ネット版「Д文学通信」17号(通算1447号)岩崎純一「絶対的一者、総合芸術、総合感覚をめぐる東西・男女の哲人の苦闘 ──ニーチェ、松原寛、巫女の対比を中心に──」(連載第13回)

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ネット版「Д文学通信」17号(通算1447号)           2021年11月22日

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「Д文学通信」   ドストエフスキー&宮沢賢 治:研究情報ミニコミ

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連載 第13回

絶対的一者、総合芸術、総合感覚をめぐる東西・男女の哲人の苦闘

──ニーチェ、松原寛、巫女の対比を中心に──

 

岩崎純一日大芸術学部非常勤講師)

 

四、西洋の絶対者(ユダヤキリスト教の神)と群衆道徳 ニーチェの亡霊と共に

 

群衆(ユダヤ人、キリスト教徒)による神の「すり替え」作業としてのユダヤキリスト教

 

    今ここに、ユダヤキリスト教の群衆道徳の主張する「神」に代えて、いわばニーチェが打ち立てようとした新たな「絶対者」、つまりはニーチェが懐古した「大いなるディオニュソス」、「始原の存在」、「世界の心臓」に比定される太古の「絶対者」を考える。

 ここでの「絶対」とは、「全ては相対である」とするほかない認定のことである。「色即是空」を説いている間の「識(宇宙の識から自我の識まで)」だけは仮に存在すると見るほかないとした唯識論と同じく、「相対」なる言葉を用いる今この刹那の「我」の意図は「絶対」とするほかない、という意味での「絶対」である。

 ニーチェを単なる反キリスト教主義者であると思うのは誤りである。むしろ、前キリスト教的価値の復興者、新たなキリスト教の追求者、新たな価値(価値という解釈)の創造者である。プロティノスの一者よりは、西田幾多郎の一者たる絶対無の自覚の探求者である。このような絶対者・一者感覚は、ギリシャ世界で元を辿れば、イオニア学派の汎神論的絶対者(アルケー)観とプラトンイデア論的絶対者観との間にある断絶に、鍵がありそうである。

 今一度、西洋哲学の根本的特質を、非常に乱暴だがたった一言で確認すれば、「本質」と「現象」との二元論に基づく形而上学を意外にも当初からおかしいと思いながら、半永久的にそれを克服できないで、形而上学形而上学的に理解し続けていることである。

 永遠に解決しない二元論的メタ哲学の名称が西洋哲学であろうということである。実はイオニア学派の段階までは地上の汎神・多神論的「現象」でさえあった神を、神自体ではなく、「現象」の背後にある「本質」存在としての神の仮象と設定したのが、西洋哲学であるということである。少なくとも私はそう考える。このような脳のはたらき自体が、無論、他の動植物にはないが、本来は日本人にもなければ、ギリシャ人やローマ人にもない。

 ここでの最大の注意点は、「絶対者」とキリスト教の主張する「神」は、多神教の神話の影響下にあるイデア論者、つまり一神教の傘下の時代に生まれたのでない絶対者の探求者(あえてプラトンアリストテレスニーチェ、そして私など、としておく)にとっては、食い違うことがあるということである。

 むしろ、元来は食い違っていなかった(ユダヤキリスト教の群衆道徳が食い違わせた)ものであり、実際のところユダヤキリスト教文明の始原、いや人類の始原においては、ニーチェが直観した通り、食い違っていなかった。それどころか、神々への無数の解釈の総体(カオス)としての根源である「絶対者」こそが、原始的超人たちによって理解され、善悪の彼岸において認知されていたはずである。

 つまり、あえて「本質」と「現象」の二元論を採るのであれば、始原の「絶対者」(善悪未分化のカオス)を彼方の「本質」とすべきであって、ユダヤキリスト教的「神」(悪を淘汰する善)をその椅子に座らせてはならないことを、原始の超人たちは知っていたはずである。ゾロアスター教グノーシス主義マニ教ミトラ教、ヤズィーディー、陰陽思想などは、まだその認識を有するカオス的二元論の体系である。あのシリアのアサド大統領やバアス党が汎シリア・アラブ統治体制の思想的基盤とするイスラムアラウィー派も、本来は、極限的二元論に基づく輪廻転生説と男権的神秘主義を展開する代わりに、善悪の判断・反省が停止した「善」のイデアを超越界に戴く一派で、シリアの土着宗教とイスラムシーア派との習合思想である。

