ネット版「Д文学通信」38号(通算1468号)岩崎純一「絶対的一者、総合芸術、総合感覚をめぐる東西・男女の哲人の苦闘 ──ニーチェ、松原寛、巫女の対比を中心に──」(連載第33回) 

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ネット版「Д文学通信」38号(通算1468号)           2021年12月16日

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「Д文学通信」   ドストエフスキー&宮沢賢 治:研究情報ミニコミ

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連載 第33回

絶対的一者、総合芸術、総合感覚をめぐる東西・男女の哲人の苦闘

──ニーチェ、松原寛、巫女の対比を中心に──

 

岩崎純一日大芸術学部非常勤講師)

 

十、大いなるディオニュソス感覚、総合感覚、「母なる」感覚への道

バレリーナや巫女たちと共に、ニーチェワーグナー、松原寛の亡霊に問う

 

東西の哲人たちの新たな「総合感覚」論(群衆道徳の通時的超克としての「音楽」・「ギリシャ悲劇」・「総合芸術」感覚)

 

 今ここに、「総合感覚」を、「旧来の共通感覚や統覚の不備不足や欠点を補う始原への直覚」と定義し、その上で、ニーチェの言うディオニュソス的芸術、ワーグナーや松原寛の言う総合芸術としての「総合芸術」を考えよう。

 ここで着目すべきは、ニーチェの「音楽」、「ギリシャ」、「時間」、「永劫回帰」、「力への意志」といった「通時的に動的な」言葉である。絵画や彫刻、造形芸術(アポロン的、静的、共時的芸術)よりも音楽、歌劇、楽劇(ディオニュソス的、動的、通時的芸術)に向かったニーチェの情熱である。改めて、ソシュールの「共時(態)」、「通時(態)」の概念を「空間芸術」、「時間芸術」に応用してみたい。

    ニーチェ以前の西洋の「歴史」は、(始原の一者ではなく、群衆が勝手に創り出し改造してきた)神の実在の自明性を前提としているのであり、カントが導出した神やヘーゲルが歴史哲学において捕捉した神でさえ、もはや汎神的始原の一者から横滑りし、ずれているのであるから、信仰や生活といった群衆道徳様式は、進歩・進化した共時態としてしか把握されない。過去は必ず、現在よりも劣った、現在の哲学の視点からの解析対象にすぎない。「神」は、その時代の群衆にとって正しければ良いような神である。

 だから、ニーチェの「悲劇の誕生」・「永劫回帰」・「力への意志」、ベルクソンの「純粋持続」・「イマージュ」・「創造的進化」、フッサールの「体験流」、ハイデガーの時間性存在論、ジェームズの「意識の流れ」のように、群衆の悪習への疑念が、新たな哲人たちにおいては、人間文明の進歩・退歩の二元論を絶した(むしろ近現代のほうを「意志」の退化と見る)歴史の通時態への関心として表出したことは偶然ではない。

 この傾向は、大陸哲学でも分析哲学でも同じである。要するに、これらに実存主義とか実用主義といった名前を与える以上は、通時態哲学としての特徴が捉えられなければならない。従来のキリスト教道徳が「神がいると信じて困ったことはなかった。ゆえに神は実在する」という「伝統に訴える論証(argumentum ad antiquitatem)」であったことを示さねばならない。

 中村の共通感覚論は、古代と現代とを縦横無尽に瞬時に駆け巡る時間論・通時態論には至っていないため、「共通感覚」と「統覚」を西洋人感覚の高級品として同一視している。前者にはあった総合感覚性がより減衰して、視覚と理性によって神の導出手段が強引になったものが後者であるという、私が採っている解釈は採らなかった。

 その意味では、西田幾多郎の「純粋経験」と「場所の論理」、「行為的直観」、「絶対矛盾的自己同一」も、東洋的絶対無を根底にして総合感覚を共時態的に捉え直したものであるから、古代の巫女と現代常識人の絶対矛盾的自己同一が同じであるはずがないといった観点は欠落している。

