ネット版「Д文学通信」39号(通算1469号)岩崎純一「絶対的一者、総合芸術、総合感覚をめぐる東西・男女の哲人の苦闘 ──ニーチェ、松原寛、巫女の対比を中心に──」(連載第34回)

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ドストエフスキー文学を理解するためにも大変参考になる動画である。

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ネット版「Д文学通信」39号(通算1469号)           2021年12月17日

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「Д文学通信」   ドストエフスキー&宮沢賢 治:研究情報ミニコミ

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連載 第34回

絶対的一者、総合芸術、総合感覚をめぐる東西・男女の哲人の苦闘

──ニーチェ、松原寛、巫女の対比を中心に──

 

岩崎純一日大芸術学部非常勤講師)

 

十、大いなるディオニュソス感覚、総合感覚、「母なる」感覚への道

バレリーナや巫女たちと共に、ニーチェワーグナー、松原寛の亡霊に問う

 

私の建前としての「総合感覚」論(日本の大学・研究機関における西洋風科学者たちの要望に答えてきた被験者としてのうわべの「共感覚」論)

 

 私が日芸でゲスト講師として初めて講義をした際のテーマは、人間の知覚と芸術との関係であったと先に述べたが、そのキーワードは「共感覚(synaesthesia)」であった。哲学用語ではなく、完全に科学用語としてのそれであった。そのため、初めはこのテーマから強引に松原寛の総合芸術論を膨らませざるを得なかった。本稿で述べているような松原寛哲学の真相を二十歳前後の学生に向けて言うことは難しい。

 「共感覚」は現在、欧米と日本の心理学や脳神経科学の分野では、ただ単に「音に色が見えたり、匂いに形を感じたりするなど、通常の五感が様々に混交する知覚様態」とのみ定義され、脳のニューロン神経伝達物質の特異性の表現型と見られている。要するに、科学者に都合のよい定義である。

 先にワーグナーらの「総合芸術(syn+thesis of the arts)」を挙げたが、「共感覚(syn+aesthesia)」と語源は似ているといえども、現代における使用法と使用分野は全く異なるものである。私などは、先に示した森鷗外の”symphony”の名訳を拝借して「交響感覚」としたいところだが、私を研究している科学者たちに提案したところ、よい顔をされなかったため、使用する場を哲学や芸術論の場に限ることにした。

 「共感覚」は、被験者の報告としては、「ホ短調の音楽を聞くと視界が青緑色に見える」、「あるバラの匂いを嗅ぐと楕円形が後頭部にあるような感覚がする」、「一月のカレンダーは水色が右に向かうと感じられるが、二月のカレンダーは赤色が左に向かうと感じられる」(私の例)などといった、「共感覚表現」と呼ばれる、極めて具体的な言語表現やイラストによるものが多いのである。共感覚者によってその具体例は千差万別であり、ある程度の規則性はあれど、ホ短調が赤だという被験者もいる。だが、各個人においては、その感覚はかなり詳細なレベルで一貫性・一意性を有し、生涯を通じて変化しない場合がほとんどである。

 私が幼少期よりこのような知覚様態を有していることから、私の五感のはたらき、脳活動データを科学的に追跡調査したいと依頼されるようになった。東京大学専修大学など様々な大学・研究機関の心理学研究室に延べ三十回以上も通っている。

 そして実際に、私の大脳の視覚野や聴覚野や連合野などが、それらが物理的に分割されている通常の「健常者」・「定型発達者」の脳と違って、明確な境界線を持たず、脳の多くの部位がいわば「共感覚野」として機能していることが確認されている。私なりの用語で言えは、「総合知覚野」、「共通感覚野」、「統覚野」、「純粋直観野」として機能しているのである。私の場合、その物理的機能分化の程度が他の共感覚者と比べても進んでいないらしい。私が被験者として学者・研究者らの論文に登場するときは、「被験者A」などと呼ばれているので、それが岩崎のことであると分かるすべは、ほぼないのであるが。

 共感覚者は女性に多いという統計データがいくらでもあるが、これに私は長年にわたって反発しており、私の調査によると、私ほどの強度の共感覚を持つ男性は、ほとんどが発達障害者や知的障害者言語障害者であり、自ら共感覚表現で報告できていないだけである。私は彼らの片言の言葉が分かる人間であるので、その共感覚の内容を知ることができる。つまり、共感覚研究者たちは、障害者施設などの訪問調査を行わずに、いわば自分の都合に合う真理で統計を出しているのである。

 一方で、女性の場合は、本稿で挙げた巫女たちやシャーマンに強度の共感覚が見られるが、一般女性からの報告も極めて多い。要するに、女性の身体というものはそういうものであり、女性は五感融合体験をおしゃべりできる天才なのである。日本の共感覚研究による知見は、男と女は体の形も脳の仕組みも違うという現実に目を向けずに平等主義を「常識」としている現代社会の弊害が、科学的データとして表れている、典型的な例である。

