ネット版「Д文学通信」32号(通算1462号)岩崎純一「絶対的一者、総合芸術、総合感覚をめぐる東西・男女の哲人の苦闘 ──ニーチェ、松原寛、巫女の対比を中心に──」(連載第27回)

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。

清水正の著作、レポートなどの問い合わせ、「Д文学通信」掲載記事・論文に関する感想などあればわたし宛のメールshimizumasashi20@gmail.comにお送りください。

動画「清水正チャンネル」https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB

お勧め動画・ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk&t=187s

 

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

ネット版「Д文学通信」32号(通算1462号)           2021年12月08日

───────────────────────────────────────────────────────

「Д文学通信」   ドストエフスキー&宮沢賢 治:研究情報ミニコミ

───────────────────────────────────────────────────────

連載 第27回

絶対的一者、総合芸術、総合感覚をめぐる東西・男女の哲人の苦闘

──ニーチェ、松原寛、巫女の対比を中心に──

 

岩崎純一日大芸術学部非常勤講師)

 

九、大いなるディオニュソス芸術、総合芸術、「母なるもの」の芸術への道

巫女・バレリーナたちと共に、ニーチェワーグナー、松原寛の亡霊に問う

作品規模の抑制による男権的ディオニュソス芸術の超克と「母なるもの」の芸術の模索

 

 このような男性的・英雄的強者の論理とは対極にある、女性の心理や体格、体力、視線、歩幅、疲労を重視した私の音楽には、まずバレエ音楽の『夕麗』(二〇〇四)や『丹頂の舞』(二〇〇六)がある。これらは思想性を可能な限り抑えたもので、地元岡山の公共施設(市民会館、文化イベント会場、岡山後楽園)や国民文化祭で上演された。前者は西洋音楽そのもので、後者は西洋音楽和楽器の理論を取り入れた。いずれも元はバレエ曲ではなかったが、編曲を繰り返した結果、それぞれ同名のバレエ曲としても独立していった。

  一方で、汎神・多神や始原の一者を見つめる女性の眼差しをあえて描く作曲手法も試みた。強権的超人思想を日本の芸道的美意識、とりわけ和歌に詠まれた月影の美を音にする形で超克しようとした私の交響詩には、『月下欄干(げっからんかん)』(二〇〇六年)がある(編成は3-2-2-2、4-2-2-1、4perc、pf、和楽器、strings)。全六楽章、演奏時間は約一時間の長大な交響詩ではあるが、せわしい楽章はなく、幽玄美を基調とした響きとなっており、そのまま巫女舞に転用されている。

 その他、管弦楽曲・協奏曲では、『夜半の眺め-澪標の路の果てに寄せて-』や『秘密の葉』(二〇〇四年)、『紅葉の朱(あけ)』(二〇〇五年)、『冬、五つの幻想』(二〇〇六年。一部は『丹頂の舞』にも取り入れた)、『紅梅の月影は夢幻(ゆめまぼろし)のごとく』(二〇〇九年)なども、西洋音楽理論を基礎としつつも、日本的美意識や歌道の典雅を音に表した私の作品である。

 これらのオーケストラも、それなりに大きな編成ではあり、西洋理論と和楽器の理論を足し算として融合させてあるが、ワーグナーの楽劇や私の『刻燈』よりは物理的な規模を抑えることで、父権的音楽を乗り越えて「母なるもの」、「大いなる落ち着いた超人性」を志向したものである。

 また、『夕麗』には様々なバリエーションがあり(長調短調、女性向け、男女混合)、特に男女混合の場合には、私(作曲家)よりも当然バレリーナのことをよく知る男性バレエダンサーが(一名ではあるが)参加することで、バランスのよい仕上がりになっていると思う。

私の交響詩、協奏曲、幻想曲、巫女舞、バレエ曲、舞台劇などは、当然、バイロイト祝祭劇場におけるワーグナーの歌劇よりもずっと小規模なものであるが、それらの総合芸術性だけは決して失わないように取り組んできた。

f:id:shimizumasashi:20211208130244p:plain


図二十《岩崎純一 『夕麗』》 二〇〇六ハートランド倉敷、岡山バレエカンパニー、二〇〇六年、山陽新聞 二〇〇六年五月三日(水)

f:id:shimizumasashi:20211208130401p:plain


図二十一《岩崎純一 『丹頂(タンチョウ)の舞』》(冬、五つの幻想 落葉、丹頂) 岡山後楽園 幻想庭園、岡山県バレエ連盟、岡山バレエカンパニー、二〇〇六年

f:id:shimizumasashi:20211208130445p:plain


図二十二《岩崎純一 『夕麗』》 国民文化祭・やまぐち二〇〇六、岡山県バレエ連盟、岡山バレエカンパニー、二〇〇六年

 

 これらのうち、西洋音楽理論に基づきつつも日本の伝統音楽理論を多分に取り入れた楽曲は、先の黒住教金光教に所属する巫女や吉備の歌道家の子女らによって、所属する教団や神社の外で行う巫女舞巫女神楽(特に自作の吉備楽・吉備舞)の秘儀にも使われている。バレエ曲の『丹頂の舞』とその原曲である『冬、五つの幻想』も、西洋音楽理論に従いながら、和歌の定型詩的律動を取り入れており、日本の風景に合うこともあって、日本庭園や神社や巫女神殿で、巫女舞のような振り付けや巫女舞そのものとして、バレリーナや巫女たちによって舞われてきた。その振り付けの多くは、バレエと言うよりも巫女神楽である。

 これは私の予測通りでもあるが、始原の一者感覚の発露を楽曲・楽団規模の巨大さとして建造したワーグナーの楽劇や私の『刻燈』のような交響詩ではなく、やや規模を抑えた詩的・文学的交響楽のほうが、巫女たちの秘儀においては、(多神教世界においても意識される汎神的一者としての)始原感覚を、「母なるもの」として引き出しやすいようである。

 男の「音楽」は、どうしても思弁の肥大化による楽曲編成の肥大化や、「理論」なるものを壊そうとして打ち立てた「理論」自体の拡大(「理論」の二の舞)に陥りがちであり、私の場合はそれを地元の巫女たちが抑えてくれた。これは、ニーチェが散文・論文での長大な哲学論と直観的なアフォリズム・詩との使い分けに費やした苦労と同じであろう。

 私の管弦楽曲ピアノ曲では、ピアノとヴァイオリンのみから成る『朱華(はねず)』(二〇〇八年)や『若菜』(二〇〇八年)、水の精・ウンディーネスクリャービンの「神秘和音」を用いて表現したピアノソロの『水の精の夢』(二〇〇四年。ピアノ協奏曲への編曲あり)などが、最小規模の楽曲群である。『水の精の夢』は、フーケの小説『ウンディーネ』を主軸に、チャイコフスキーの歌劇『ウンディーナ』やラヴェルの『夜のガスパール』の「オンディーヌ」などと異なる、アニミズム的悲恋解釈を試みたものである。

 このように極限まで編成を小さくした、ソロあるいは二人の演奏者と二・三人のバレリーナ・巫女だけから成る小曲と舞は、音楽家としての私が出会った最も「控えめなカオス」、「優しき母」なる音楽の一つである。むしろ、「日本的ペシミズム」の音楽と言ってもよい。

 また、インドネシア民族音楽ガムランの音響を再現した『ガムラン・スケッチ』(二〇〇八年)なども、比較的少数の楽器と十数名の巫女・ダンサーによるブドヨとスリンピ(ジャワ舞踊)、レゴン(バリ舞踊)のみで原始的ディオニュソス・カオスを引き出す試みとして作ったもので、この響きは、『刻燈』のような異様な規模の重合奏ではないにもかかわらず、巫女たちの憑依感覚・カオス感覚に近いらしく、巫女たちも好んで秘儀の導入部分に用いている。

