ネット版「Д文学通信」2号を発行します。岩崎純一氏の松原寛論を連載します。今年は日芸創設100周年の記念すべき年に当たる。創設者松原寛の哲学、思想、芸術観を総合的に検証した論文です。

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ネット版「Д文学通信」2号(通算1432号)           2021年10月22日

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「Д文学通信」   ドストエフスキー&宮沢賢 治:研究情報ミニコミ

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連載 第1回

絶対的一者、総合芸術、総合感覚をめぐる東西・男女の哲人の苦闘

──ニーチェ、松原寛、巫女の対比を中心に──

 

岩崎純一日大芸術学部非常勤講師)

 

 序

 

 私が私淑している過去の偉人は多くいるが、本稿ではその中でも哲学者の、いや、哲人のニーチェと松原寛(日本大学芸術学部の創設者)を主に取り上げたい。この二人を中心としつつ、古今東西の哲人たちが、「絶対者」、「一者」、「真理」、「神」などと呼ばれている至高存在をめぐってどのような哲学、宗教論、芸術論を繰り広げてきたかを、見ていきたいと思う。

 一方で、私はここ十五年ほど、私の故郷である吉備・岡山の在住または出身で、特殊な立場にある巫女や歌道家の子女たちと、「絶対者」、「一者」、「真理」、「神」概念について議論する機会を持っている。これらの女性たちは、主に非神社本庁系・非伊勢神宮系・非神社神道系の神道(いわば多神教である神道のうちの異端派)を女系で継承している。最近は、他の山陽・瀬戸内地方や出雲、九州、四国、兵庫、信州などの巫女もこの議論に加わっている。

 そこで本稿では、これらの女性たち(とその母、祖母、曾祖母)が西洋の哲学概念や神概念にどのように対応し、近現代・戦後日本を生きてきたかにも、並行して触れたいと思う。あるいは、ニーチェや松原寛のような哲人の男たち、同じく男性である私が経験してきた苦闘を、これらの巫女たち(つまりは、神々との交信者、母なる存在、我々男性の源泉としての女性たち)の思想や神々の概念がどう包容・抱擁できるか、その可能性にも迫りたい。

 これらの巫女の多くは、女系の巫女家・社家の出自でありつつ、歌道家出身の子女や歌道の継 承者をも兼ねており、一部に旅館の仲居・女中や舞妓もいる。そのほか、私の作曲した交響詩、協奏曲、幻想曲、巫女舞バレエ音楽などのモデル、弾き手、舞い手、踊り手、女優、バレリーナとなった巫女もいる。巫女としての神事や勤務のない普段は、ごく一般の職に就いている女性もいる。

 そのため、本稿では、私と神道観・歌道観・芸術観を共有しているこれらの神道・歌道・芸術系列の女性たち(巫女家・社家の出自の女性たちから、私の芸術活動への協力女性としての巫女たちまで)を、総称して単に「巫女」と記す。

 それにしても、私という人間の故郷、我が生き方の本拠だと感じている学術研究、原稿執筆にこうして時々戻ってくる機会があることは、幸せである。今回も何枚書いてもよいと言われたが、およそ一年半近くの時間があるということで、いつもより思う存分に書いてみようと思うのである。

 今回も日本大学芸術学部(以下、日芸)文芸学科の清水正先生より執筆依頼を頂いたが、先生は二〇一五年から一六年にかけて、日大病院にご入院中にもかかわらず、一枚四百字×約四百枚の松原寛論を『日藝ライブラリー』No.3の松原寛特集に寄せている。ひとまず、それよりも多めとなることを目標に書くとしたい。改行の数にもよるが、一日四百字としても約四百日で目標に達するから、ちょうどよい具合になるだろう。

 やや愚痴を書いておくと、平日は、大学・学術研究とは無縁の職の雑多な激務(実務、その他の後始末、諸人間関係トラブルの処理)に忙殺されているため、ほとんど有意義な読書や原稿執筆の時間が取れない。時間が取れるときも、あまり集中できない。上からも下からも私に責任が降ってきて、人の代わりに片付ける、謝るという作業を繰り返しているが、慣れてもやはり違和感がある。労働というものは、本来、二・三時間で済む仕事が二・三日かかる事態の発生の繰り返しである。それに、仕事内容は増えることはあっても減ることはないという現実にも、いつも憂鬱になる。帰宅するとぐったりである。

 私はいわゆるパソコンマニアで、パソコンと自分の著作物アーカイブの管理環境を自室に自作・構築し、大きなディスプレイで作業しているのである(全てを仕事と学術研究と著作物の管理に費やしている)。

