ネット版「Д文学通信」28号(通算1458号)岩崎純一「絶対的一者、総合芸術、総合感覚をめぐる東西・男女の哲人の苦闘 ──ニーチェ、松原寛、巫女の対比を中心に──」(連載第23回)

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。

清水正の著作、レポートなどの問い合わせ、「Д文学通信」掲載記事・論文に関する感想などあればわたし宛のメールshimizumasashi20@gmail.comにお送りください。

動画「清水正チャンネル」https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E3%83%81%E3%83%A3%E3%83%B3%E3%83%8D%E3%83%AB

お勧め動画・ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk&t=187s

 

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

ネット版「Д文学通信」28号(通算1458号)           2021年12月03日

───────────────────────────────────────────────────────

「Д文学通信」   ドストエフスキー&宮沢賢 治:研究情報ミニコミ

───────────────────────────────────────────────────────

連載 第23回

絶対的一者、総合芸術、総合感覚をめぐる東西・男女の哲人の苦闘

──ニーチェ、松原寛、巫女の対比を中心に──

 

岩崎純一日大芸術学部非常勤講師)

 

八、始原の一者としての「非ヤマト的なるもの」・「母なるもの」が見えていたかつての法華系新宗教創価学会など)と現在の頽落

吉備の巫女たちの悲壮と共に、浄土信仰の使徒・松原寛の亡霊に問う

 

唯一神教国家神道)の男権主義に対抗した法華系新宗教の悲しき男権主義

 

    現在、浄土教系のうち、吉備・岡山の地が生んだ法然の浄土宗よりも親鸞浄土真宗の勢力が圧倒的に強大であることは火を見るよりも明らかである。現代の教団としての浄土真宗の特徴は、先にも述べておいたが、根本浄土教法然・浄土宗や親鸞の教えと異なり、来世利益(極楽浄土における幸福)のための現世利益(極楽往生したいから現世で利他的であろうとする利己主義)を重視するものである。

 だが、その一方で、近現代の仏教系の大規模新宗教(国政への参加・介入が見られる教団)の多くが法華経日蓮を信奉する教団であって、浄土真宗系の新宗教が少ないことは、決して偶然ではない。創価学会霊友会霊友会系教団(立正佼成会、妙智会教団、佛所護念会教団など)、日本敬神崇祖自修団顕正会国柱会本門佛立宗など、これらは全て法華系新宗教教団である。

 浄土信仰・阿弥陀信仰を持つ政治介入型の新宗教は、日本会議と蜜月の念法眞教など、ごくわずかであり、ほぼ宗教右翼と呼ばれる勢力がそれに当たる。若い浄土真宗の僧侶は、むしろ政治的には中道左派で、超宗旨・超宗派の仏教連合運動を行っている僧侶も、浄土真宗側に多い。それでも、浄土真宗と法華系新宗教との教義上の距離が縮まったわけではない。

 今では、浄土真宗カルト教団とは目されていない。むしろ浄土真宗主流派は、浄土真宗親鸞会など一部の異端を宗派と認めておらず、これには私も同意する。浄土真宗自体が欧州のカトリック系政府から異端視され、特にベルギー政府によって他の新宗教と共に「セクト(カルト)」指定されているとはいえ、現地の「セクト」や「カルト」は   「現在の危険教団」よりは「要監視教団」の意味に近い。今ではむしろ、法華系教団のほうがカルト教団と目される傾向にある。フランスやベルギーも、浄土真宗よりは創価学会霊友会を注視するようになってきている。

 私とて、個人的体験を踏まえてみても、これらの傾向(カルト要素・危険性の有無の判断)そのものは誤っていないと見ている立場である。実際のところ、「ニーチェ信者」の私からすれば、浄土真宗であろうが、日蓮宗法華宗であろうが、その信者のほとんどが、ニーチェの述べるところの弱者道徳によって思考・信仰していると思う。