 これらの宗教は、強硬な二元論の採用と引き替えに、絶対真理を神秘的・霊的次元の世界へと正しく追いやっている。これに対する再接近の権利を持つ人種がユダヤ人やアーリア・ゲルマン人や白人であるとか、その効率的な要請・導出方法は実践理性だとか、そんなことは考えない。考えた時点で、「絶対者」が「ずれる」のである。その意味で、イオニア学派における「アルケー(万物の根源)」は、始原の「絶対者」しか指しておらず、プラトンの「イデア」でもアブラハムの宗教の「神」でもない。

 しかし、とりわけ大衆化されたキリスト教は、これと異なっている。「本質」を人間の認識の彼方に追いやるときの追いやり方を、大衆道徳としてのキリスト教が誤っているとも言える。

 絶対者、根源的一者、始原の存在の想定が、ニーチェどころかユダヤ人、ユダヤ人どころか、イエス・キリストなき多神教時代のギリシャの哲人たちの産物であること、神々とは異なってそれらの上位に超越的に鎮座するものとして誕生した(発見された)ことは、現代が忘却した重大事項の最たるものである。

 絶対者は、ユダヤにおいてはまず、人間の姿に似ていなくとも構わない(むしろ、神に似せて造られたであろう人類のずっと彼方にいる、そしてユダヤ人こそがその彼方を垣間見ることのできるものとしての)超越的至高存在として誕生した。

 ギリシャにおいては、絶対者は、明らかなる人格性を有する多くの神々(人間の隣人)を取りまとめると同時に、およそ人間が感覚・認識できない、真善美を完全に保存する別次元・超越界として誕生した。本来はソクラテスプラトンも、衆愚によるデモクラシーの浅はかさ、危険性、低俗性に気づき、これに警鐘を鳴らそうとしたがゆえに、神話体系の背後にある絶対者を想定してこれを信頼するほかなかったのであり、彼ら自身が衆愚と闘う哲人、ディオニュソス的挑戦者であった。

 ここで私が述べている絶対者とは、のちに誕生するキリスト教の主張する神どころか、世界中の神話をも大いなる視点から内包する絶対者のこと、神々自らこそが未だ菩薩となって崇める神、神々にとっての神のことである。

 だが、いつのまにかユダヤ教キリスト派の原点を忘れた後世のキリスト教徒たちの群集道徳が、いや、元を辿ればユダヤ教キリスト派の使徒たち、パウロたちこそが、ユダヤ教の旧約のヤハウェに同一であったキリスト教の新約の神に、ギリシャの神々が有していた人格性という便利な機能を盗難させ、人格的唯一神として絶対真理の座を簒奪させ(イエス・キリストに簒奪させ)、ついにほぼ全ての先進国民がこの道徳のまま近現代にまで至っている。

 西洋形而上学の長年の問題について、西洋においては、まずはキルケゴールショーペンハウエルが対応した。無論、遡ってみれば、ヘーゲルも、デカルトも、プロティノスも、アリストテレスも、プラトンも、ソクラテスも対応しているが、形而上の何者かに憧れるという自我の超克の試みに耐えきれる哲人は一人もいなかった。

 その意味では、キルケゴールショーペンハウエルが最初の対応者である。次いで、ショーペンハウエルに影響を受けたニーチェである。キルケゴールは、美的実存、哲学的実存を経て宗教的実存に至り、ショーペンハウエルは仏教的諦念に至り、ニーチェは反キリスト教に至ったと解されている。

 さてここで、先の森鷗外や松原寛や巫女たちの東洋的円環的な生涯を参考にすれば、これら西洋哲人たちの苦闘が非常に理路整然と見えてくるような気がする。これらの哲人たちもやはり、実存主義者などという一般的なレッテルをよそに、西洋形而上学キリスト教的時空の系譜上に乗った哲人たちなのだ。

 絶対者の巧妙な交代に、ニーチェが登場するまで誰も気づかなかった。ニーチェは、群衆道徳によって始原の一者に着座させられたユダヤキリスト教の神を、それもまた一菩薩であり、人間の勝手な一解釈であると暴いて、形而下の地上世界にまで引きずり下ろし、再び宇宙の生命衝動それ自体を始原の一者に着座させ、「神」と呼ぶことを狙ったのである。