 ただ、最近ようやくスマートフォンを使い始めたため、今回から通勤・退勤の満員電車内で立ったままスマホで原稿を入力し、これを自宅のパソコンに移動、蓄積させる方法を取り始めた。しかし結局、スマホでやることと言えば、その日の労務で発生した問題の記録ばかりになってしまい、原稿入力は稀にしかできない。

 そうかと言って、そのような日常の労務からの逃亡先である大学の担当授業も、どこまでも突き進み、深めてもよい学術研究や原稿執筆とはやはり異なって、学生の興味に合わせて話をしてしまう。自分の授業と原稿とを少しは関連付けたいものだが、私が授業で話している内容は、私の原稿執筆に一切借用できない。二〇一九年四月の非常勤講師としての初授業から難解な学術色を抑えて話しているつもりが、それでも学生からは「岩崎先生の授業はとても難しい」と言われてしまい、私もこんなご時世に学生の頭を混乱させることが本懐ではないので、より学生に合わせようと気を遣うようになってしまった。(つまり、それだけ今の学生たちとも語り合ってみたいということである。)

 そのため、残された休日ばかりを学術研究や執筆や読書に充てているのである。しかし、毎週巡ってくるその休日とて、心底休んでいる気がしないことも多い。私にとっては、睡眠も学術研究・原稿執筆も「休む(無理をして生きることから全力で逃亡し、元祖の私自身と一体化、憑依する)」ことなのだが、これに集中できる時間は貴重である。

 むしろ、労働から離れて学術や原稿にのめり込んでしまうと、翌週に労働に戻れない気がするので、のめり込まないように注意しているところがある。時々、清水先生が主宰の、同心房で行われている火曜会(日藝文士會)に伺うときなどは、何とか江古田駅に降り立った瞬間に雑務のことは忘れなければと苦心している有様である。

 普段は目上の人々や他社に頭を下げる仕事をしていながら、突如として助教や助手や学生から「岩崎先生」と呼ばれるようになったことについて、まだ私の中では解決が付いていない。一応は大学教師の一人であるという自覚がほとんどない。学校教育法や教育基本法文科省の方針のもとに展開されている日本の学校教育制度の一員に入ったという自覚がない。一方で、学問・芸術の徒であるという自覚だけがある。それに、先生であることを無理に自覚した暁には、私の目指す学問・芸術が衰退を迎えるであろうとも思うのである。

 常々激しい緊張・闘争疲労状態にありながら、実際この通り生きていられるのは、私の特質のようである。それは私自身が、本稿で論じるような、誕生時・幼少期から変わらない元祖「自分」が哲理上で見えている証拠でもあると感じる。私は、いかなる社会的立場にあっても、言うこと書くこと、やること為すことを変えないできたことだけは自負している。

 その根底には、本稿で述べる「始原の存在」についての総合感覚による直観と解釈と思弁の一貫性があると思う。それに、ニーチェや松原寛や知人の巫女たちを思い出し、彼らのほうがよほど真正面から苦難を生き抜いてきた哲人ではないかと私自身に言い聞かせ、何とか生きている。今回も、かなり危うい、面白い心理状態で原稿を書き始めるのであった。

 

一、ニーチェ、松原寛、巫女との邂逅

 

 さて、今挙げた人物たちに私が出会った順序を書けば、まず高校時代の終わりにニーチェに出会い(を初めて読み)、次いで社会人となってから歌道・神道郷土史の研究の過程で巫女たちと出会い(実際に会い、和歌を詠み合ったり神道・宗教・哲学を語り合ったりし)、次いで三十歳を超えてから松原寛に出会った(を初めて読んだ)のである。本稿のタイトルでその順序を前後させてあるのは、本稿における論の展開上の事情からである。

 ニーチェには、誰かから教えてもらったわけでもなく、書店で突然の閃きにより出会った。巫女たちにも、神秘的直観により、神社や神道・和歌関連の文化事業やインターネットでほとんど自分から声を掛けた。つまり、ニーチェと巫女との出会いは、当初から私自らの直接行動が生み出したものと言える。

 一方、松原寛との出会いについては、清水先生および同じく日芸文芸学科のソコロワ山下聖美先生とのご縁に始まるものである。二〇一五年、山下先生を通じて清水先生(当時、日芸図書館長)にお目にかかり、清水先生が松原寛の著書三冊(『現代人の宗教』、『宗教の門』、『生活の哲學』)のコピーを下さり、松原寛論の寄稿をご依頼下さったのであった。私は松原寛を面白いと思い、その他の松原寛の著書も読み、まもなく『日藝ライブラリー』No.3の松原寛特集に寄稿した。従って今回は、松原寛関連の二作目、続編ということになる。

