ネット版「Д文学通信」31号(通算1461号)岩崎純一「絶対的一者、総合芸術、総合感覚をめぐる東西・男女の哲人の苦闘 ──ニーチェ、松原寛、巫女の対比を中心に──」(連載第26回)

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ネット版「Д文学通信」31号(通算1461号)           2021年12月06日

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「Д文学通信」   ドストエフスキー&宮沢賢 治:研究情報ミニコミ

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連載 第26回

絶対的一者、総合芸術、総合感覚をめぐる東西・男女の哲人の苦闘

──ニーチェ、松原寛、巫女の対比を中心に──

 

岩崎純一日大芸術学部非常勤講師)

 

九、大いなるディオニュソス芸術、総合芸術、「母なるもの」の芸術への道

巫女・バレリーナたちと共に、ニーチェワーグナー、松原寛の亡霊に問う

作品規模の巨大さ(後期ロマン派、芸術学園)に見出された男権的ディオニュソス芸術としての「音楽」、「ギリシャ悲劇」、「総合芸術」

 

 自らの芸術によって(本稿で私が述べるところの)絶対的一者、始原の存在に迫ることができれば、これほど感動的なことはない。私は、音楽理論(楽典、和声学、対位法、管弦楽法和楽器の理論など)を全て独学で学び、和歌については、独学すると共に巫女たちや歌道家の子女たちから薫陶を受け、交響詩、幻想曲、バレエ音楽巫女神楽などを創作してきた。そのうちいくつかは上演された。映像音楽、絵画音楽(画家とのコラボレーション)、インターネットコンテンツの音楽、クラシック音楽グループの楽曲としての提供もあるが、本稿では文学(詩、和歌、悲劇)、舞踊(バレエ、巫女舞)、造形美術、絵画などを伴う総合音楽作品を取り上げたい。

 ところで、世の中で単に音楽理論と呼ばれているものは、所詮は西洋音楽の理論である。更に言えば、絶対音楽と相対音楽のうち、絶対音楽の理論である。今私が相対音楽と呼んだものは、「神の絶対化」を「音楽理論の絶対化」、「音楽のための音楽」で再現できると考えた作曲家たちが、その不可能性を知り、「神の絶対化」表現としての音楽を離れて作った情景的・心象風景的・文学的音楽の意味で、通常は「標題音楽」などと呼ばれる。

 この標題音楽ロマン主義と合流してロマン派音楽となり、やがてオーケストラ編成の巨大化という形を取って後期ロマン派音楽と呼ばれるようになった。ただ多くの場合、「神」の表現に 偏向していた従来の姿勢を改め、人間性や民族性、ひいてはナショナリズムの発露を狙ったつもりが、結局は「神の偉大さ」をオーケストラの巨大さによって表現するようになった。

 しかし、やがてそこに、そのオーケストラの巨大さばかりか、オペラ・総合芸術作品全体の巨大さを、ショーペンハウアーの「意志」や「共苦」といった価値の称揚に用いたワーグナーが登場し、その巨大音楽をニーチェが新たに「ディオニュソスの神」の顕現として激賞したのである。ワーグナーはむしろ、自身の出自である音楽よりも劇のほうを総合芸術の究極目的と考え、音楽ばかりを優先していた従来のオペラを批判した。

 もちろん、絶対音楽時代のバッハやヘンデルは、自分たちの音楽理論が神のシステマティックな解釈であるなどとは考えておらず(神の正しい記述への道であるとだけ考えており)、その欺瞞にモーツァルトがやや気づき始め、ベートーヴェンが一層意識に上せたが孤独に終わり、ワーグナーニーチェに至って初めて、音楽理論がむしろ能動的な価値転倒の対象として強く意識され、群衆に向かってその思想が披露されたのである。

 反古典文献学的な『悲劇の誕生』を評価しなかった師リッチュルを離れたニーチェは、これ以降、ワーグナーへの心酔と、バイロイト音楽祭以降に生じた疑念(『反時代的考察』)、そして決別、ドイツ・ロマン主義の現状への批判(『人間的な、あまりに人間的な』)、ビゼーへの賞賛(『善悪の彼岸』)、ワーグナーへの振り返り(『道徳の系譜』)など、ディオニュソス芸術の体現者を探す旅に出ることになる。

 ニーチェにとって、「音楽」が聴覚性ばかりか視覚性も嗅覚性も触覚性もあらゆる五感を含めた「ディオニュソス芸術」の名である以上、ニーチェが必然的に、オペラ(歌劇、楽劇)、しかもとりわけ大規模な編成のオーケストラと重唱・合唱と劇団を有する長大なロマンティック・オペラ(ワーグナーの初期・中期作品など)に、ディオニュソス性を見出そうとする動きになったのは無理もなかった。

 当時の芸術作品の規模、とりわけオーケストラの大規模化(四管編成の全盛期)と楽曲の長大化、それに伴う音量・音圧の強大化は、ギリシャ悲劇の復興を狙うニーチェのような哲学者には多大な勇気を与えたと私は考える。ニーチェ哲学と並行して大規模交響楽の作曲に取り組んできた私にも、当初はほとんど、大規模な楽劇や交響曲交響詩こそがディオニュソス精神の投射であるとさえ思われたものである。

 二十代前半だった私は、作曲家の黛敏郎の『涅槃交響曲』や『曼荼羅交響曲』にも、似たような雄々しさを感じていた。ニーチェワーグナーも、これらの曲を好むであろう。私などは、今でも趣味として、ゴシックメタル、シンフォニックメタル、メロディックメタル、ネオクラシカルメタル、オペラメタル(メタルオペラ)など、交響楽・オペラなどと現代のヘヴィーメタルを融合した音楽を好むほどである。

 ワーグナーのオペラは、当時のどのオペラ作曲家と比べても巨大だが、『ニーベルングの指環』は文字通り、(何を最大・最長と呼ぶかにもよるが)人類史上最大かつ最長の総合芸術となった。総演奏時間は十五時間超、音数も最大であり、通常は六夜、最低でも四夜をかけて実演される。

 後期ロマン主義音楽、特に交響曲交響詩、オペラでは、オーケストラ規模も楽曲の長さも肥大化を見せたが、ソシュール言語学用語として用いた「共時(態)」、「通時(態)」を借りれば、後期ロマン主義音楽は、巨大共時態(巨大な空間、和声、音量、音圧)と長大通時態(長大な時間、旋律、対位法、律動、物語)の渾然一体の芸術と呼べるだろう。しかもそれは、造り上げられた実際の物理的規模(音楽、文学、造形などの算術的総和)よりもさらに強大で不可分の影響を上演者たち自身や観衆に及ぼす、いわばホーリズムの芸術だとも捉えてよいだろう。特にワーグナーニーチェにおいては、古代ギリシャ(遠い過去の栄光)への当代ドイツ・ゲルマン(現在)における復興が、巨大共時態と長大通時態によって可能だと解釈されたのである。

 それにしても、ワーグナーらのマンモス編成の歌劇・楽劇は、およそ人間の、とりわけ女の心理や体格、体力、視線、歩幅、疲労というものを考えていない。女泣かせの芸術である。もちろん、実際には女性も多く舞台に上がるのであり、そもそも女性の純愛と自己犠牲による救済思想がワーグナーオペラに通底するテーマであるが、その作曲思想には、女(女優、女性歌手、バレリーナ、女性演奏者、観客女性)をも我々のディオニュソス芸術に引き入れるという優しい意識はない。

 そこで強調されるのは、男の精神と身体である。芸術家の男が、君主や哲人の男のために、あるいは他の芸術家の男たちへの自慢のために、あるいは群衆道徳にまみれた世の一般の男たちへの断罪のために、ギリシャ精神の復興を狙って創った長大な爆音芸術に、女が参加したというだけの方式であって、男が女と共に創り上げたものではない。いわば「射精芸術」である。

 しかも彼らは、自分の前作や他のライバル作曲家の作を超えることばかりを考えているので、オーケストラ規模は、ロマン派において一気に四管編成から九管編成にまで肥大化した。女の精神と身体が追いついていくには、あまりにラディカルで大々的にすぎる価値転換の手法であった。

 ニーチェも、その現実は結果的に無視して、「超人の芸術作品=男が男のために作った巨大音響芸術」という方程式を持ったのである。ワーグナーにとって楽劇・交響楽は男の芸術であり、ニーチェにとって超人とは男であった。このあたりに、二人がドイツ・ナチズムの後発帝国植民地主義に利用された不覚の油断があったように思える。

 

 神を前にしては!――しかし、いまやその神は死んだ。あなたがた高人よ、この神はあなたがたの最大の危険だった。

 神が墓にはいってから、あなたがたははじめて復活したのだ。いまはじめて大いなる正午は来る。いまはじめて高人は――主となる。

 このことばを理解したか、わたしの兄弟たちよ。驚愕したのか。心がめまいをはじめたのか。あなたがたの前に深淵が口を開いたのか。地獄の犬があなたがたにほえかかるのか。

 いざ! いざ! あなたがた高人よ。今こそ人間の未来の山岳が陣痛にうめきはじめる。神は死んだ。いまやわれわれは欲する――超人が生まれることを。

(『ツァラトゥストラ』Ⅱ 第四・最終部 高人 三〇〇―三〇一頁)

 

 ニーチェの女性観を確認しておこう。

 

 最後に、女性! 人類のこの半分は、弱く、典型的に病気で、むら気で、移り気である、――女性は、それにしがみつくために強者を必要とし、なおまた、弱者であることを、愛することを、謙虚であることを、神的としてたたえる弱さの宗教を必要とする――、ないしはむしろこう言うべきであろう、女性は強者を弱化せしめ、――強者を圧倒することに成功するときには支配すると。女性はつねに、デカダンスの典型と、僧侶とぐるになって、「権力ある者」、「強者」、男性に対して謀叛をはかった――。女性は、信心の、同情の、愛の礼拝のためなら子供をすらかえりみない、――母性は利他主義を否定しがたく代表する。

(『権力への意志』下 第四書 訓育と育成 Ⅰ 階序 2 強者と弱者

八六四 三八一―三八二頁)

 

 もっとも私は、今や欧米と日本の群衆道徳を成す大部分の女性については、ニーチェの言い分は正しいと見るものである。ただし、哲人の男である自分たちの思想に協力的・献身的で、その芸術に身をもって参加している巫女的女性たちに対しては、また違った視線が向けられるべきであると、私は考えるのである。私は今、ニーチェの哲学やワーグナーの音楽に私淑した日本の男として、ニーチェワーグナーの思想にわずかに観察されるこれらの隙を、日本の女に向かって、とりわけ巫女的女性たちに向かって、さらには巫女的女性たちが私に教える「母なるもの」に向かって、超克しなければならない。

 ワーグナーニーチェの男権・父権的芸術理念を、まさにギリシャ悲劇と近代心理学の神経症概念から説明する手もあるだろう。幼くして父親を亡くした二人は、フロイトオイディプスの神話になぞらえ提唱したエディプス(オイディプス)コンプレックスにおける、父への反抗と母の奪取を試みる必要がなくなり、少年の闘争に飢えた。そのため、代替の父権的価値道徳(ユダヤ人、キリスト教、ドイツ群衆の価値道徳)を自らの超人・単独者としての巨大な男権が上回ろうとする試みを、哲学や芸術に外在化したままにせざるを得なくなった、という解釈である。それゆえ、かえって「母なるもの」を守護するどころか、「女なるもの」自体を配下に収める芸術観を持ってしまった、つまり、自らユダヤ的な父権化を生み出してしまった、という解釈である。

 二人とも、ソポクレスの描いた母親との近親相姦への憧れを巨大芸術・哲学で披露してしまった、つまり、観衆・読者ではなく母のために巨大芸術・哲学を創った、とするわけである。

 のちに父を父と知らずに殺し、テーベの王となって、母を母と知らずに娶ることになるオイディプスは、父に反抗するよりも先に父から捨てられた、望まれぬ息子であった。ワーグナーニーチェが、ギリシャ神話の男神に、ディオニュソスどころか、密かに自分たちをなぞらえ、演出したとしても、何ら不思議ではない。あまりにフロイト的な解釈ではあるが、成り立たないわけではないだろう。

 ニーチェは少なくとも、オイディプスが自然(ここではインセスト・タブー)に逆らう悪逆としてのディオニュソスの仮面であることまでは確信している。

 

 ギリシャ悲劇がその最も古い形態ではディオニュソスの苦悩だけを対象としていたこと、かなり長い時期を通じて、舞台にあらわれる唯一の主人公が、やはりディオニュソスだったということは、争う余地のない伝承である。しかし、これと同様な確かさでいえることは、ディオニュソスが悲劇の主人公であることをやめたことはエウリピデスにいたるまで一度もなかったということ、ギリシア悲劇の有名な人物たち、プロメテウスやエディプスなども、みなあの本来の主人公であるディオニュソスの仮面にすぎなかったということだ。

(『悲劇の誕生』 一〇 悲劇の秘教 一〇〇頁)

 

 ニーチェの中では、神託に振り回されたオイディプスの振る舞いを受動的冒涜、アイスキュロスが描いたプロメテウスのような振る舞いを能動的冒涜とするなどの違いはあるが、これらの悲劇をアポロン的なるものがディオニュソス的なるものの発出を妨害しない総合芸術であると評価している。さらには、アーリア人ギリシャ人)は冒涜を男とするが、セム人は罪を女とするものと見て、ギリシャ悲劇の優秀性を確信している。

 つまりニーチェは、女を見下したつもりはないが、男の冒涜をワーグナーにおいて賛美しすぎた、という解釈は可能だろう。

 ワーグナーも概ね同様のギリシャ悲劇観を持つが、ニーチェとの違いを挙げれば、どちらかというとワーグナーオイディプス王解釈のほうが、「男は女の愛(なかんずく、女としての母の愛)によって救済される」という思想を含む。ワーグナーは、『オペラとドラマ』(一八五一年)の中で、詩は男性、音楽は女性という比喩を用い、詩人による観念の射精によって受胎した音楽のみが真正の旋律を分娩するという論を展開している。

 一見すると、女性崇拝的で、観念にとらわれるしかない男を自虐しているようではあり、音楽の直覚芸術性も十分に認識しているが、やはり男に従属するものとしての女という位置づけも垣間見える。オイディプスに神託を授けたデルフォイの巫女たち、ニーチェ哲学の女の読者たち、ワーグナー楽劇の女の演奏者・女優たちの妖しき魔力と本当の愛は、二人の芸術肥大化思想によって、隠されたままとなったわけだ。

 ワーグナーニーチェに限れば、確かにその無意識においては、「父に代わる、ユダヤキリスト教、群衆の仮想敵化」が行われたかもしれない。一方で、後期ロマン派の作曲家たちが、家庭環境(強大な父権の有無)とは無関係に、それなりに芸術の肥大化による群衆への訴えかけを志向したところを見ると、それら群衆の価値道徳は、限られた芸術家・哲人の仮想敵にとどまるとは言えず、ニーチェの指摘通り、実際に蔓延していた悪しき弊害であったとは言えるだろう。

 父権・男権主義音楽の駆動力が必ずしも各作曲家の実父への個人的な抵抗願望、他の女を無視した母親のためだけの音楽創作願望に由来しないということは、「仮想敵打倒の末の仮想の母との交わり」そのものは、ワーグナーニーチェなど、限られた家庭環境に育った哲学者・作曲家の無意識で行われたものだろう。無論この二人とて、実際に母と結ばれたわけでもない。オイディプス王をオペラ・オラトリオにしたストラヴィンスキーも、一転して本作で声楽の大規模化を実験したわけだが、個人的なエディプス・コンプレックスが根底にあるとは観察されない。

 従って、父母の双方に育てられた私のような人間は、なおさら「父を追い出した末の母なるもの」よりは、「父なるものをも包み込む宇宙・世界の源泉としての母なるもの」に向かって、日本における総合芸術を語るべきなのだろう。

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図八《リヒャルト・ワーグナーの肖像写真》 Franz Hanfstaengl, Munich, 1871.

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図九《リヒャルト・シュトラウスの肖像写真》 Tucker Collection - New York Public Library Archives, 1911.

 

 ニーチェが偏愛したワーグナービゼーをはじめ、ヴェーバーヴェルディブルックナーブラームスマーラーストラヴィンスキー、そして交響詩ツァラトゥストラはかく語りき』などを作曲したリヒャルト・シュトラウスらは、皆巨大編成の哲人作曲家、音楽を「聴かせる」・「見せる」・「触らせる」芸術家である。無論、これらの作曲家も、交響曲とオペラ両方の名人、交響曲だけの名人、オペラだけの名人などに分かれるが、大規模オケの愛好家という点では一致している。しかしニーチェ自身は、これだけの名人に囲まれながら、自らの哲学の言葉(特にセンセーショナルなアフォリズムや詩)を体現した「音楽」作品は見出せずに終わったとしか言えない。つまり、本当はニーチェの思想は、ただの巨大芸術では表せないことを意味する。

 例えば、ヒューマニズム人文主義、人本主義)に基づくルネサンスは、一般に華々しい文明の開化・再生であると見なされている。ところでニーチェ自身は、『道徳の系譜』で、ルネサンスを、君主道徳の価値様式が勝利した時期であり、その規模と雄々しさに、ローマ帝国やナポレオンと同様の「力への意志」を見ている。

 しかしながら、私のように、ルネサンスを前ルネサンス的・ゴシック的なもの(カオスの神)を否定した「大衆に都合のよい神」の時代の幕開けだとも見る場合は、ニーチェの思想も本当は反ルネサンス的なのではないかと解釈してしまう。私見ではあるが、私はニーチェの思想に従うと、ルネサンス弱者道徳の傲慢の結集であり、始原の存在を母体とする「力への意志」の退化であり、しかもその源流にソクラテスエウリピデスによるギリシャ悲劇の破壊があるということになるだろうと考えるのである。

 オーケストラの大音響を、無意識的にではあるが、始原の力の再現と見た後期ロマン派の態度は、当初はニーチェにも華々しく映ったからこそ、ニーチェはこれを擁護したのであるが、その規模の肥大化もまた偽善であり欺瞞であると見抜いたまま、次の新芸術を見出せず悲嘆に暮れたのも、またニーチェであった。

 ニーチェより約三十歳年上のワーグナーは、当然ニーチェよりも早期から、ドイツの地におけるギリシャ悲劇の復興を目指していたわけだが、そもそもオペラ自体が、ギリシャ悲劇の復興運動としてイタリアで創始された総合芸術である。交響曲は、オペラの序曲を独立させた聴覚芸術である。(これは日本において、短歌中心の和歌が肥大化して連歌となったのち、その遊戯性を高めた俳諧連歌の発句が独立して俳句となったのに似ているが、その規模の違いは一目瞭然である。それにしても、ドイツへ留学した森鷗外が”symphony”を「交響(楽・曲)」としたのは名訳であった。)

 ところがその後、イタリアでは喜劇オペラが流行し、去勢されたカストラートが人気を博し、この喜劇性が国外へ出て、フランスのオペラ・コミックやイギリスのバラッド・オペラの登場に至る。これらを統合したものが、ジングシュピールに始まるドイツ・オペラであった。それゆえ、ロマンティック・オペラ(ロマン派のオペラ)とはドイツ・オペラに他ならない。

 ところが、ロマンティック・オペラのうち、ワーグナーリヒャルト・シュトラウスの動きだけは違った。ギリシャ悲劇復興のイタリア・オペラ、喜劇のドイツ・オペラという様式を壊して、ドイツの地におけるギリシャ悲劇の復興を目指したわけである。とりわけワーグナーは、ゲルマン民族の男たちが悲劇の復興者であるべきことを強調した。ここに、ギリシャ悲劇の愛好と男権思想・反ユダヤ主義とが結託した所以が見えてきたであろう。

 ニーチェは、ワーグナーが編み出したレチタティーヴォ(叙唱)とアリア(詠唱)の一体化(幕間以外で聴衆に拍手喝采を挟ませない連続演奏・演技)や無限旋律に、永劫回帰思想を見たであろうし、それらの旋律に乗せて多用されるライトモティーフ(登場人物を表す動機)にも、超人の誕生と時空の円環を見たであろう。調性崩壊の端緒となった『トリスタンとイゾルデ』の「トリスタン和音」には、ディオニュソスとカオスへの扉の入口を見たであろう。このトリスタン和音スクリャービンの「神秘和音」は、東アジアのシャーマニズムの音楽や雅楽の演奏中にもしばしば現れる響きであり、先の巫女たちによる吉備楽・吉備舞でも同様である。ワーグナーは東洋的響きを発見した最初の西洋の作曲家と言ってもよい。

 そもそも「総合芸術・全体芸術(Gesamtkunst, Gesamtkunstwerk)」なる言葉を最初に生み出したのは、ワーグナーであった(『芸術と革命』、『未来の芸術作品』、『オペラとドラマ』など)。英語では、”total(comprehensive, ideal, universal) work of art(artwork)”や”synthesis of the arts”などと訳されている。

 一方で、今我々がワーグナーの作品に対して用いている「楽劇(Musikdrama)」という言葉を、ワーグナー自身は拒否した。台詞・朗読による演劇と音楽とが概ね交互に現れる「音楽劇(Das musikalisches Drama)」(つまり、必ずしも狭義の「総合・全体芸術」とは言えない芸術形式)と混同されるのを避ける意図だったようである。

 また、ワーグナーは、音楽が劇よりも優先され、叙唱と詠唱とが区別されていた従来のオペラに代わり、むしろ叙唱と詠唱の区別が放棄された歌唱に支えられた劇・詩こそが究極の主役となって、オーケストラ音楽と融合することを重視した。とりわけ、自作上演のために建設したバイロイト祝祭劇場は、劇に観客の視線を集中させるため、オーケストラと指揮者は完全に観客から見えない構造になっている。だがそれにもかかわらず、オーケストラ編成は極めて大きかった上、劇ばかりか音楽が途切れることをもワーグナーは許さず、その音響(無限旋律、ライトモチーフなど)が劇に「劇的に」重なる効果をどこまでも狙ったのである。

 このようなワーグナー自身の趣旨を尊重しつつ、あえて音楽側に引き寄せてその総合芸術作品を言う場合には、「散文音楽(musikalische Prosa)」と呼ばれる。しかし、これはこれで、印象主義自然主義の(文学性や歌唱を含まない)音楽にも適用できるため、やはり一般には「楽劇」が好まれている。

 一方、「ミュージカル」は、「音楽劇」以上に歌唱に重点を置いてはいるが、ワーグナーらの芸術を「ミュージカル」などと言ってしまえば、その作り込まれた悲劇性は全く表現できず、明らかにふさわしくないのである。

ワーグナー自身は、自らの作品を『大悲劇オペラ(große tragische Oper)リエンツィ』、『舞台祝祭劇(Bühnenfestspiel)ニーベルングの指輪』、『舞台神聖祝祭劇(Bühnenweihfestspiel)パルジファル』などと雄々しく呼称している。

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図十《ワーグナー 『大悲劇オペラ(große tragische Oper)リエンツィ』》 Act 4, last scene, in the Dresden Opera House, 1842. Johann Jacob Weber, Illustrirte Zeitung, Nr. 7 vom 12. August, Leipzig, 1843.

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図十一《ワーグナー 『舞台祝祭劇(Bühnenfestspiel)ニーベルングの指輪』 『序夜 ラインの黄金』》 The Rhinemaidens, from left: Minna Lammert, Lilli Lehmann and Marie Lehmann, in the premiere production, Bayreuth, 1876. Mein Weg'. Leipzig, p. 279-280 Online version: Zenodot Kulturgeschichte, 1913.

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図十二《ワーグナー 『舞台神聖祝祭劇(Bühnenweihfestspiel)パルジファル』》 Amalie Materna, Emil Scaria and Hermann Winkelmann (right), in the premiere production, Bayreuth, 1882.

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図十三~十六《リヒャルト・シュトラウス 『サロメ』の上演女性たち》

 Alice Guszalewicz, with Jokanaan's severed head, Cologne 1906 or Leipzig 1907. Collection Guillot de Saix.

 Tilla Durieux, George Grantham Bain Collection (Library of Congress).

 Aino Ackté, George Grantham Bain Collection (Library of Congress).

 Olive Fremstad, holding the head of John the Baptist, Metropolitan Opera, 1907.

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図十七《サロメブーム 『サロメの幻影』》 Maud Allan, Salome with the head of John the Baptist after her Dance of the Seven Veils, 1906-1910. Foulsham & Banfield.

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図十八《サロメブーム サロメに扮するベリーダンサー》 Fritzi Schaffer, ca. 1910. George Grantham Bain Collection (Library of Congress).

 

 視覚芸術や聴覚芸術の総合と、ドイツ・ゲルマンにおけるギリシャ悲劇の復興、旧来のユダヤキリスト教的価値道徳の超克とが、ワーグナー自身の中で同義であったことは、注目に値する。のちのニーチェと全く同様の観点である。

 し かし、ワーグナーほかオペラ・総合芸術作家たちが、音楽、文学、演劇、舞踊、絵画、造形、建築、舞台装置などをただ足し算として合算していったがために、いつのまにかワーグナーニーチェら自身の中で、「総合」や「全体」の意義が「巨大」や「長大」と読み替えられてしまったのである。自らの芸術の大規模化に向かうワーグナーの気迫は、ルートヴィヒ二世の支援を受けたバイロイト祝祭劇場の建設において最高潮となった。

 ワーグナーニーチェのドイツ・オペラ精神を忠実に継承した作曲家としては、プフィッツナーがそうだと見え、巨大作品志向はようやく収まるものの、ドイツ・ロマン主義の最たる体現者であり、ワーグナーニーチェと同様、その思想と作品がナチズムに利用されている。

 面白いことに、ロマンティック・オペラと言えばドイツ・オペラである一方、グランド・オペラ(大規模歌劇)とはパリ・オペラ座などを中心とするフランス・オペラのことである。だが、フランス・オペラの基礎はイタリアとドイツの作曲家が築いたもので(グルックのオペラ改革など)、グランド・オペラはパリでバレエを伴って上演されるようになった最大規模のイタリア・オペラとドイツ・オペラをも指して呼ぶものである。

 ユダヤ系ドイツ人のマイアベーアこそがその筆頭格である。マイアベーアワーグナーを庇護し、ワーグナーも決別前にはマイアベーアをイタリア、ドイツ、フランスのオペラの統合者として称えた。ワーグナーも、フランスでの上演時にはバレエを伴っており、ドイツ・オペラはフランスでのバレエ人気の影響により、同地で最大規模となった。

 しかし、主役のバレリーナ以外はバレエのみでは生活できず、娼婦を兼ねるバレリーナを大勢動員しての上演だったのであり、ここにも、マイアベーアワーグナーなど当時のオペラ作家の男たちが持っていた複雑な女性観が見え隠れする。ただし、このようなグランド・オペラを芸術家たちに要求したのは、紛れもなくフランス群衆やドイツ群衆であった。

 帝国植民地主義では英米仏に後れを取った独伊は、オペラ・総合芸術の領土拡大には成功したと言える。十九世紀半ば、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の頃になると、バレエを伴ったフランスでの上演に限らず、各地で上演されるロマンティック・オペラもグランド・オペラと呼ばれるようになった。

 その後、さすがに物理的限界を迎えたオペラは、本場イタリアでヴェリズモ・オペラを生む。ただの足し算としてのオペラがようやく、管弦楽法の充実と、一般市民の生活における卑近な悲劇の直接描写(病苦、暴力、殺人など)によって、ドイツ・フランスの神話と英雄のオペラの量的肥大化を止めたのである。この時もニーチェは、最初のヴェリズモ・オペラと言える『カルメン』で成功したビゼーと、ディオニュソスの体現者ワーグナーとの間で、揺れ動き、苦しんでいる。そこに、ニーチェ哲学の唯一の隙がある。

 同じ頃、ニーチェの『ツァラトゥストラはかく語りき』を交響詩にし終えていたリヒャルト・シュトラウスは、官能的極彩色の『サロメ』(オスカー・ワイルドの同名の戯曲が元)、これを拡大して複雑な音響にした『エレクトラ』、大規模な『ばらの騎士』など、最期のドイツ・ロマン派オペラを大成した。それと同時に、これらの作品、とりわけオリエントの響きと官能性を持った『サロメ』の「七つのヴェールの踊り」(およびワイルドの『サロメ』の同箇所)は、多くの女性ダンサー、ソプラノ歌手、振付師、演出家に官能のブームを巻き起こし、ダンサーや歌手がベリーダンスやエロティックなショー、しまいにはストリップティーズそのものを行う派生作品も多く登場した。ニーチェの発狂直後、死亡前後の時期からのブームであることが、皮肉である。

 この間狂気に陥ったニーチェは、ヴェリズモ・オペラやリヒャルト・シュトラウスの作品はほとんど知らずに世を去っている。ニーチェはやはり、文芸においてはアフォリズムや詩(緊縮された音数、字数での啓発)の天才であった一方で、現に五感によって見え、聞こえているところの造形芸術や音楽、その風潮としてのルネサンスロマン主義などに自らの哲学を結びつける場合には、自身が生きた時代の作品の大規模化に活路を見出すほかなかった。いつのまにかそれが自らの「意志」になってしまい、多大な苦労を払ったまま生涯を閉じたようである。当のワーグナーら音楽家でさえ、若い頃は、作品の大規模化と哲人思想との結託にはニーチェほど興味や期待がなかったようである。

 ところが逆に、ニーチェが楽曲を創ると、シューマンシューベルトの前期ロマン派の音響になってしまう。ニーチェは薄々、屈強で華々しい男性像を構築するだけでは済まない自らの神経質や、片頭痛・眼痛体質も分かっていたし、後期ロマン派の足し算思想だけが総合芸術でないことも分かっていたようだ。やはり、ワーグナーは哲学者ではない芸術家であり、ニーチェは芸術家ではない哲学者である。

 ちなみに、二人の亡き後も名作の数々を生み出し続けていたリヒャルト・シュトラウスは、大日本帝国とドイツの宣伝大臣ゲッベルスから『日本の皇紀二千六百年に寄せる祝典曲』なるものを作らされ、一九四〇年に完成させている。かなり無感情・無気力の響きがする曲で、リヒャルト・シュトラウスの巧みな力の抜き方には感心するが、ともかく、当時の日本とナチスが芸術家・哲学者の凄さを全く理解していなかったことを示す典型例である。

 一方、その頃の松原寛は、ヨーロッパのオペラや交響曲の展開を当然、或る程度は見ていたが、巨大造形芸術・実業芸術としての日芸を創設したあたり、やはり生涯、ドイツの地で学んだ巨大総合芸術の申し子であった。しかも、ニーチェよりももっと音楽理論に疎く、作曲活動もせず、芸術学園の経営とその巨大化に余念がなかった哲人である。芸術家哲人でないばかりか、実業家哲人である。

 だが、その松原寛の最初の哲学書は、ニーチェの『悲劇の誕生』に比定できる立派な芸術論の書『現代人の藝術』なのである。この頃から早、松原寛は、芸術が個々の人間の「苦悶の象徴」たるべきことを高唱している。苦悶する者の芸術と苦悶しない者の差異を強調している時点で、問題提起はニーチェに似ている。善や徳のために造形したり計算したりする芸術をアポロン的、苦悶の象徴たる芸術をディオニュソス的と名付ける限り、そうである。

 松原寛の「苦悶の象徴」論は、まず一九二〇年に大阪の講演会で発表されたのであるが、聴講者に大いに影響を与えたらしい。そこに出席していた厨川白村による「苦悶の象徴」の語と論の盗作トラブルを、松原寛自身が『現代人の藝術』でも『藝術の門』でも執拗に取り上げ、自らの「苦悶の象徴」論のほうの優秀性を強調しているのが面白い。しかし、「苦悶の象徴」の原作者はやはり松原寛であり、その「名附親たるの光榮」(『藝術の門』一一六頁)を誇るのも当然である。

 先に、その松原寛の哲学用語の多くも既存の哲学用語の焼き直しであると書いたが、「総合芸術」や「文化哲学」を母体として唱えた先の「総合文化(synthetische Kultur)」などは、先人の哲人たちの猿真似ではなく、より高みと深みに達しており、ニーチェワーグナーの芸術論に匹敵するだろう。無論、松原寛の場合は、「総合芸術」、「文化哲学」、「総合文化」は、「新たな理想の宗教」の意に近いことも否めないが、少なくとも「総合」の意については、ニーチェワーグナーよりも直接的に表現している。

 

 さきに私は舞臺藝術たる劇が、綜合藝術である所以を縷説して置いた。そして凡ての藝術は皆々流れ來つてこの舞臺藝術たる大海原を、現ずべき理由を力説した。

宗教的理想が文化價値全體に於ける地位は、當しく藝術の終極が劇にある樣なものである。綜合藝術の理想はMenschen darstellen全人間性の表現にある。そして我等の人間としての、藝術的欲求を隈なく滿さんとする處にその理想がある。

宗教生活の理想とする處、又之と一般である。我等人類の文化的理想を、全的に到達せしめようとするものが、即ち綜合なのである。

(『現代人の宗教』 二六七―二六八頁)

 

 宗教は文化の絶對至高の王國である。人間の絶對完成の學園である。

千種萬樣の藝術的欲求をもつ我等は、その凡てを隈なく滿さんとする、綜合藝術の大殿堂に至らねばならぬ。ちようどそのように我等はあらゆる文化的理想を漫々たる水の如くに漂えた、綜合文化の世界を窺はないでは居られない。(中略)藝術の徹底は又やがて、宗教文明の開顯である。

(同 二七三頁)

 

 面白いことに、松原寛が受け入れられなかった京都学派・西田幾多郎への入門に成功した三木清も、松原寛の生き写しのようなことを言っている。

 

 表現において表現されるものは單に心理的なもの、内在的なものでなく、超越的なものでなければならぬ、イデー的なものでなければならぬ。眞に自己に内在的なものは超越的なものによつて媒介されたものであり、超越的なものによつて媒介されたものが眞に自己に内在的なものであるといふところに、人間の存在がある。しかしながらそのことは表現作用が單に理性(ロゴス)から起るといふことを意味するのではない。「デーモンの協力なしには藝術作品はない」とジイドがいつた如く、我々の表現作用の根柢にはデモーニッシュなもの、大いなるパトス(感情)がなければならぬ。

(『三木清全集』第七巻 哲學入門 第二章 行為の問題 一 道德的行為 一六四頁)

 

 松原寛や三木清(総合)芸術・(総合)文化論は、ニーチェディオニュソス芸術論、ワーグナーの総合芸術論とほとんど大差ないことが分かる。ニーチェも、ギリシャ神話・ギリシャ悲劇のディオニュソス精神、デモーニッシュなパトスのほうを母体とした、アポロン精神との合作としての、大いなるディオニュソス精神による一者との一体化を説いた。旧来のすり替えられた人格神としての唯一神ではなく、ユダヤ唯一神古代ギリシャの神々を総合する大いなる神を再び宇宙の王座に据えることが、ニーチェの狙いだった。

 ニーチェは、ルサンチマン・奴隷道徳に基づく「善」の芸術を批判し、君主・貴族道徳による「よい」芸術を賞賛したが、松原寛が展開した総合芸術論も、「よい」芸術の論であると言ってよいだろう。

 ただしそのような貴族道徳としての「よい」芸術を目指すにあたり、ニーチェワーグナーリヒャルト・シュトラウスらは、ディオニュソス性の外在化、前ソクラテス主義・古代ギリシャ世界の復権を、後期ロマン派における楽団編成の巨大さに見たわけである。あるいは、自らそのような巨大オペラ・交響楽を創作したのである。そのような音楽観・芸術観は、先ほどから見てきたように、男性的・男権的な強さの、力の主張であることは否めないのである。松原寛が唱えた「総合芸術」概念も、「作曲」・建設し他の芸術大学まで買収しようとした日本大学芸術学部という「巨大楽劇作品」も、松原寛の思想のみに頼っていては、なお父権的にすぎるところがあり、「母なる始原」に達し得ないところがあったはずである。

 私も、東洋的実存、日本的実存の芸術作品への投射を探究していた二〇〇七年、ニーチェ哲学や原始神道原始仏教、特に中観、唯識、禅、法華経両界曼荼羅金剛界曼荼羅胎蔵界曼荼羅)の世界を様々な音響のモチーフで表現した、全五楽章から成る巨大編成の交響詩『刻燈(こくとう)』を作曲した(編成は6-6-6-4、6-6-6-4、10perc、pf、琴・三味線・篳篥・尺八・太鼓など和楽器、声明大合唱、ロックドラム、strings)。

 これは、大衆・弱者道徳による羨望や怨恨、過去の反省や未来への期待を絶した「永劫回帰」における「今」、「一刻の点燈」としての交響楽が成り立つかどうかを試したものである。途中からは、男性の合唱と女性(巫女、バレリーナ)の舞踊を伴う、交響楽とオペラとバレエの間のような交響詩となった。上演時間は約五十分~一時間である。ワーグナーの真似をするなら、「神道・仏教祝祭交響詩」とでも言えるかと思う。

