「動物で読み解く「罪と罰」の深層」は江古田文学103号で連載7回完結。

 

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近況報告

江古田文学」103号が3月25日に刊行された。わたしの「動物で読み解く「罪と罰」の深層」は連載7回目。今号で連載を打ち切った。前にも書いたがこの連載原稿の続きの60枚をポメラ操作ミスで失い、少なからずガックリきている。少し時間をおいてからまた書きだそうと思っている。

本ブログでは103号に掲載した100枚のうち、最後の箇所を載せておく。今流行りの新型コロナを、ドストエフスキーが「罪と罰」でロジオン・ラスコーリニコフの悪夢の中で描いた「理性と意志を賦与された施毛虫」に重ね合わせると意義深い。この「施毛虫」は「精霊」とも言われており、これに感染したものは自分が絶対的に正しいと信じ、お互いに闘争し始める。やがて感染者は全世界に及び、人類は滅びてしまうという悪夢である。

ドストエフスキーは、それでも絶望的な幕引きを避けて、何人かの選ばれた者がこの厄から逃れたと記している。はたして人類は破滅しきってしまうのか、それともまだ希望はあるのか。ドストエフスキーは次のように書いている。

「火災が起こり、飢饉が始まった。何もかも、ありとあらゆるものが滅びていった。疾病はしだいに猖獗を加え、ますます蔓延していった。世界じゅうでこの厄をのがれたのはようやく四五人にすぎなかった。それは新しい人の族と新しい生活を創造し、地上を更新し、浄化すべき使命をおびた、選ばれたる純なる人々であった。しかし、だれひとりとして、どこにもそれらの人を見たものもなければ、彼らの言葉や声を聞いたものもなかった。」米川正夫訳。

ここで詳しいことは語らないが、ここに引用した箇所だけ読んでもドストエフスキーがいかに予言者的な恐るべき小説家であるかがわかるだろう。この際、特に若い人たちは真剣にドストエフスキーを読んだらいいと思う。ヒカルが「罪と罰」をどう読むか、たいへん興味がある。ヒカルが動画で「罪と罰」を取り上げたら、まさに奇跡的に読まれると思うのだが。

 

江古田文学」103号に掲載した論文の一部を再録。

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 ソーニャの部屋を俯瞰する
 ――二人の〈神〉の現出とペテルブルク――