 もっとも山下先生は最初、私がソースコードから文章・内容まで丸々自作し運営していたウェブサイト(芸術、哲学の内容多し)を通じて、私に「一度日芸で、人間の知覚と芸術について講義をお願いしたい」と連絡を下さったのであり、山下先生と清水先生と松原寛との出会いも、私の周到な用意が生じさせたものだという矜恃がないではない。ウェブサイトを制作し公開する最新技能を持っていてよかった、などと我ながら思った次第である。

 しかし、やはりこれらの出会いと交流の多くは先生方、そして松原寛こそが生み出したものであり、深い感謝しかないのである。これが私と日芸創設者・松原寛との縁の由来である。

 いずれにせよ、ニーチェ、松原寛、諸先生方、巫女たちとの出会いの全てが、閃光のごとき邂逅(偶然の出会い)でもあり、運命的必然でもあるわけである。

 ところで、私のことを「知性派ニーチェ」と呼んだのは清水先生である。後述の通り、これは実は評価というより(それもあるかもしれないが)、皮肉も込められた両義性を持つと考えるのである。ともかく私は、二〇一五年以来、日芸でゲスト講師として毎回単発で講義を行ってきたが、二〇一九年度から文芸学科の非常勤講師となった。いわば松原寛芸術学園に正式に入門し、「知性派ニーチェ」として学び、教えることとなったわけである。

 その日芸は、二〇二一年には創設百周年を迎える。今のところ日藝文士會における清水先生の提案にすぎない『松原寛全集』と「松原寛記念館」は、何としてでも実現すべきだろう。私は、この計画に無理矢理参加するつもりである。日芸自身が松原寛の功績をほったらかしにしておいてはいけないだろう。

 一方で、私が出会ってきた巫女たちは、その神道の道統と祭祀上は、今でも「巫(かんなぎ)」、「神の依り代(憑り代、よりしろ)」、「斎(いつき)の巫女」、「斎女(いつきめ)」、「御杖代(みつえしろ)」などと呼ばれている、託宣の担い手である。「審神者(さにわ)」と呼ばれる審判者を兼ねる巫女たちと、その代表の巫女頭(みこがしら)もいる。その中には、自らの神道思想や和歌活動、何より国家・政府や神社本庁系・神社神道系の神道権力への抵抗運動との関連において、ニーチェを好んで読み、ニーチェ並みの背徳主義を自認し、価値転倒を目指している巫女もいる。あえてキリスト教神秘主義や西洋魔術の秘儀を学んでから、吉備や出雲など地方の土着神道に帰ってきた巫女もいる。

 そのため、私は彼女たちと異端哲学・宗教の論議を交わすことが多いのであるが、その中で最近は、あえて松原寛の思想についても触れてみている。それに私は、巫女たちが長らくその神道・歌道を継承する候補者を探していた中、候補者に望む様々な思想、学問、地理、出自上の条件を満たしていたこともあり、巫女たちの一部の家伝、秘伝、秘儀や和歌の書、歌道の継承を東京在住のまま依頼されている立場にもある。

 今現在、私の学術サークル群と先のウェブサイトは、「岩崎純一学術研究所(Iwasaki Junichi Academic Institute、IJAI)」として機能しており、スタッフにはこれらの巫女たちが多い。私がこれまで創作してきた芸術作品の著作権管理なども手伝ってくれている。この研究所は、従来の日本が保有している知の体系の間隙を突いて探究する意で、「知のすきま(Niches of Episteme)」を標榜している。「エピステーメー」とは、フーコーの用語である。

 私の作曲した巫女舞バレエ音楽を舞ったり踊ったりした巫女やバレリーナも、研究所に一部参加している。趣味や仕事として私の学術活動の各分野を手分けして手伝ってくれる代わりに、私が巫女たちの歌会遊びに和歌を詠進したり、私蔵している和歌の貴重書を提供したり、吉備の神道関連家伝を継承・復元し東京で発表したりする役目を担うことになったので、その整理も進行中である。

 和歌の方面では、私は岡山の正宗文庫やノートルダム清心女子大学などが出版した古い歌書を持っているので、それは日芸の授業にも持参して使用するなど、日の目を見ている。岡山のミッション系女子大学・女子高校は、全国的に見ても日本の古典に関する優れた知を蓄積していると思う。私は、岡山の神道の巫女とクリスチャン女性たちの協同を応援している一方、各社家の男性当主や岡山県神社庁の歴史に対する態度には甚だ不満を持っている。

 いずれにせよ、巫女たちと一部のクリスチャン女性やバレリーナ岡山県内の自宅や神社の社務所、巫女神殿で名乗っている「岩崎純一学術研究所 吉備支部」は、いずれ東京の私のところに集約されることになっている。