 しかし、中村の共通感覚論における分裂病論の部分は、分裂病(現在の統合失調症)を「祭りの前(アンテ・フェストゥム)」、てんかんを「祭りの最中(イントラ・フェストゥム)」、躁鬱病(現在の気分障害のうちの双極性障害と単極性障害の一部)を「祭りの後(ポスト・フェストゥム)」であると説明した木村敏心理的時間論と概ね整合する(『自己・あいだ・時間』一八八―二二六頁など)。木村敏の論も、ハイデガー存在論・時間論の東洋精神医学への巧みな応用になっている。いや、むしろ中村雄二郎のほうが、木村敏の時間論的・通時態論的共通感覚論を参考にして『共通感覚論』を書いたのだ。

 ここに、両者の東洋の思想家としての特徴がある。中村は『共通感覚論』の終章で、わずかではあるが、ニーチェの『悲劇の誕生』における音楽論にも触れ、これを自身の通時態的共通感覚論の目標とも見ているふしがある(三一六―三一九頁)。

 清水先生は、先に紹介したような先生の幼少期の色とりどりの映像体験や、ドストエフスキー宮沢賢治の気質を、まずは「てんかん」気質(特に側頭葉てんかん)、すなわちイントラ・フェストゥムとして、次に「分裂病」気質、すなわちアンテ・フェストゥムとして論じている人だと言える。つまり、現代の今この瞬間において、幼児期の体験に一足飛びで遡及し、それを総合感覚の直覚体験として、文面に転写できる。

 ニーチェ片頭痛や眼痛も、現在の精神障害分類では神経症性のものだろうが、一昔前の分類ではてんかん気質と考えられたであろうし、清水先生の真っ白体験や色とりどり体験と整合性がある。清水先生の「〈現在〉優位型の思索家・松原寛」(『日藝ライブラリー』No.3 一八五―一八九)も、松原寛の「今」熱狂型の気質をよくとらえている。

 私自身は、前述のような自我の葛藤を経験してきたにもかかわらず、いかなる精神障害の診断も受けたことはないのだが、これらのいずれに当てはまるかをあえて答えるならば、幼少期より(躁鬱の双極化に至らない単極の)鬱気質であると言えるだろう。

 このような精神病分類は、今では馴染みがないだろうが、かつての日本ではかなり流行したものである。前世紀の日本における、共時的・通時的分析の最もバランスの取れた東洋的精神病理論は、中井久夫のそれであるだろう。中井久夫は、私と同様、統合失調症は一つの古代的能力であって、人類という種の生存に役だったと考えている。

 私は、精神病理学にも多大な探究心を持っていることもあって、統合失調症てんかん気分障害どころか、新しいICD・DSMの精神障害神経症性障害のそれぞれを抱える多くの人に出会ってきたが、今上げた三種の病理に関しては、中村雄二郎の共通感覚論と木村敏の時間論は、東洋人・日本人の気質を説明する上では、決して古めかしいものではなく、的を射ていると考えている。私は、近代西洋医学的・キリスト教的「常識」から外れたこれらの異常精神状態が、大いなるディオニュソス、根源の存在の垣間見の能力に関係しているか、その能力の一部であると見ている。

 現在の精神病理学や心理学や脳神経科学では、分裂病統合失調症の呼称となり、てんかん精神障害から外されて自律神経失調症と同じく神経系疾患の分類となり、躁鬱病鬱病はそれぞれ双極性障害・単極性障害として気分障害に組み込まれ、操作主義的手法での研究と診断が行われている。

 そのため、中村雄二郎木村敏の論は、フロイト精神分析と同様、捨て去られた過去のものとなっているが、これらの学者の慧眼への回帰なしに、西洋の精神病理学を東洋・日本に無鉄砲に輸入するのは、極めて危険なのである。これらの病理を「日本的時間」において観察しなければならないのである。