清水正


 さて、ここでもう一度〈ソーニャの部屋〉を俯瞰的に見ることにしよう。
 ソーニャの部屋の壁を取り払ってしまえば、左側にカペルナウモフ夫妻と七人の子供たちが、そして右側に立ち聞きしていたスヴィドリガイロフが現れることになる。妻マルファを毒殺したのではないかと噂される淫蕩漢スヴィドリガイロフもまた間違いなく〈奇妙な人〉(странный человек)である。まさにソーニャの部屋は奇妙な人々の集合場所である。緑色に塗られた掘割に面した三階建ての建物の一室は一挙に意味ありげな神秘的な部屋に変貌する。ここでスヴィドリガイロフが〈ラザロの復活〉という前後未曾有の一大〈奇跡〉(чудо)の〈立会人〉(свидетель)であり、〈実際に奇跡を起こした人〉(чудотворец)であり、ラズミーヒンと同じく〈現世的な意味での神・善行を施す人〉(провидение)で、亡き妻マルファの〈幽霊〉(привидение)を観ることのできる男であったことを確認しておこう。まさにスヴィドリガイロフは際だって奇妙奇怪な男であり、〈怪物〉(чудо)である。はたしてこの男に並ぶような〈奇妙な人〉が存在するであろうか。わたしの脳裡にすぐに浮かんできたのは、ソーニャの傍らに顕れる〈幻=видение〉、すなわち〈キリスト〉である。
 ソーニャの信じている〈神〉(бог)は、彼女の傍らに顕れることはあっても、現実的な救済の手を差し伸べることはなかった。ヨハネ福音書に描かれたイエスは様々な奇跡を起こしているが、ソーニャの信じる神は沈黙し続ける神であり、ロジオンに言わせれば「何もしてくれない神」である。つまり、壁を取り払ったソーニャの部屋には、顕れるだけで何もしてくれない〈神〉(бог)とスヴィドリガイロフという〈現実的な奇跡を起こす人・神〉が居合わせていたことになる。スヴィドリガイロフが単なる奇跡の〈立会人〉にとどまらず、ソーニャを淫売稼業の泥沼から救い出し、カチェリーナの子供たちに救いの手を差し伸べたことは、まさに彼こそが望まれるべき〈神〉(провидение)に思える。
 二千年前には死者をも甦らせた神のひとり子イエス、しかしソーニャの傍らに〈幻=видение〉として顕れる〈キリスト〉は〈何もしてくれない神〉にとどまっている。福音書に描かれたイエスは、彼を信じる者にとっても、彼を迫害する者にとっても、きわめて〈奇妙な人〉であったことにかわりはないが、〈ラザロの復活〉朗読の場面においては、〈幻=キリスト〉よりもスヴィドリガイロフのほうがはるかに〈奇妙な人〉に見える。
 〈奇妙な人〉関連で付け加えておけば、スヴィドリガイロフはロジオンとの最後の会見の場で「ペテルブルグでは、歩きながらひとり言をいう人がたくさんあります。こりゃ半気ちがいの町ですよ。もしわが国にほんとうの科学があったら、医者も、法律家も、哲学者も、それぞれ自分の専門に従って、ペテルブルグを対象にきわめて貴重な研究をすることができたでしょうよ。ペテルブルグほど人間の心に陰うつ険峻な、奇怪な影響をあたえるところは、まずあまりありますまいよ」(533)と言っている。
 十八世紀、ロシアの近代化を促進するために、ピョートル大帝フィンランドの湿地帯に全ロシアから石を運んで建築した人工都市ペテルブルクは、ヨーロッパの諸学問を受け入れる窓であると同時に軍事要塞の役割も果たしていた。ピョートルのまさに西欧的な理性と意志によって建築された都市ペテルブルクは世界一美しい幻想的な都市であると同時に、官僚的な、人間性を疎外する人工都市でもあった。それは悠久の歴史を刻むロシアの自然性から乖離した、いびつな、不具的な近代都市であり、そこに生きる者の精神性を歪めずにはおれなかった。ドストエフスキーが初期作品で描き出した小役人――『貧しき人々』のマカール・ジェーヴシキン、『分身』のゴリャートキン、『プロハルチン氏』のプロハルチン、『弱い心』のワーシャ・シュムコフなど、精神の危機に陥らざるをえなかった人物たちの悲劇的運命がそのことを明確に示している。弱い心の持ち主や、空想癖のある人間にとって、ペテルブルクは実に危険な町だったということになる。
 つまりソーニャの部屋にだけ〈奇妙な人〉が集まっていたのではなく、ペテルブルクという都市に住むあらゆる人間が、程度の差はあれ奇妙、奇怪な側面を備えていたということである。それはロジオンがシベリアの監獄で見た悪夢の中にあらわれる〈理性と意志を賦与された旋毛虫〉とも深く繋がっている。つまりペテルブルク全域に、この旋毛虫、すなわち感染するとただちに自分だけが正しいと思ってしまう微細な〈旋毛虫〉が蔓延していたということである。注意すべきは、この顕微鏡を覗かなければ見えない〈旋毛虫〉(трихина)が〈精霊〉(дух)であったことだろう。まさにペテルブルクはピョートル大帝にとり憑いた〈理性と意志を賦与された精霊〉(духи, одаренные умом и волей)によって建築され、十九世紀中葉にあってもペテルブルク全域にこの〈精霊〉が蔓延していたのである。

 

 

 池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube