ネット版「Д文学通信」33号(通算1463号)岩崎純一「絶対的一者、総合芸術、総合感覚をめぐる東西・男女の哲人の苦闘 ──ニーチェ、松原寛、巫女の対比を中心に──」(連載第28回)

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ネット版「Д文学通信」33号(通算1463号)           2021年12月09日

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「Д文学通信」   ドストエフスキー&宮沢賢 治:研究情報ミニコミ

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連載 第28回

絶対的一者、総合芸術、総合感覚をめぐる東西・男女の哲人の苦闘

──ニーチェ、松原寛、巫女の対比を中心に──

 

岩崎純一日大芸術学部非常勤講師)

 

九、大いなるディオニュソス芸術、総合芸術、「母なるもの」の芸術への道

巫女・バレリーナたちと共に、ニーチェワーグナー、松原寛の亡霊に問う

「女なるもの」(女性の純愛と自己犠牲による救済)の直視による男権的ディオニュソス芸術の超克と「母なるもの」の芸術の模索

 

 ここまで、反西洋道徳・反哲学を志向したニーチェでさえ、西洋音楽の極致、ワーグナーをはみ出ることはなかったこと、せいぜいビゼーの音楽までを論述の範疇としたこと、自身の作曲も極めて基本的な西洋の楽典に従っていたこと、それゆえに西洋音楽の超克を(民族音楽の地位の復権ではなく)作品規模と西洋音楽理論の巨大化に見出してしまったことを、確認した。また、私の楽曲の中にも、理論と編成において、そのような形を取った「強者の」、「強いだけの超人の」交響楽があることを紹介した。ニーチェの超人思想や、ワーグナーなど後期ロマン派作曲家たちと私の楽曲の大規模な音響効果は、確かに始原の一者感覚を思わせるけれども、それはやはり父権的な始原である。

 一方で、「大いなる母」の音楽の試みも、挙げておいた。大曲よりは、女性が舞い踊りやすい、女性向けの身体運動を取り入れたバレエ曲・巫女神楽や、小規模で詩的・アフォリズム的性格を重視した器楽曲こそが、「母なるもの」としての始原を鑑賞者に体得させる可能性があること、バレリーナや巫女たちこそがその証言者であることをも確認できた。

 ただし、これらはいずれにしても、男の思弁の結末であるというところに、私は引っかかるのである。どの旋律や和音や色彩や造形や身体の動きが、ニーチェの言うアポロン的でなくディオニュソス的であり、奴隷道徳的でなく貴族道徳的であり、松原寛の言う総合芸術的であり、聖価値的であるのか、これらを逐一考えて創っているわけである。

 さて、これらを逐一言葉に起こすのが哲学・宗教であり、音楽理論や絵画理論、演劇理論であるとするならば、その対極にあるもの(男にとって、無思弁のディオニュソス、カオス、デーモンしか持たず、理論化できないもの)が、音楽・巫女舞・芸術一般における女性の身体、特に男の哲人にとっての女の裸体(私にとってはなかんずく、女の哲人たる巫女たちの裸体)である。

 ニーチェも松原寛も、自身の芸術理論と女性身体との関係をあからさまに論じたことはないが、それは彼らの哲学(特にニーチェ哲学)の恐るべき閃きに従えば、というより、私がこうして文章や音楽を創り出す中で到達した現実によれば、女性身体は、男の目に見える(男の知覚に捉えられる)表象のうち、男が哲学できない唯一の客体だからである。本来、言語表現や音楽によっては「絶対に」言及できないのである。

 いわば、「女体」は、実存即本質のニーチェにとっては、というより、私にとっても、プラトン的な「女体のイデア」やカント的な「女体の物自体」に完全に一致せざるを得ない。キリストの身体を否定する仮現説は、女体においては完全に笑いものとなる。男の哲人がどこまでも陥りやすい心身二元論は、(それ自体がもはや精神の顕現である)女体に対する鋭い洞察においてしか解消・超克され得ないとさえ、私は思う。

