清水正 動物で読み解く『罪と罰』の深層 ■〈虱〉(вошь) 連載5 

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江古田文学」99号(2019-3-25)に掲載した「動物で読み解く『罪と罰』の深層」(連載3回)を数回にわたって紹介する。

動物で読み解く『罪と罰』の深層

 

清水正

■〈虱〉(вошь)
連載5 

 

 なぜ作者はリザヴェータを登場させ、ロジオンに殺させたのか。ここには作者がテキストに秘かに埋め込んだ仕掛けがある。『罪と罰』の表層をスケーティングするだけの読者は、ロジオンの〈アレ=アリョーナ婆さん殺し〉とのみ解釈してしまう。つまり〈アレ〉の中に〈リザヴェータ殺し〉を含めることができない。どうして大半の読者がこういった表層的な読みしかできないのかと言えば、まずロジオン自身が〈アレ〉の中にリザヴェータ殺しを含めていなかったことがあげられる。しかしここに作者の狙いがある。作者は主人公のロジオンを欺きながら、読者を、より正確に言うなら、発表誌「ロシア報知」の編集長カトコフやリュビーモフ、検閲官の眼を欺いているのである。

   ロジオンの〈アレ〉には、〈リザヴェータ殺し〉ばかりか〈皇帝殺し〉まで含まれているのだが、このことがもし看破されたら、元政治犯ドストエフスキーの作家生命は絶たれる危険性もあった。ドストエフスキーにしてみればどんなことがあってもこのこと(アレ=皇帝殺し)だけは看破されてはならなかったのである。ドストエフスキーは「ロシア報知」編集部からの理不尽な書き換え要請(〈ラザロの復活〉の場面の書き換え)に従わざるを得なかったが、その余りにも無礼な要請に応える奥で、彼らの読解力をはるかに越える仕掛けを埋め込んでいたのである。宮沢賢治の場合もそうだが、天才を理解できない編集者や研究者が賢しらぶって生原稿に手を入れることほど愚かしいことはない。

 ロジオンがリザヴェータを殺したことによって、彼の非凡人の殺人正当化(良心に照らして血を流すことが許されている)は破綻することになる。ロジオンはアリョーナ婆さんを有害な汚らわしい一匹の〈虱〉と見なしたが、彼女の妹リザヴェータを〈虱〉と見なしていない。理屈上で見れば、ロジオンは〈良心〉に反してリザヴェータを殺してしまったことになる。にも拘わらずロジオンは、リザヴェータ殺しに〈良心〉の呵責を感じていない。何度でも問おう、ロジオン、おまえさんにはそもそも〈良心〉があったのかい? と。

 ポルフィーリイはロジオンに向かって「あの婆さんを殺しただけですんで、まだよかったですよ。もし別の理論を考えついておられたら、幾億倍も醜悪なことをしておられたかもしれないんだし! その点、神に感謝してしかるべきかもしれない。だって、神があなたを何かのために守ってくだすったかもしれないじゃないですか」(下・220~221)と言う場面がある。

 ロジオンには一応〈良心〉という砦がある。しかし「神がなければすべてが許されている」という考えに至れば、そこに歯止めとなる〈良心〉はもはやない。業突く婆さんのアリョーナを殺すことも、目撃者のリザヴェータを殺すことも同じく許されることになる。ネチェーエフの「革命家の教理問答」によれば、革命という絶対正義の目的を達成するためには要するにすべてが許されるのである。ネチャーエフは恐ろしいことを淡々と書き記している。そこには革命のためには親も子も恋人も殺さなければならないと書いてある。これはキリストの弟子になるためには、地位も名誉も金も肉親もあらゆるものを捨て、なお自分が処刑される十字架を背負って付いてきなさいと言ったキリストの言葉を彷彿とさせる。キリストの言葉と革命家の言葉には一致するものがある。当時の革命家たちの中には自分とキリストを同一視する者もあった。ロジオンは自らの内なる過激な革命思想を披露することはなかったし、彼の根源的な分裂、すなわち革命か神かに対しても沈黙を守っている。

 ロジオンがリザヴェータ殺しに関してほとんど全く思い出さないのは、思い出したらまずいからである。ロジオンにとってまずいというよりは、作者ドストエフスキーにとってまずいのである。『罪と罰』に出てくるロシア最新思想の持ち主はレベジャートニコフ一人で、しかも彼は作者によって屈辱的な肖像画を提供されている。よく読み込んでいけばレベジャートニコフにも〈キリスト〉のイメージが付与されているが、彼は概してルージンと同等の存在に位置づけられている。ロジオンはこういった穏健な革命思想家とすらまともに議論しようとは思わない。当時、過激な革命思想を抱いたテロリストも存在したであろうが、作者はそういった革命家を絶対にロジオンの前に出現させない。読者はよほど注意深くなければ、なぜ『罪と罰』中に過激な革命家が登場しないのか、疑問すら抱かない。もはや理由は明白である。ロジオンの前に本物の革命家が現われれば、ロジオンという青年のノンポリ性、その犯罪の中途半端性が露呈することになる。