 当の私自身が、日蓮・法華系新宗教教団からの折伏や、選挙運動期間中の投票要請や、電話勧誘などで多大な迷惑を被ったことがある。申し訳ないが、来てもらっても、どうせ断るばかりである。「私はあらゆる宗教のマニアでありながら、どの宗教にも入信しない哲人ですので」と言って断るようにしている。私の大乗仏教観は、あちこちで何度も書いているが、中観を最終の悟り、唯識を中観に至る思弁の技術、禅(特に曹洞禅)を中観の実践と見るものである。今の法華系教団が入る隙はない。

 むしろ、浄土真宗とその僧侶たちの行動を見ていると、中道左派政党、日教組労働団体、女性人権保護団体、障害者団体、同和問題関連団体などに協力し、昨今の様々な格差・差別問題に取り組んでいる。あからさまに戦前の国家神道軍国主義や戦後の五十五年体制、現在の安倍政権を批判している場合もある。とりわけ、いじめ、虐待、労働差別、貧困などに苦しんでいる人々にとっては、浄土信仰は最後の救いに見えている場合もあると思う。

 私も、「就職氷河期(世代)」、「失われた世代(十年)」、「ロストジェネレーション」、「キレる十七歳」などと言われた世代の真ん中を生きる人間であり、上と下の世代の日本国民たちと違う人生を歩んでいる感覚は常にある。特に私の一九八二年生まれが厭世・反現世主義の飽和世代で、神戸連続児童殺傷事件、西鉄バスジャック事件、岡山金属バット母親殺害事件、秋葉原無差別殺傷事件、栃木県今市市女児殺害事件などの犯人は、いずれも私と同年齢である。この世代こそ、一歩間違えば極楽往生至上主義に陥りかねない悲劇の世代であるとは言えるのだと思う。

 先ほどから見てきたように、法華・日蓮主義系国家主義は、ほとんどがエリート層やカリスマ宗教家から出た思想である。田中智學、高山樗牛西田無学石原莞爾など、皆そうである。

 私にしてみれば、これら全てが、哲学・宗教論の意義ある素材である。私のような自称宗教マニア哲人の視点に立っている者にとっては、ユダヤ教キリスト教イスラム教、浄土真宗日蓮宗天理教、その他世界のあらゆる宗教が、カルト・オカルトの異常宗教であり、かつ健全な宗教である。私は、これら全ての宗教の信徒であると同時に、最も根本的な敵対者である。

 ところで、明治の近代化における宗教行政の視点から見直せば、むしろ法華系教団の原点には、霊能者との結託、先祖供養概念の根本的変革による、浄土真宗イデア論的・非汎神的彼岸信仰や、国家神道唯一神教としてのカルト性への反抗があったことが確認できる。西田無学の思想などは、その典型である。宮沢賢治エスペラントを愛し、地球市民共同体を夢見た一方で、近代国家の欺瞞性に抵抗して国柱会入信を選択したことは、信仰の矛盾ではなく、むしろ論理的帰結である。

 このことは、吉備や出雲の巫女たちにとって、天照大神をも包含する宇宙の始原としての天之御中主神国之常立神との一体化と、国家・天皇勢力による巫女弾圧に対する故郷への土着を基礎とした反抗とが合致していたことと、根本的に同義である。

 「神」の語と概念をめぐるすり替え作業の比較という意味で、ユダヤキリスト教に次いで、神道を先に長々と挙げたが、仏教においても同じことが言えるのである。現在、私見では、仏教を名乗りながら仏教(釈迦牟尼の教え)から最も遠い教えは、浄土真宗の葬式である。この文言を熱心な浄土真宗の僧侶や門徒の方々に言ったら、怒られたことがある。無論、当たり前のことである。しかし、仏教を「ゴータマ・シッダールタ釈迦牟尼仏陀)なる人が思ったこと、感じたことをそのまま受け継ぐ宗教」と定義する限り、現在の浄土真宗が行っている葬式のほとんどは仏教ではないと考える。