 先ほどの、八百万の神々とその根底を成す始原存在(東洋的無)についての私の考察と合わせれば、統合失調症者やてんかん者や、神経症性障害者や、転換・離人・解離・憑依性障害を巫女舞によって引き起こした巫女たちこそが、日本の神々と始原存在を見ている可能性を、探究しなければならないことが明らかとなるのである。

 もし私が一時期陥ったとすればこれであると目される鬱病とは、分裂病てんかんとは違い、「後の祭り」感覚への没頭において起きると同時に、高次の近代的「脳」・自己が「常識」としての「コモン・センス」を「共通感覚」において理解することがほとんどであると、私は見ている。つまり、自他の区別を消失させることで群衆価値に抵抗する統合失調症とはやはり異なり、「自我」・「自己」というものの強硬な主張が群衆道徳と衝突したり合体したりした場合の「手遅れ感」によって抵抗するのが、(躁)鬱の正体である。てんかんは、群衆道徳が個人の無意識に侵入したその瞬間や最中の、脳波の暴走の宗教儀式であると言えるだろう。

 これらの違いは、癌や脳血管障害や心疾患といった共時態的な病理圏分類レベルでの違いではないと、私は今も考えている。群集する大勢の他者の価値を前にした、自己の自己自身に対する反応の先後による違いであると考えるのである。

 ある「今」の群衆道徳という共時態との積極的・能動的不和が、「今から、もうすぐ」、「今こそ、今まさに」、「今となっては、もはや」といった通時態において痛烈に現れ出るところに、精神病理というものがあるとすれば、ニーチェの「自由精神」・「力への意志」も、ベルクソンの言う「エラン・ヴィタール」・「純粋持続(知覚、経験、直観)」も、ジェームズの言う「意識の流れ」も、究極的には「総合感覚」の別称に他ならないことになるのである。ベルクソンの「エラン・ヴィタール」による唯心論的実在論を駆動力とする「創造的進化」は、デカルトライプニッツの力動説にはなかった「生身の人間性」を取り戻した。

 「始原」と言うからには、少なくとも「時間」ありきの思弁なのであり、「末梢」としての「現象」に時の流れを与えているのであるから、「祭り」の後よりも前にある統合失調症が、最も動物的で原始的病理(原理的思弁)である。いわば、「自由精神」・「力への意志」の最たる実現者である。逆に、鬱というのは、それよりも明らかに近代的な思弁と内省であることがほとんどである。これは私が体験しているところでもある。私がかつて陥った鬱と思われる状態は、「自由精神に素直でない苦しみに自ら苦しむ苦しみ」である一方、統合失調症は、「自由精神に素直である苦しみであるがゆえに苦しみと気づかない苦しみ」である。

 ところが、それでも不十分である。「共通感覚」や「統覚」とは、「総合感覚」に至るための技術にすぎないとも言えるのである。ベルクソンの「純粋知覚」や「イマージュ」でさえ、哲学的テクニックである。ジェームズの「意識の流れ」も、アメリカンなベルクソンとしての「持続」である。このことは、西洋哲学自体が、始原の一者との合一体験自体ではなく、始原の一者との合一体験への道筋・技術でしかないのと同様である。

 換言すれば、ニーチェにとっては、自然哲学のアルケーの感覚には親和性を感じる一方で、アリストテレスの「共通感覚」は群衆道徳の萌芽であり、カントの「統覚」は唾棄すべきものであり、そこからさらに進んでドイツやヨーロッパやキリスト教世界の「常識」と化した「共通感覚」は、もはや奴隷の救いようのない末路なのである。

 結局、各時代の共時的瞬間において唯一の普遍的「神」と思っていたものは、キリスト教道徳が通時的に改変してきたために特定の共時的瞬間にしか通用しない、雑多な「神」観の集合にすぎなかった。それと同様、普遍・始原を見る手法が「共通感覚」や「統覚」や「純粋直観」に分かれるのも、本当は相対しか存在しないからである。特異点としての一者を正しく見る特異的・絶対的・排他的手法などは存在せず、手法の解釈があるばかりである。