 ところで、かつて日大(日本法律学校)は、本稿で取り上げる戦前の神道界(国家神道教派神道の双方)と蜜月であった。日大は、学祖の山田顕義らが創設し自ら所長に就任した皇典講究所で講義を行い、その後大学内部に神道講座を開講し、さらに、総長の山岡萬之助や神道家の今泉定助らが同じく大学内に皇道講座を開講し、皇道学院を創設した。松原寛が日芸を創設・拡充した時期を含め、当時の神道界と日大の関係を知る巫女の子孫である巫女たちも、私の身近におり、彼女たちがくれる情報も重宝している。当時の巫女たちは最終的に、日大、國學院、皇學館などを含む神道教育界のいずれからも排除されている。

 そこで、今の機会にニーチェ、松原寛、神道の巫女たち、という対比を「絶対者」、「神」との向き合い方において取り上げるのは、非常に面白いと思った次第である。

もっとも私自身は、東洋哲学、日本精神、「日本的なるもの」、そして「古代吉備的なるもの」の申し子だという自覚がある。だがここでは、いずれかの立場のみの肩を持つわけではなく、ひとまず洋の東西の真ん中に立って、西(ニーチェ)と東(松原寛)を観察したい。そして、哲人男子たちを生み、育て、見守ってきた、大きな母なる存在としての巫女たちの思想を観察し、これらの思想を取りまとめた哲学概念や神概念、総合芸術、総合感覚概念を目指したいと思う。

 ニーチェに影響を受けて生きてきた上、東京で故郷岡山の巫女の思想を受け継ぎ、ここに来て松原寛の創設した芸術の学園たる日芸で教える立場になったとなれば、それぞれの思想を私なりに吟味し継承していきたいと思うのである。

 ところで時々、何を間違えたか、私の総合学術活動全般に憧れたのか、私に入門したいという男子たちがいるが、断っている。私と巫女・歌道子女たちとの間には、それに近い関係が成立しているが、むしろ私のほうがニーチェ日芸、松原寛、清水先生や巫女、歌道子女たちに入門していると捉えているくらいである。巫女たちとの師弟関係は、結果的には有耶無耶のところもある。

 ただし、もし本当に私が弟子をとるならば、これらの巫女をはじめとする限られた女性のみを選ぶと思う。私の思想では、男の弟子は女しかあり得ないと思う。清水先生も、「男は弟子にしない」とよくおっしゃるが、この点はどうやら私も同じ方針のようである。

 現時点でも、私の学術研究所を手伝ってくれているスタッフは、ほぼ全員が女性、しかも巫女や歌道家の子女が多いのである。男だと、どうしても断りたくなる。

 それは私が男として、「知性派ニーチェ」のような鋭い指摘をしてくる男の言動しか信じていない上、そのようなニックネームが付いた意味と、双方の距離感が相互に瞬時に分かってしまった男同士は師弟関係になる必要がないと考えているからかもしれない。あるいは、男が他の男の技芸なり思想に憧れて(嫉妬・羨望して)入門を考えた時点で、その男は生涯何の技芸も思想も持たないで終わるだろうと、私は予想しているからかもしれない。あるいは、私に対して(直接、あるいは霊的至言によって)そのような鋭い指摘をしてきたのは、清水先生やニーチェや松原寛のような数少ない男性(とその亡霊)を除いては、大抵が女性でもあり、私が現代日本の男に絶望していることにも起因していると思う。

 これは、後述したような、森鷗外ら明治の哲人文豪における自我の葛藤問題への、戦後日本の男たちによる無理解・無関心とも関係してくる。この鷗外の自我の葛藤の意味を分からない男ばかりが日本に増えているが、その一方で、意味が分かっている女性が私の周りに何人もいるのが幸いである。

 

  

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図一《ニーチェの肖像写真》Gustav-Adolf Schultze, Naumburg, early September 1882, Nietzsche by Walter Kaufmann, Princeton Paperbacks, Fourth Edition.

図二《松原寛の肖像写真》日本大学の歴史(https://www.nihon-u.ac.jp/history/)、一九三七年頃

図三《古代の巫女を想わせる現今の神子》中山太郎 『日本巫女史』第一篇第五章第一節「巫女の呪術的作法」、一九三〇年以前

 

執筆者プロフィール

岩崎純一(いわさき じゅんいち)

1982年生。東京大学教養学部中退。財団事務局長。日大芸術学部非常勤講師。その傍ら共感覚研究、和歌詠進・解読、作曲、人口言語「岩崎式言語体系」開発など(岩崎純一学術研究所)。自身の共感覚、超音波知覚などの特殊知覚が科学者に実験・研究され、自らも知覚と芸術との関係など学際的な講義を行う。著書に『音に色が見える世界』(PHP新書)など。バレエ曲に『夕麗』、『丹頂の舞』。著作物リポジトリ「岩崎純一総合アーカイブ」をスタッフと展開中。

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ネット版「Д文学通信」編集・発行人:清水正                        発行所:【Д文学研究会】

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撮影・伊藤景

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