 思えば、男の自分よりも体の小さな女たちが演奏・舞踊しやすいように作るという態度自体が、女を眼下に見た、男の傲慢である。事実、一種の強姦のような危険性を孕んでいるとさえ感じる。小綺麗にまとまったバレエ曲や巫女舞ができたと喜んでいる場合ではない。作曲(芸術創作)という行為が、結局は哲学の思弁、宗教の教義に前戻っていくおそれがある。ワーグナーにも、やはりこの態度が見え隠れしてしまう。しかし、ユダヤによるゲルマンへの奴隷的反抗を批判しながら、ゲルマンの男がゲルマンの女を音楽で蹂躙してよいはずはないだろう。

 そこで日本の私は、作曲する私(始原の意志が潜在している一人間個体・自己・現存在)が対象・題材(表象、ここでは女性・巫女たちの肉体)を(音楽理論によって音楽にするのでなく)音楽それ自体と見る行為を「作曲」と名付ける試みを、幻想曲『共感覚幻想曲』(二〇〇八年)や交響組曲『月ノ巡リ』(二〇一〇年~)において行ってきた。

 「共感覚」とは、「真っ赤な嘘」や「黄色い声」などの共感覚表現に代表されるように、五感が混交する知覚様態を言う。脳神経学的解説、共感覚実験の被験者としての私からの共感覚論は後述するとして、ここではともかく、「表象(女性身体)をバレエ音楽の旋律や巫女舞の律動として思弁的に作曲する」のでなく、「表象(女性身体)において音を見、色を触り、形を聞くことで、それに憑依し、写し取る」という行為を考えたい。

 私はこの行為を、思弁型・理論型の男が始原存在、大いなるディオニュソスに至るための芸道・神道であると考えたのである。なぜならば、女性身体は、始原存在の無思弁の表象の代表者であるからである。

 『共感覚幻想曲』や『月ノ巡り』では、本稿で取り上げた、憑依・脱魂を伴う巫女神事(巫女舞巫女神楽、磐座神事、神剣演舞など)に特別に参加させてもらってスケッチをし、また個々の巫女たちをあえてモデルとして、神社の隅や、はたまた公園などでスケッチするなどして、女性身体の観察から始めた。

 当然、当初は衣服や巫女装束の上から実際の裸体の動きを予測してスケッチするということを繰り返していたが、それではまるで音楽理論武装した音楽、偽善音楽の二の舞になってしまうため、途中からは一部を屋内でのヌードデッサンに切り替え(モデル女性たちの機転・配慮により、美術大学やアトリエ、巫女神殿、女子寮の部屋を利用)、「始原の一者感覚」と「女性身体に対する視線・観点」と「女性たちとその身体からの応答の視線・振り返り」とが一体化するような「音楽性」を探した。モデルには相変わらず巫女たちが多かったが、一般の知人女性や美大のヌードモデル経験者も参加した。その後に、それらのスケッチを元に具体的に楽曲を組み上げていった。最終的には、モデルとなった一部の女性たちのヌード舞踊が伴う形も取り入れられた。

 両曲の違いとしては、『共感覚幻想曲』のほうは、とことん西洋クラシック音楽の理論内の音に転写することとし、『月ノ巡リ』のほうは、雅楽などの民族音楽の響き、および(今や電子音でしか出せないそれらの)電子音楽による響きのみで転写することとした。

 そうした長年の私の「女性身体転写芸術」の結果、分かったことは、西洋音楽理論(つまりは、キリスト教的群衆道徳が、自分たちに都合よくすり替えた「神」・「絶対者」に、「よかれ」と思い込んで捧げた芸術理念)は、東洋・西洋を問わず女性身体の全て(女性身体と創作者・私との間で交わされる視線のありようの全て)を写し取ることができないということ、そして、とりわけ日本女性の身体・巫女の身体に暴力的改竄を施してしまうということ、従って、始原の一者としての「神」に対しては、なおさら言及も模写も不可能であるということである。

 同時に私の中で、「母なるもの」としての始原の存在を音楽で追求するにあたり、楽曲規模の大小という分類さえ解体されることとなる。大規模であっても「優しき母なる音楽」はあり、小規模であっても「強者すぎる男権道徳の音楽」があることが、分かってきたのである。