 音楽理論上の解説を少ししておくなら、西洋音楽は、後期ロマン派の時代に入った時点で、調性音楽においてできることはやり尽くしていたのであり、残るはオーケストラ編成の肥大化か、調性の破壊くらいしかやることがなくなったのである。ワーグナーらの場合は、最後の調性音楽の時代にその作曲手法を華々しく使い尽くしたと言えるが、私の『刻燈』の場合は、私自身の西洋音楽理論の飽和状態への不満とその超克運動を東洋的「強さ」として表出するために、あえて和楽器民族音楽理論を多用し、非調性的要素を含めつつ、作曲したのである。

 実際には、編成が巨大にすぎ、コンピューター上で約百メートル×約五十メートルの空間を設計し、そこに数人・数ブロックずつ、またはソロ演奏の音やDTM(デスクトップ・ミュージック)による音のデータを重ねる手法を採った。

 この時空間規模になると、音速と光速とそれらの相互のずれの影響を考えねばならず、オーケストラ、合唱隊、舞踊集団(巫女、バレリーナ)の隊列の前後左右のどこに自分が位置しているかによって、音と光のずれ方が全く異なるので(何とか合奏・合唱・合同舞踊できるのは、せいぜい三十メートル先の者までであり)、むしろ理論上はDTM上でしか合奏・合唱・合同舞踊できない。もちろん、ワーグナーの楽劇でも同様の問題が起きたが、バイロイト歌劇場の工夫されたオーケストラピット、舞台、観客席の配置により、かなりの部分を、現代のDTMから見ても驚くほど、解決している。

 この曲には、先の巫女たちの演奏と神道的世界観も含まれているが、全体として雄々しい響きに満ちており、その曼荼羅交響世界は、当時の私の中にあったニーチェ的、ワーグナー的、田中智學的、高山樗牛的な男権的美意識が創らせたと言ってよいだろう。ニーチェワーグナーが体力の余った二十・三十代に大著・大作を生み出したのと同様、『刻燈』作曲時の私もまだ二十代で、体力に任せた巨大芸術の創作が可能であったという理由もあるだろう。

 これはこれで、ディオニュソス的総合芸術の体現、巫女たちとの共作交響詩の極致だと自負するものではあり、私の作曲史の重要な一頁、一楽章であるが、とにもかくにも私が作曲した交響楽作品の中で最大規模のものとなった。いわば「強すぎる始原の一者」、「大きすぎる母なるもの」である。

 参加者の途中での離脱は自由であったが、最後まで無理に参加して心身をやや壊した女性 たちもいた。思想的・身体的な耐性のある巫女たちだけが、むしろこの大伽藍を楽しんでいた。私があくまでも作曲者・芸術思想家としてほぼ裏方に徹する中、音大の女性演奏者たちどうしの不穏な空気を修正してくれたのも、巫女たちであった。

 こうして私は、「いくら神道・仏教を基礎としようとも、楽曲・音響規模の巨大化という後期ロマン派音楽の手法、西洋音楽の極限的暴力を用いる限り、女性の精神と身体を破壊する程度のディオニュソス音楽しか生み出せない」という現実を突きつけられたと同時に、それを机上の創作だけで実現した男の哲人としての自分に驚愕したし、落胆もした。しかし一方で、二十代を通じて、ワーグナーリヒャルト・シュトラウスニーチェに私淑しつつ、西洋理論と東洋理論とを融合した、私自身における総合芸術(Gesamtkunst)の試みを、「神道バレエ」、「巫女舞オペラ」、「仏教交響詩」などと称して明確に自覚できるようにもなった。

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図十九《岩崎純一 交響詩『刻燈』の音響ソフト上の仮想空間における楽器配置》 二〇〇七年

 

 

執筆者プロフィール

岩崎純一(いわさき じゅんいち)

1982年生。東京大学教養学部中退。財団事務局長。日大芸術学部非常勤講師。その傍ら共感覚研究、和歌詠進・解読、作曲、人口言語「岩崎式言語体系」開発など(岩崎純一学術研究所)。自身の共感覚、超音波知覚などの特殊知覚が科学者に実験・研究され、自らも知覚と芸術との関係など学際的な講義を行う。著書に『音に色が見える世界』(PHP新書)など。バレエ曲に『夕麗』、『丹頂の舞』。著作物リポジトリ「岩崎純一総合アーカイブ」をスタッフと展開中。

 

ネット版「Д文学通信」編集・発行人:清水正                             発行所:【Д文学研究会】

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動画撮影は2021年9月8日・伊藤景

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「松原寛と日藝百年」展示会の模様を動画でご案内します。

日大芸術学部芸術資料館にて開催中

2021年10月19日~11月12日まで

https://youtu.be/S2Z_fARjQUI松原寛と日藝百年」展示会場動画

https://youtu.be/k2hMvVeYGgs松原寛と日藝百年」日藝百年を物語る発行物
https://youtu.be/Eq7lKBAm-hA松原寛と日藝百年」松原寛先生之像と柳原義達について
https://youtu.be/lbyMw5b4imM松原寛と日藝百年」松原寛の遺稿ノート
https://youtu.be/m8NmsUT32bc松原寛と日藝百年」松原寛の生原稿
https://youtu.be/4VI05JELNTs松原寛と日藝百年」松原寛の著作

 

日本大学芸術学部芸術資料館での「松原寛と日藝百年」の展示会は無事に終了致しました。 

 

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