 浄土真宗四派(真宗高田派真宗佛光寺派など)の政教分離の主張と大教院脱退は、政府の神仏合同布教策に決定的なダメージを与えた。これは、いずれ国家神道に邁進する政府への抵抗かと思えた。だが実際は、大教院に代わって設置された神道事務局教派神道の母体となっていき、対して、浄土真宗(特に本願寺派)は事実上、政府と共に「神社非宗教論」の理念を設計したのである。浄土真宗側は内心では、神道には仏教のようなまともな教義がないとする軽蔑の意図を持っていたが、これが自然信仰・前宗教的日本神道復古神道)への回帰を口実に国家神道を設計していた政府側の利害と一致したのである。

 これを踏まえれば、浄土真宗の大教院脱退は、むしろ教派神道に入ることになる神道諸教団が有していた自然信仰、汎神・多神の世界観、神儒仏習合思想への牽制であり、イデア論的浄土信仰の大衆化作戦と見ることができる。

 元より、親鸞の思想、さらには師である法然の思想そのものに、ニーチェの批判した大衆道徳的要素があるが、それを言い始めると、日本仏教は仏教ではなくなるのも確かである。ただし、ここでは現代の浄土真宗の「霊魂」の理解方法そのものを問いたい。

私も浄土真宗の葬式に参加しているが、昨今の浄土真宗は、死後の霊魂は生前の個人の記憶(人格性と思い出・追憶のデータベース)を保存したままで転生し、霊魂のステージが上がっていくといずれ解脱して極楽に至ると説明する傾向にある。そのような霊魂を輪廻転生から解脱させて、「より良い」何かではなく「善の」何かを目指す態度そのものが、仏陀の態度とはもはや異なる態度である。

 このような態度に依拠することが善であり功徳であるならば、生きてある間の苦痛(人間存在の実存の苦悩ばかりか、身体に降りかかる外傷、人からの裏切りなどを含む)は可能な限り解決させないまま亡くなり、そのデータを来世に持って行くことを画策・実行できる人間のほうが、極楽浄土に近い人間であることになる。釈迦牟尼原始仏教は、そのような得策を生前に考えることは煩悩・愛着(あいじゃく)だとして批判している。

 先ほど挙げた各事件の例からも分かるように、極端な彼岸信仰は、現世へのテロリズムであるのに、戦後日本人の宗教観は根本的にそのことを分かっていない。私が、戦後日本人は皆、姿形が違うだけの浄土信仰者、誤った親鸞門徒だと思う所以はそこにある。

 それに、霊魂の存在・非在を釈迦牟尼原始仏教が確定したことなどなく、死後に生前の自分の記憶を思い出したり、先祖として子孫を見守るようなことなどは、生者による身勝手な仏の要請・導出にすぎず、存在しないとするのが、本来の仏教である。その点、永劫回帰する生のうちにとどまるほかないと述べたニーチェの覚悟のほうが、原始神道的・原始仏教的態度である。もちろん、ここで私は、多くの浄土真宗の僧侶と門徒と「浄土真宗的」なるものとしての日本国民を、ニーチェの言う強者・君主道徳ではなく、弱者・奴隷道徳の持ち主として論じている。

 とりわけ現代の浄土真宗の説く阿弥陀如来とは、「悟り」ではなく「救い」をもたらす一者であり、とりわけ現代の浄土真宗の葬式は、救済型宗教たるユダヤキリスト教の一派に入るとしか考えられない。イエス・キリストとしての天皇が人間を宣言し、マッカーサーも去り、現人神なき米軍だけが残った今、最終的に日本人は、現世利益と極楽浄土、ひいてはスマートフォンの画面を唯一神と見るようになったとするほうが、辻褄が合う。

 全ての浄土信仰・浄土教系宗教の人間が、現世利益・極楽往生を謳って大衆に金のかかる葬式をさせるカルト宗教者であるかと言えば、それは少なくとも宗祖とされた人物に限って言えば、違うであろう。