 ニーチェワーグナーになくて私にあるものと言えば、神道・仏教や、和楽器と世界の民族楽器の音楽理論である。ニーチェは仏教に触れてもいるし書いてもいるが、ニーチェにとっての「音楽」とは、ルネサンス以来の西洋音楽理論の極致であるワーグナーの巨大音楽である。ニーチェの作曲した曲などは、なおさら基本的な西洋の楽典に忠実な音楽である。ワーグナーも、『パルジファル』に仏教的虚無を持ち込んだが、惜しいことに、やはりなおキリスト教色(聖杯伝説)が優先され、ニーチェもその仏教的要素を肯定はしなかった。

 一方で、私の場合は、強権的・男権的ディオニュソス観の超克、「母なるもの」の追求が、楽曲規模の調整であると同時に、西洋音楽理論の転倒でもあるわけである。実際のところ、西洋音楽理論による巨大オーケストラ編成では、和楽器・民族楽器の音楽は組めないのである。むしろ、和楽器・民族楽器の一つ一つが、中規模程度の西洋管弦楽の全てを内包している。ということは、後期ロマン派の西洋音楽理論だけでは、始原の宇宙、「大いなるディオニュソス」を表現できないことを意味している。

 こうして私の中では、始原の音楽、「母なる」音楽とは、和楽器・民族楽器の地位を西洋楽器の地位と対等あるいはそれ以上にまで押し上げ、かつ、むやみな巨大化を女性性・巫女精神の力を借りて制する(実際に女性が、西洋や東洋のバレリーナが、いや、神道の巫女こそが神楽の舞台を務める)ことで生み出された音楽を意味するようになったのであり、実際にここまで挙げた楽曲で、そのような作曲手法を採ってきたのである。

 

執筆者プロフィール

岩崎純一(いわさき じゅんいち)

1982年生。東京大学教養学部中退。財団事務局長。日大芸術学部非常勤講師。その傍ら共感覚研究、和歌詠進・解読、作曲、人口言語「岩崎式言語体系」開発など(岩崎純一学術研究所)。自身の共感覚、超音波知覚などの特殊知覚が科学者に実験・研究され、自らも知覚と芸術との関係など学際的な講義を行う。著書に『音に色が見える世界』(PHP新書)など。バレエ曲に『夕麗』、『丹頂の舞』。著作物リポジトリ「岩崎純一総合アーカイブ」をスタッフと展開中。

 

ネット版「Д文学通信」編集・発行人:清水正                             発行所:【Д文学研究会】

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。

 

清水正の著作購読希望者は下記をクリックしてください。

https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208

www.youtube.com

動画撮影は2021年9月8日・伊藤景

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。

清水正・批評の軌跡Web版で「清水正ドストエフスキー論全集」第1巻~11巻までの紹介を見ることができます。下記をクリックしてください。

sites.google.com

 

清水正著『ウラ読みドストエフスキー』を下記クリックで読むことができます。

清水正•批評の軌跡web版 - ウラ読みドストエフスキー

f:id:shimizumasashi:20210907111050j:plain

「松原寛と日藝百年」展示会の模様を動画でご案内します。

日大芸術学部芸術資料館にて開催中

2021年10月19日~11月12日まで

https://youtu.be/S2Z_fARjQUI松原寛と日藝百年」展示会場動画

https://youtu.be/k2hMvVeYGgs松原寛と日藝百年」日藝百年を物語る発行物
https://youtu.be/Eq7lKBAm-hA松原寛と日藝百年」松原寛先生之像と柳原義達について
https://youtu.be/lbyMw5b4imM松原寛と日藝百年」松原寛の遺稿ノート
https://youtu.be/m8NmsUT32bc松原寛と日藝百年」松原寛の生原稿
https://youtu.be/4VI05JELNTs松原寛と日藝百年」松原寛の著作

 

日本大学芸術学部芸術資料館での「松原寛と日藝百年」の展示会は無事に終了致しました。 

 

sites.google.com