 ともかく、ペンフィールドらの有名なホムンクルスの体部位再現実験を、私の脳と感覚器官において行うとすると、現実に他の男性と異なる結果が出る可能性が高い。だが、侵襲的な生体実験は、私は受けるつもりはないので、それは断っている。

 しかしながら、ここでの総合芸術・総合感覚論は、そんな脳神経科学の説明を軸とするつもりはない。先のような「共感覚表現」による芸術作品を松原寛の言う「総合芸術」だと理解している学生は多く、この理解は実際のところ、先の「学科間の交流」程度の軽々しい理解よりはましだが、松原寛の総合芸術はそんなものでさえない。

 机上の文筆家であることに偏りがちな私でさえ、五感と身体による、光と色と形と音と匂いと味と触感を駆使した、始原の存在としての(アポロンディオニュソスの総合体としての)大いなるディオニュソスとカオスの神への接触、合一体験の必要性を認識しているのであるが、芸術家やその卵である学生たちと会話していて、その意味が通じた試しがほとんどない。

 私が総合芸術論を既存の「共感覚」、「共感覚表現」、「共感覚芸術」の語をもって強引に展開しようとしてきたことにも原因があると思い直し、最近は「総合感覚」、「総合芸術」と呼んでいるのである。これは、「共通感覚」や「統覚」や「純粋直観」の全てを含むが、それらの欠点を修正した東洋概念としても使用している。「共感覚」は、「総合感覚」の枝葉末節の表現、人間個体における表現型と見てもよい。

 私の出会った人物の中では、芸術作品の制作中に、ディオニュソスの神による総合芸術性の宇宙を総合感覚によって映像で手に取るように見えている代表的人物が、清水正先生や、これまで述べてきた巫女たちである。こういった始原直覚型タイプの人間には、サイエンスのタームを用いて始原を説明する必要が皆無である。こちら側も気楽である。

 私がサイエンス分野での研究に協力する中で、最もじれったく不満を感じるのは、むしろ欧米の学者のほうが頭脳では達している「総合感覚」と最新のサイエンスの統合のイメージを、日本の科学者が全く持てていないことに対してである。欧米では、大陸哲学でも分析哲学でも、共感覚は普通に論じられている。私は最新の量子力学素粒子物理学、地球科学、宇宙科学なども追っているし、パソコンも自作するので、日本の理系学者が根本的に哲学に不向きであることくらいは簡単に分かる。

 例えば、HDD(ハードディスク)が故障した際、まずはS.M.A.R.T情報というものを調べるべきなのであるが、ここで物理的に復旧不可能と分かった場合、データの完全消去を行ってからディスクを廃棄することになる。ところで、わざとデータ消去前にHDDをドーナツ型や扇形に裁断した場合、ある画像の下半分のデータが壊れていて表示できない、といったことは実際に起きる。ここまでは、私のようなパソコンマニアの話である。

 ところが、磁気データの所在地をミクロ世界まで追い詰めてみると仮定した場合、データなるものがディスク上のどこかに特異点の集積として「存在している」と信じる人は工学者になれるが、どこにも「存在していない」とか「世界に遍在している」と考える人は哲人である。私の脳を研究している共感覚学者は、全員が工学者風である。私の知覚が私の脳のどこかの特異点に所在していると考えて必死になっている。

 もはや、量子・素粒子の遍在と一定条件下のみにおける特異点化は、もはや当然のごとく自我の遍在や特異点化と連動して言及されるべきものである。もっと言えば、パソコンがなぜ動くように見えるかと言えば、世界内存在としての現存在(人間の自己)が素粒子アルケーの一つの表象)に与える解釈が、量子と波動の両義性を持つ素粒子が跳ね返す回答に、無数の瞬間において「概ね」一致しているからである。自己も知覚も物体もデジタルデータも、いわば全てがホログラムであり、一者が一者に、自己が自己に対する時の世界解釈としての存在であることを理解せねばならない。

 こういう話が、私が研究協力してきた心理学者や工学者や物理学者や化学者には分からないのだが、最新の素粒子物理学の論文によれば、科学的に正しいのは先の後者の哲人である。今の欧米の哲人科学者には、ニーチェよりもニーチェであるような学者もいる。日本の各共感覚研究の主宰である教授レベルの人間たちがこういう話の展開に乗ってこない限り、日本の共感覚研究は前に進まないし、今後もほとんど期待できないので、最近は、その下で実験実施を任せられている助教や助手や学生たちばかりを応援し、単に被験者として無心で参加することばかりを考えている。