 そうなると、「始原を見る」とは、どういうことなのか。こうして発生した通時態的問いは、ニーチェ相対主義の極致である「パースペクティヴィズム(遠近法主義、観点主義)」の境地に至るのである。

 時間を止め、周りの群衆だけに抵抗する共時的思考は、ある一つの事実と他の多数の誤った解釈を現出させる。松原寛がその典型で、あの円環的・永劫回帰的苦闘をやめた瞬間、天理と浄土が正しい安住の地に思えたのであった。だが、瞬時にギリシャ悲劇の時代に我が身を置き、過去と現在と未来との距離をゼロにできるニーチェには、無数に説かれたキリスト教の「神」の全てが、群衆による解釈であるという実態が見えた。

 

 Gegen den Positivismus, welcher bei den Phänomenen stehn bleibt »es giebt nur Thatsachen«, würde ich sagen: nein, gerade Thatsachen giebt es nicht, nur Interpretationen. Wir können kein Faktum »an sich« feststellen: vielleicht ist es ein Unsinn, so etwas zu wollen.

 現象に立ちどまって「あるのはただ事実のみ」と主張する実証主義に反対して、私は言うであろう、否、まさしく事実なるものはなく、あるのはただ解釈のみと。私たちはいかなる事実「自体」をも確かめることはできない。おそらく、そのようなことを欲するのは背理であろう。

 (『権力への意志』下 第三書 新しい価値定立の原理 Ⅰ 認識としての権力への意志

 c)「自我」によせる信仰。主観 四八一 二七頁)

 

 この「パースペクティヴィズム」なる哲学概念は、よほどのニーチェ体験をしなければ掴み所のない「超人」思想や「永劫回帰」思想よりは、個々人の感覚器官が生じさせる「パーセプション(知覚、認知)」による世界認識の相対性を思い起こさせることから、分かりやすい概念だと短絡されがちである。

 しかし、その「パースペクティヴィズム」の深淵に至るには、まだ我々の五感の神秘を考える必要がある。ここからは、高次の認識や理性や知性や思弁や感情などではなく、我々の世界内存在としての実存の基礎である身体感覚、動物たちと共有している唯一の基層、つまりは五感、感覚、知覚などと呼ばれるものと、その総合・融合について、より直接的に論じよう。

 

執筆者プロフィール

岩崎純一(いわさき じゅんいち)

1982年生。東京大学教養学部中退。財団事務局長。日大芸術学部非常勤講師。その傍ら共感覚研究、和歌詠進・解読、作曲、人口言語「岩崎式言語体系」開発など(岩崎純一学術研究所)。自身の共感覚、超音波知覚などの特殊知覚が科学者に実験・研究され、自らも知覚と芸術との関係など学際的な講義を行う。著書に『音に色が見える世界』(PHP新書)など。バレエ曲に『夕麗』、『丹頂の舞』。著作物リポジトリ「岩崎純一総合アーカイブ」をスタッフと展開中。

 

ネット版「Д文学通信」編集・発行人:清水正                             発行所:【Д文学研究会】

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動画撮影は2021年9月8日・伊藤景

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「松原寛と日藝百年」展示会の模様を動画でご案内します。

日大芸術学部芸術資料館にて開催中

2021年10月19日~11月12日まで

https://youtu.be/S2Z_fARjQUI松原寛と日藝百年」展示会場動画

https://youtu.be/k2hMvVeYGgs松原寛と日藝百年」日藝百年を物語る発行物
https://youtu.be/Eq7lKBAm-hA松原寛と日藝百年」松原寛先生之像と柳原義達について
https://youtu.be/lbyMw5b4imM松原寛と日藝百年」松原寛の遺稿ノート
https://youtu.be/m8NmsUT32bc松原寛と日藝百年」松原寛の生原稿
https://youtu.be/4VI05JELNTs松原寛と日藝百年」松原寛の著作

 

日本大学芸術学部芸術資料館での「松原寛と日藝百年」の展示会は無事に終了致しました。 

 

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