 従って、イエス・キリスト当人のみを別にして、パウロ以降のキリスト教(の神)は全て似非キリスト教(似非絶対神)であるから、キリスト教と呼ぶべきでないという極論もあり得る。あるいは、イエスを「神の子」とする良識は、実はユダヤ人がイエスを十字架刑にした策謀であるとする極論もあり得る。イエスが神の子でも人の子でもあることにしたこと自体が、ユダヤキリスト教の神冒涜の歴史であるとするものである。

 もっともこれは、現代ではキリスト教新宗教が好んで用いるフレーズで、その場合はカトリックプロテスタントを含むほぼ全てのキリスト教の巨大派閥を偽善キリスト教と考えるのである。

 それはともかく、ユダヤ教パウロと群衆によって始原の絶対者の身勝手な相対化(神ではなく、神を愛する自分自身の絶対化)が始まった時点で、絶対者とは「実際は西洋人の勝手な相対的解釈でありながら、それを絶対であると他民族・他地域に普及させるべきことが前提されている何者か」に成り下がってしまうのである。ニーチェの言う「神は死んだ」とは、この意味である。ニーチェイエス・キリストへの敬意は忘れるべきでない。ニーチェが批判したのはキリスト教団、パウロの論理でもってキリストによってたかる群衆なのである。

 ここで注意すべきは、始原の一者が忘却され、最高道徳や最高善が群衆にとって都合のよい一神教の神にすり替えられるパターンは、すり替え後の思想・宗教体系の名が何であっても起きるということである。

 例えば、ジャコバン派ロベスピエールの恐怖政治においては、キリスト教の神に代わる「最高存在」が理性と美徳の根拠として主張され(理神論)、これに対する忠誠が「最高存在の祭典」などにより共和国民に強制されたが、このような「最高存在」は、今私が述べている根源的存在ではなく、むしろ群衆道徳としてのキリスト教道徳の極致であると見ることができる。ロベスピエールは、帝国の首領ではなく、革命勢力・共和国の代表者(群衆側の道徳の建設者)にすぎないことに留意する必要がある。同じくフランス革命期に、ギリシャ風神殿において、「理性の美女と少女」たちを前に無神論(神に代わる理性の神)を標榜して行われた群衆狂乱の「理性の祭典」も、キリスト教的群衆精神の極致であると見ることができる。

 このような群衆のキリスト教的価値道徳の自己自身に対する束縛(プロテスタンティズム)が、資本主義を発展させたとしたのが、マックス・ヴェーバーである。となると、哲理上は「資本主義」自体を「奴隷道徳」の経済学における別称と見ることもできるのである。

 私は今見てきた事態を「絶対者のすり替え」、「神の差し替え」と呼ぶことにしたい。近現代の戦争と科学文明における神のすり替えの乱発は前述の通りだが、このようなすり替え作業は古代以来の西洋の習慣である。しかも、すり替えは必ず、ソクラテスプラトン、キリストといった哲人・聖人を誤解した愚かな弟子たちが異国の大衆に布教しようとするときに起きる。

 選ばれし哲人たち(ニーチェや松原寛や先の巫女たち)にとっての「絶対者」・「一者」は、キリスト教の「神」や、フランス共和国が主張したような理神論的最高存在の「神」、無神論的理性の「神」からずれる場合があるというタブー発言こそが、本稿の要である。これらを同一のものとしてしまったのが、為政者にも大衆にも巣くっている、ニーチェが言うところの「弱者道徳」であると考える。

 そこで、もはやアブラハム一神教の文明世界の「神」であるとは限らない、新約の神でも旧約の神でもない、真の絶対者、善悪を超脱した聖価値、大いなるディオニュソス、カオスであるところの超越存在の呼称を何とすべきかという問題については、西洋哲学も右往左往しているのだから、結局、個々人の好き勝手な主観と解釈「のみ」によるのであるが、私はここで単に「絶対者」とか「一者」と呼ぶにとどめたいと思う。

 本稿の題名のみ「絶対的一者」としたのは、厳密には我々各人によって絶対者と信じられている全てのものが相対的一者でしかないか、一者と信じられている全てのものが相対的多者・他者でしかないと(少なくとも私には)考えられるので、「(存在しないと考え得るにもかかわらず、存在を望み、考えざるを得ないものとしての)絶対的一者」という意味で、便宜的に付けたまでである。文中では、「絶対的一者」に当たる始原存在を単に「絶対者」や「一者」と呼んでいる。

