。
shimizumasashi20@gmail.com

(人気ブログランキングに参加しています。よろしければクリックお願いします)
https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk
これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。
https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk

清水正への講演依頼、清水正の著作の購読申込、課題レポートなどは下記のメールにご連絡ください。
shimizumasashi20@gmail.com

(人気ブログランキングに参加しています。よろしければクリックお願いします)
https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk
これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。
https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk

江古田文学」100号(2019-3-31)に掲載した「動物で読み解く『罪と罰』の深層」(連載4回)を数回にわたって紹介する。

動物で読み解く『罪と罰』の深層

 

清水正

■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь)
連載5

 

 読者はすでにアリョーナ婆さんに対して社会に有害な一匹の〈虱〉という先入観を与えられているから、ロジオンの「一つの犯罪は百の善行によって贖われる」「非凡人は良心に照らして血を流すことが許されている」という理論を素直に受け入れることになる。ロジオンがここで〈呪わしい空想〉を振るい捨てたとしても、それは彼がアリョーナ婆さん殺しの結果に「耐えられない」「もちこたえられない」ことによってであり、彼の殺しの理論自体を否定したことによってではない。ロジオンは〈アレ=プリヘーリヤ〉〈アレ=ソーニャ〉等を全く視野に入れずに〈呪われた空想〉からの解放を神に願ったのである。作者は次のように書いている。  

 

 橋を渡りながら、彼は静かな落ちついた気持でネワ川を眺め、赤々と輝く太陽のまばゆいばかの夕映えに目をやった。体は衰弱しきっていたが、疲労感はほとんど感じなかった。それは、まる一月も化膿していた心臓の腫物が、ふいにつぶれたような思いだった。自由、自由! 彼はいまや、あのまやかしから、妖術から、魔力から、悪魔の誘惑から自由である! (上・129) 

 

 ロジオンにとって〈アレ〉は〈呪われた空想〉であり〈まやかし〉〈妖術〉〈魔力〉〈悪魔の誘惑〉であったが、〈めす馬殺し〉の夢を見た後ではそれらから解放され〈自由〉となった。が、わたしたち読者はロジオンが〈……悪魔の誘惑〉から真に解放されていなかったことを知っている。どういうことか。ロジオンは何ものかによって弄ばれているのか。作者は〈運命の予告〉という言葉を使っている。まさにロジオンは十九世紀ロシア中葉に出現したオイディプスなのである。オイディプスが「父を殺し、母と臥所を共にする」という、アポロンの神より告げられた〈呪われた運命〉から逃れられなかったように、ロジオンもまた自分の〈意志〉を超えた〈運命〉の不可避性を生きざるを得なかった。

 〈意志〉を超えた〈運命〉ということであれば、〈アレ〉の実行の責任をロジオン個人に負わせることはできない。〈運命〉は善悪観念を超えた、いわば必然であり、偶然は必然の別名でしかない。たまたまセンナヤ広場で古着屋の女房とリザヴェータの会話を耳にし、明日の午後七時にはアリョーナ婆さんが一人きりになると思いこんだこと、犯行当日、殺しの道具として予め考えていた料理用の斧がナスターシャが外出していなかったことで手に入れられなかったが、庭番小屋に斧を発見する。たまたま庭番はおらず、ロジオンはまんまと斧を手に入れることができた。犯行に至るまでのすべての偶然は必然の道であり、ロジオンはこの必然の網の目から遂に自由になれることはなかった。彼にもし自由があるとすれば、必然即自由としての自由しか与えられていなかった。ただしドストエフスキーの〈運命の予告〉のうちに必然即自由とか、運命と神の問題なとが予め考え尽くされていたかどうかについては即断できない。ニーチェ永劫回帰キリスト教一神教の直線的時間概念を超えて円環的時間であり、善悪観念を超脱した必然の肯定であり、この永劫回帰的必然そのものを自由として体感する時間概念である。ドストエフスキーの場合は『悪霊』のキリーロフに体現された〈すべて良し〉という究極の悟達も描かれているが、このキリーロフ自身がキリスト教の教義を乗り越えていたとは思えない。ドストエフスキーの人物たちはキリスト教の《神》から解放された〈必然即自由〉の境地に精神の安定を味わうことはできなかった。《神》からの解放を願った者は自らの狂気を代償としなければならなかった。

 ロジオンは犯行後、自らの行為に〈運命の予告〉や〈ある神秘的でデモーニッシュな力の作用〉などを感じるが、〈運命〉を定めたもの、〈……力の作用〉を施すものに向けての反逆や抗議をなすことはなかった。これはオイディプスも同じである。オイディプスは自分の意志を超えた〈運命〉に対して自らを責めるという矛盾をおかしている。これはオイディプスが自らを〈運命〉をも超える英雄と見なしていたことの一つの証となっている。ロジオンは〈運命の予告〉に従って二人の女を殺害し、自分で予感していた通り、そのことにもちこたえることができなかった。ロジオンは〈運命〉に抗議する資格を持っているが、彼は〈運命〉にではなくソーニャの信じる〈神〉へと向かう。いずれにせよロジオンもソーニャも、〈運命〉と〈神〉の問題に踏み込むことはなかった。