随想 空即空(連載78)内村鑑三の最初の結婚と破局を巡って#ドストエフスキー&清水正ブログ#

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随想 空即空(連載78)内村鑑三の最初の結婚と破局を巡って#ドストエフスキー清水正ブログ#

清水正

 

 鑑三の各種の評伝を読むと、タケの年齢は鑑三と同じであったが二歳ほど若く言っていたとある。タケが結婚するとき満二十三才であったが、当時の結婚適齢期を考えると遅かったようである。タケはいくらかでも自分を若く見せたいと思ってウソをついていたのかもしれない。結婚して鑑三は給料をタケに全額渡していたが、必要があって金を求めたところ、その金がどこにも見あたらず警察沙汰にまでなった。鑑三はタケが内緒で使ってしまったと疑ったらしい。タケは結婚衣裳を借りて式に臨んだが、その衣裳が借り物であることを黙っていたために後にそれが発覚し問題になった。こういった結婚衣装の件、給料紛失の件、年齢詐称の件などに関して、鈴木俊郎は『内村鑑三伝 米国留学まで』(一九八六年一月二十一日 岩波書店)で次のように書いている。

 

 彼女は京都の同志社女学校に在学三年ののち横浜の共立女学校に転校し、そこになお三年在学して命じ十七年三月四日に卒業し、三月二十八日に彼と結婚した。そのため十分に家事に親しむ暇がなかったばかりでなく、嫁入りの支度をする時間の余裕がないうえに、家の事情は経済的にも余裕が乏しかったらしい。この点について彼らの長女であったノブ女(日永氏)が母タケから聞いたという話は、つぎのようなものであった。わたくしはその話をノフ女から直接聞いてメモに取っておいた。それに従えばこういうことであった。

   ――彼の方では彼女の式服などはどうでもよいということであったという。それにしても彼女の家では縞の銘仙の着物しか彼女にこしらえてやることはできなかったのだそうである。彼女は仲人の尾崎夫人がちゃんとした江戸褄の式服を着ると聞いて、自分の貧相な姿に耐えられなかった。家に帰って相談した。兄嫁が湯浅家からお嫁さんの衣装を貸してもらってきた。それはすばらしいりっぱなものであったという(この点は上掲の『クララの日記』の記述と一致している)。式はそれで無事に済んだ、というのである。

 ところが、このことが思いがけないことからトラブルの発端になった。事情を何も知らない彼の母は、この嫁の衣装を近所の人を呼んで見せたりした。彼女にはそれが借り物であるということを打ち明けることがだんだんむずかしくなってきた。そうこうするうちに衣裳を早く返してくれという催促が安中から来る。しかし彼女は母に知られずにそれを送り返す方法を知らなかった。そしてついにその事情が判明するにいたった。今日では婚礼衣裳を借りることは特殊なことではないが、当時はきわめて例外的なことであったかもしれない。しかし問題を深刻にしたのは、彼女が彼にその事情を告げずにいたということにあった。彼は彼女が嘘をついていたと考えたのである。(422~423)

 

  なお一つ偶発的な出来事があったという。それはこういうことであった。――彼は給料はそっくり彼女に渡していたという。ところが月給を渡して数日後、彼が「あれをちょっと貸してくれ」と言ったところ、それがなかったという。家じゅうどこにも見当らず、大騒ぎとなり、警察にまで届けたという。彼は彼女とともに祈り、犯人が出るようにねがい、彼女はアーメンをもって答えたという。当時は女中もいたが、彼は彼女がそれで着物でも買ったのではないかと疑った。彼は彼女が嘘をついていると考え、彼女をなじった。彼女は譲らなかった。彼女は彼のそういう仕打ちが堪えられなかった。彼女は昂奮した。妊娠一、二カ月の身でもあった。彼女はこんなところに来るのではなかったと後悔したという。(彼女は翌十八年四月十五日に娘ノブを生んでいる。)(423)

 

  そのうえ彼女の年齢のことがあった。彼が前年(十六年)のクリスマスに宮部にはじめて結婚問題を打明けた手紙のなかに、彼女は「齢ハ二十一歳」であると書いている。彼はその時数え年で二十三歳であったから、彼女は二歳の年下であったことになる。しかし浅田家家譜によれば彼女は文久元年二月一日生れであったから、彼女は彼と同い年であり、なお十二日だけ年上であったことになる。前掲の『クララの日記』に「花嫁は、感じのいい顔立ちの、小太りの、見たところ二十三位の人であった。しかし後で聞いたのだが、たった二十歳だそうである」とあのは、同じ年ごろ(クララは一歳年長であった)の女性の鋭い直感を示している。この事実はもちろん彼の知るところとなったであろう。この事においても彼女は嘘をついていたことになる。

  ただこの年齢のことだけを言えば、なるほど嘘は嘘であったが、それは女心の切ない嘘であったという同情的な見方もあるであろう。このことをもってただちに彼女を性格的な常習的虚言者とすることは酷であるかもしれない。しかし彼をしてそうおもわせることがあいついで現れたのである。そのことが、彼女に対する不信をつのらせることになった。(423)

 

 鈴木俊郎の『内村鑑三伝 米国留学まで』は実証的に押さえた研究で幾多の評伝のなかでも信用度が高い。鑑三とタケの結婚離婚問題に関しても鑑三の手紙はもとより、娘ノブの取材に基づいて客観的に言及しており、主観的な憶測は極力押さえ込んでいる。わたしは鈴木俊郎の研究者としてのその誠実真摯な姿勢に敬服するものであるが、わたしは自分の率直な思いを記すことにしたい。

 結婚衣裳の件など、読んでいて胸が痛くなる。立派な結婚衣裳を近所の者たちに見せびらかすヤソの気持ちもわからないわけではないし、それが湯浅家からの借り物だと率直に打ち明けられなかったタケの気持ちも切ないくらいにわかる。問題は事の真実を事前にわからなかった、あるいは打ち明けられなかった鑑三にある。満二十三歳の青年鑑三にそこまでわかれと言うのは酷かもしれない。が、この無意気(無粋)な青年は余りにも現実がわかっていない。鑑三が天使と思い、永遠の伴侶と思ったタケは一人の女である。しかもタケは結婚するまでキリスト教関係の女学校に通っていた賢く学問のある女ではあるが、謂わば世間知らずの女である。タケが洗礼を受けた新島襄は密出国までしてアメリカに渡り、十年後に牧師の資格を得て帰国した熱烈な国士である。新島が京都で同志社女学校を設立すれば、タケはすぐにそこへと移る決断の早い意志的な女である。タケはそこを中退し、故郷に戻って横浜共立女学校に転入学し、卒業している。学費は浅田家の好意によって賄われていたが、それだけ信用もあったと言うことだろう。いずれにしても鑑三はこういったある意味進歩的な〈新しい女〉を伴侶に選んだのである。こういった女が、古い儒教的な家風を守っている内村家の嫁としてそつなくやっていけると思ったら、よほど現実的感覚の欠いた者と見なされるだろう。

 

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