 日本の共感覚研究の指導者については、量子力学素粒子物理学の知識はおろか、いわば「相対主義物理学」の萌芽である相対性理論への理解も持たない場合があるので、相対性理論の哲学化などは夢のまた夢だろう。光速度が秒速三十万キロメートルだと述べる人の頭は物理学の思考様式であって、ニーチェ的パースペクティヴィズムにおいては、絶対無の速度と絶対無からの時空の立ち現れ方を一部の西洋人の言葉(メートル法)で言ったものが秒速三十万キロメートルであると考えるべきである。光自身にとっては、時間の「完全停止、即、無限伸長」と空間の「完全消失、即、無限拡大」が起きているのだから、自身の速度そのものが非在である。そして、光・電磁波なるものを顕現させているのは、我々の身体・五感・自我による世界と我々自身との「場」の対話のみである。

 私などは、どんな物体の絵と座標系とその移動速度を与えられても、相対性理論に基づく時空の歪み方を正しく描写することができるが(それ自体が、私の五感による光の「解釈」にすぎないわけであるが)、そういう物理の頭で見てみたとしても、例えば、清水先生の文芸上の時空論(後に紹介)は「解釈」として正しい。これは、根本的に清水先生のような哲人には、時空の本来的あり方自体を察知する「総合感覚」が身についていることによる。

 一方、日本の大学の理系研究者たちは、ほとんど皆が私のことを勘違いして科学実験や授業に招き、私がそこでこういった論を展開するものだから、最後にはいつも無言か質問の嵐か、どちらかになるので、困ったものである。

 ヒルベルト・プログラムゲーデルの完全性・不完全性定理と絶対者・神の問題についても、全く考えたことのない共感覚研究者・学者がほとんどである。その状態で人間の知覚の統合を研究するのは、あまりに態度が甘すぎる。

 私としては、たとえ「共感覚」その他のサイエンスのタームばかりを用い、全く哲学の用語を使わなかったとしても、「私は、共感覚の語を、始原存在に対する東洋的・日本的覚知の意に用いる」とする基本的な立場と主張は、十年以上前の拙著『音に色が見える世界 共感覚とは何か』から何ら変わっていないので、私の共感覚論は同書に任せるとして、次へ進もう。心理学や神経科学の用語の匂いが付いてしまった「共感覚」を「総合感覚」と言い換え、ニーチェの哲学を借りて、新たな総合感覚論を樹立しよう

 

執筆者プロフィール

岩崎純一(いわさき じゅんいち)

1982年生。東京大学教養学部中退。財団事務局長。日大芸術学部非常勤講師。その傍ら共感覚研究、和歌詠進・解読、作曲、人口言語「岩崎式言語体系」開発など(岩崎純一学術研究所)。自身の共感覚、超音波知覚などの特殊知覚が科学者に実験・研究され、自らも知覚と芸術との関係など学際的な講義を行う。著書に『音に色が見える世界』(PHP新書)など。バレエ曲に『夕麗』、『丹頂の舞』。著作物リポジトリ「岩崎純一総合アーカイブ」をスタッフと展開中。

 

ネット版「Д文学通信」編集・発行人:清水正                             発行所:【Д文学研究会】

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清水正・批評の軌跡」展示会場にて(9月1日)伊藤景・撮影

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清水正・批評の軌跡」展示会場にて(9月1日)伊藤景・撮影

 

 

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動画撮影は2021年9月8日・伊藤景

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清水正著『ウラ読みドストエフスキー』を下記クリックで読むことができます。

清水正•批評の軌跡web版 - ウラ読みドストエフスキー

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韓国語訳『ウラ読みドストエフスキー』はイーウンジュの翻訳である。イーウンジュはわたしの教え子で拙著『宮崎駿を読む』の翻訳者でもある。現在、ソウルで著作活動に励んでいる。

 

「松原寛と日藝百年」展示会の模様を動画でご案内します。

日大芸術学部芸術資料館にて開催中

2021年10月19日~11月12日まで

https://youtu.be/S2Z_fARjQUI松原寛と日藝百年」展示会場動画

https://youtu.be/k2hMvVeYGgs松原寛と日藝百年」日藝百年を物語る発行物
https://youtu.be/Eq7lKBAm-hA松原寛と日藝百年」松原寛先生之像と柳原義達について
https://youtu.be/lbyMw5b4imM松原寛と日藝百年」松原寛の遺稿ノート
https://youtu.be/m8NmsUT32bc松原寛と日藝百年」松原寛の生原稿
https://youtu.be/4VI05JELNTs松原寛と日藝百年」松原寛の著作

 

日本大学芸術学部芸術資料館での「松原寛と日藝百年」の展示会は無事に終了致しました。 

 

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