 本来ならば私は、ニーチェや松原寛が目指した(と私が考える)、あるいは本稿で取り上げている巫女たちが体感している、あるいは私自身が目指しているところの、汎神・多神の遍在としての、そしてそれに対する自己の世界解釈、自己が引き受けた運命愛としての「絶対的一者」には「絶待的一者」の字を用い、ユダヤキリスト教の排他的特異点、上意下達の原点としての「絶対的一者」と区別したいところである。

 井上哲次郎が、西洋の哲学や神学が”God”とほぼ同義に用いている”absolute”の訳語として、仏語の「絶待」をもじった「絶對(対)」を考案し、「絶待」よりも優先したのは(『哲学字彙』英独仏和 二頁)、”absolute”(絶対、絶して対すること)と仏教の「絶待」(絶して待つこと)が(同書では同義としつつも)内心では異質の概念だと理解していたからである。”relative”に直接「相待」を充てず「相對(対)」としたのも(同一三〇頁)、両者が異質だと察したからである。

 例えば、森鷗外は、先の『妄想』で、次のように書いている。

 

ショーペンハウアーの言う)意志が有るから、無は絶待の無でなくて、相待の無である。意志が Kant の物その物である。

(「妄想」 『日本文学全集 四 森鷗外集』 三三六頁)

 

 同じことを、京都学派、例えば久松眞一はこう書く。

 

(西洋・キリスト教形而上学と異なり、「東洋的に形而上的なるもの」には)形而上的なるものと現實的に有るものとの待對はない。

(『東洋的無』 一五頁)

 

(有と無の絶對緊張において有が有であることができなくなったところの純粋有は)絶對無に直面する有であり、絶對死に直面する生である。

(同 二一頁)

 

 東洋の哲人たちが「絶対」と「絶待」と「相対・対待」を自身の思想に沿って厳密に正しく使い分けると、こうなるのである。一見まるで言葉の混沌だが、この絶対矛盾の無矛盾が達観できなければ、東洋哲学向きの人間ではない。

 私も、今から日本における絶対者のすり替えを論じ、すり替えられた神に対する始原の神への回帰ないしその樹立を模索するにあたり、「絶対」と「絶待」とを使い分けたいところである。だが、すり替えは巧みに、複雑に行われ、逐一使い分ける道理も見出しがたいため、やむを得ずどちらも「絶対」と綴る。

 しかしその代わりに、「絶待」の意で「絶対」と言う場合には、それが持つニーチェ相対主義(の絶対的な妥当性)としての性質、あるいは東洋的汎神論・多神論としての性質を明示するため、「始原の存在」としての「絶対者」とか、「世界の心臓」としての「絶対者」といった、ニーチェ哲学や神道、仏教に示された概念を前後に伏すこととする。

 

執筆者プロフィール

岩崎純一(いわさき じゅんいち)

1982年生。東京大学教養学部中退。財団事務局長。日大芸術学部非常勤講師。その傍ら共感覚研究、和歌詠進・解読、作曲、人口言語「岩崎式言語体系」開発など(岩崎純一学術研究所)。自身の共感覚、超音波知覚などの特殊知覚が科学者に実験・研究され、自らも知覚と芸術との関係など学際的な講義を行う。著書に『音に色が見える世界』(PHP新書)など。バレエ曲に『夕麗』、『丹頂の舞』。著作物リポジトリ「岩崎純一総合アーカイブ」をスタッフと展開中。

 

ネット版「Д文学通信」編集・発行人:清水正                             発行所:【Д文学研究会】

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2021年9月21日のズームによる特別講義

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「松原寛と日藝百年」展示会の模様を動画でご案内します。

日大芸術学部芸術資料館にて開催中

2021年10月19日~11月12日まで

https://youtu.be/S2Z_fARjQUI松原寛と日藝百年」展示会場動画

https://youtu.be/k2hMvVeYGgs松原寛と日藝百年」日藝百年を物語る発行物
https://youtu.be/Eq7lKBAm-hA松原寛と日藝百年」松原寛先生之像と柳原義達について
https://youtu.be/lbyMw5b4imM松原寛と日藝百年」松原寛の遺稿ノート
https://youtu.be/m8NmsUT32bc松原寛と日藝百年」松原寛の生原稿
https://youtu.be/4VI05JELNTs松原寛と日藝百年」松原寛の著作

 

日本大学芸術学部芸術資料館での「松原寛と日藝百年」の展示会は無事に終了致しました。 

 

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