 西洋の音楽理論による女性身体の改竄、そこに典型的に現れる「神」の隠蔽、「始原の一者」への盲目というものがどういうものか、説明していきたい。

まず、先の私の具体的な作曲の結果としては、『共感覚幻想曲』のほうは、大規模で男性的な『刻燈』や小規模で女性的な『水の精の夢』と同じく、やはり思弁的な西洋音楽となったのである。これは未だ、女性身体の美という表象を、男が解釈しただけの表現である。

 一方、『月ノ巡リ』のほうは、大規模だが典雅な『月下欄干(げっからんかん)』や小規模で静寂な『朱華(はねず)』のような日本的美意識に満ちた音楽どころか、『ガムラン・スケッチ』のように、女性の神秘的生理現象を直接に転写できた音楽となったのである。逆に、普段から神楽を舞い慣れている巫女が『月ノ巡リ』や『ガムラン・スケッチ』を流しながら舞うと、かなり容易に憑依や脱魂と呼ばれている意識変容状態になる。

 つまり、「父なるもの」と「母なるもの」を包み込むところの「母なるもの」が、ようやく日本と世界の民族音楽、非西洋音楽の精神を取り込んだ音楽作品において、私なりに見えてきたのである。

 この『月ノ巡リ』の民族楽器音や電子音は、今でもこれらの巫女たちの儀式に取り入れられている。電子音と言っても、現代では電子音でしか出せない民族楽器の音というだけの意味であって、むしろ太古の琉球民族アイヌや吉備の音響世界に近く、まさにディオニュソス的な音源への回帰なのである。

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図二十三《岩崎純一 幻想曲『共感覚幻想曲』の作曲、オーケストレーション、劇作草稿》 岩崎純一、二〇〇八年

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図二十四《岩崎純一 交響組曲『月ノ巡リ』のスケッチノート》 岩崎純一、女性モデル、二〇一〇年~

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図二十五~二十八《岩崎純一 ナイトガウン聖女悲劇・ネグリジェ悲恋舞台劇『Poème de Pétales I(花弁の詩、花びらの詩 一)』、『水の精の夢』、『雪肌詩(ゆきはだのうた)』などの劇作、上演計画、合同練習ノート》 岩崎純一、上演女性、東京都内の女子寮や女性専用シェアハウス(小ホールなど)における上演、二〇〇三年~

 

執筆者プロフィール

岩崎純一(いわさき じゅんいち)

1982年生。東京大学教養学部中退。財団事務局長。日大芸術学部非常勤講師。その傍ら共感覚研究、和歌詠進・解読、作曲、人口言語「岩崎式言語体系」開発など(岩崎純一学術研究所)。自身の共感覚、超音波知覚などの特殊知覚が科学者に実験・研究され、自らも知覚と芸術との関係など学際的な講義を行う。著書に『音に色が見える世界』(PHP新書)など。バレエ曲に『夕麗』、『丹頂の舞』。著作物リポジトリ「岩崎純一総合アーカイブ」をスタッフと展開中。

 

ネット版「Д文学通信」編集・発行人:清水正                             発行所:【Д文学研究会】

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動画撮影は2021年9月8日・伊藤景

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「松原寛と日藝百年」展示会の模様を動画でご案内します。

日大芸術学部芸術資料館にて開催中

2021年10月19日~11月12日まで

https://youtu.be/S2Z_fARjQUI松原寛と日藝百年」展示会場動画

https://youtu.be/k2hMvVeYGgs松原寛と日藝百年」日藝百年を物語る発行物
https://youtu.be/Eq7lKBAm-hA松原寛と日藝百年」松原寛先生之像と柳原義達について
https://youtu.be/lbyMw5b4imM松原寛と日藝百年」松原寛の遺稿ノート
https://youtu.be/m8NmsUT32bc松原寛と日藝百年」松原寛の生原稿
https://youtu.be/4VI05JELNTs松原寛と日藝百年」松原寛の著作

 

日本大学芸術学部芸術資料館での「松原寛と日藝百年」の展示会は無事に終了致しました。 

 

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