随想 空即空(連載27) #ドストエフスキー&清水正ブログ# 清水正

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清水正

 

 義雄の〈宇宙の帝王〉は一度徹底的に試みに合わなければならない。義雄は〈宇宙の帝王〉にひとり自足し、その上にあぐらをかいている。これでは屋根裏部屋に留まった『罪と罰』のロジオン・ラスコーリニコフの次元を一歩も越えることはできない。ロジオンは自分が〈非凡人〉であるかどうかを高利貸しのアリョーナ婆さんを殺すことで確かめようとした。結果、ロジオンは自分がアリョーナ婆さん以下の〈社会のダニ〉的存在であることを思い知ることになる。ロジオンという名は〈薔薇〉を意味し、父称ロマーノヴィチは〈ロマノフ王朝の〉を意味する。つまり名と父称でみる限りロジオン・ロマーノヴィチは〈ロマノフ王朝の薔薇〉、意訳すれば〈ロマノフ王朝の帝王〉ということになる。ロジオンは作品の出だし部分で「おれにアレができるだろうか?」(Разве я способен на это?)と考える。〈アレ〉とは単なるアリョーナ婆さん殺しではなく〈皇帝殺し〉をも意味している。つまり、ロジオンは現皇帝を殺し、彼自らが皇帝の座につくことを願っている存在でもあったことになる。もちろん、ロジオンの呟く〈アレ〉の隠された意味を解読できる読者はいなかった。今日においても大多数の読者は〈アレ=アリョーナ婆さん殺し〉の表層的次元で『罪と罰』を読んでいる。天才の書いた小説に秘め隠された謎を発見し、それを解くには百年も二百年もの歳月を必要とするのである。

 泡鳴も『罪と罰』ぐらいは読んでいたろうが、この作品を踏み台にして新たな境地に突き進むことはできなかった。ロジオンは〈踏み越え〉の実験に果敢に挑戦し、結果、自らの〈凡人性〉に打ちのめされたが、〈宇宙の帝王〉義雄は自分自身を実験にかけようとする衝動に駆られることはなく、作中でだれにも侵されることのない帝王の安楽椅子に腰掛け続けていた。これでは義雄の〈宇宙の帝王〉はひとり勝手の妄想と言われても返す言葉はない。

  『罪と罰』においてロジオンの非凡人の思想はまず自らの〈踏み越え〉(殺人)によって試みられ、次いでポルフィーリイ予審判事やスヴィドリガイロフによって試みられる。ロジオンは自分を非凡人と考えた凡人にすぎないことを思い知らされる。ロジオンは娼婦ソーニャによってキリスト教の生きた魂と出会うことになる。殺人者ロジオンの前に、ソーニャは人類の全苦悩を背負った者として現れる。思弁の人ロジオンはソーニャの前に無意識のうちに跪く。ロジオンにとって謂わば殺人という〈踏み越え〉はソーニャというキリスト者に出会うためになされたと言っても過言ではない。ロジオンは結果としてソーニャの側へと飛躍する。作者ドストエフスキーの言葉で言えば「思弁の代わりに命が到来した」のである。わたしはロジオンの〈復活〉を全面的に認めることができないままに『罪と罰』論を書き続けている。

 泡鳴の小説をドストエフスキーの作品と比べて論じる気はさらさらないが、もし泡鳴が義雄の言う〈宇宙の帝王〉を厳しく検証しようとすれば、彼の壮大無敵の思想を根底から脅かすような人物を登場させなければならなかったであろう。そうでなければ到底、ドストエフスキーのポリフォニックな目眩く作品世界に肉薄することはできない。泡鳴は『耽溺』や『泡鳴五部作』において義雄と女たちの関係は生々しくリアルに描いているが、義雄の内的世界に関しては彼と同格に戦える人物を創出することができなかった。その意味で義雄の孤独は温室内の孤独で、他者の容赦のない批評に晒されていない。泡鳴の描く〈宇宙の帝王〉義雄はこと女に関してはまめに触手を動かして、そこに激しい葛藤の場面を演じるが、帝王思想は大事に玉手箱の中に収められたままであった。

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清水正研究」No.1が坂下ゼミから刊行されましたので紹介します。

令和三年度「文芸研究Ⅱ」坂下将人ゼミ

発行日 2021年12月3日

発行人 坂下将人  編集人 田嶋俊慶

発行所 日本大学芸術学部文芸学科 〒176-8525 東京都練馬区旭丘2-42-1

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