 浄土真宗門徒が本当に親鸞を理解したか。それは、天理教の教団設立そのものがシャーマン・中山みきの真意でなかったのと同じである。親鸞が、「私の死後には私を崇める宗旨を創設せよ」と言ったか。自らはただ仏陀の教えを引き受けることに徹した親鸞の姿勢は、吉備の地に生まれた師・法然から受け継いだものである。宇宙の始原としての仏性・仏法のみを信じる法然の信仰を吉備の巫女たちは知っていたがために、巫女禁断令下の一時期、彼女たちは法然の根本浄土教に寝返ろうとしたのである。

 もっとも、浄土信仰の現世利益的・利己的性格は、一向一揆織田信長との激しい争いの根本的原因である百姓根性、もっと言えば、平安末期の末法思想に基づく人々の往生欲求にまで、遡ることができる。一向宗門徒が、自分たち百姓の道徳が守護大名富樫政親を殺して勝ったと誇り、信長に喧嘩を売ったことが、信長の激怒の発端であったし、「我こそは極楽に行ける」という貪欲さは、キリスト教の終末論、カルヴァンの予定説にも比定できる。もしニーチェの亡霊がゾロアスターの地をさらに東へ進み、日本の仏教宗旨を観察したなら、確実に浄土信仰が批判のターゲットになり、奴隷道徳の仲間として認定されたであろう。

 親鸞自身は、自らの新宗旨を打ち立てることに消極的で、生涯師・法然の教えにひざまずき続けたが、その法然は吉備出身である。巫女禁断策が開始されたとき、神道浄土真宗四派(真宗高田派など)が前述の通り、喧嘩しながらも利害が一致していたこともあって、一部の吉備の巫女たちは、巫女祭祀よりも弾圧されていなかった地元の法然・根本浄土教系宗旨への改宗による、表向きの巫女廃業を検討していた。だが、ついにその教えには入らず、教派神道を選択したという経緯がある。

 地元の法然の思想をさえ離れた彼女たちが、浄土真宗主流派(本願寺派大谷派)に入るわけは毛頭なかった。中には、吉備出身の栄西臨済宗への鞍替えを検討した巫女たちがあったが、巫女神事を諦め、あるいはこれを臨済禅に根本的に組み替える悲しき作業がうまく行くはずもなく、頓挫した。

 また、神仏習合思想に目を転じると、本地垂迹説における「本地」の主たる如来大日如来阿弥陀如来薬師如来など)が他の如来・菩薩に対する絶対者(始原の一者)の地位を与えられたことがある。神本仏迹(反本地垂迹)説から見れば、天照大御神国之常立神が同様の地位(従たる仏に対する主たる神)である。

 本地垂迹説側においては、大日如来を絶対化する場合は悟り型・密教型・涅槃型、阿弥陀如来薬師如来を絶対化する場合は救い型・祈願型の体系となる場合が多い。また、神本仏迹説側から見れば、国之常立神を絶対化する場合はいわば古代ギリシャデウスの地位と理解され、天照大神を絶対化する場合は、専ら直系血統とされる天皇の絶対化と理解される。

 ただし、これらの絶対化は元来、無限の相対化と呼べるものであり(西洋の絶対、東洋の相対なる対比が可能であった)、一方で、最後の天照大神の絶対化が近代政府の国策によって極限まで進められたものが、国家神道であったと解釈できる。

 「始原の一者」への東西の対応は明らかに異なってきたが、近代日本の為政者と神道関係者は、天皇を始原の一者にするという対応をしたのであった。国家神道は、いわば究極の神本仏迹説でもあったわけである。

 松原寛などは、本当は東西の「神仏」概念や「絶対者」概念についてそこまで真剣に比較・考察したことはなく、どうしても権勢欲に付帯する形でしかそれらを見ることができなかったため、宇宙の息づかい、始原存在の躍動、天地の生命衝動が、局所的・「箱庭」的な故郷への回帰、ひいては巫女の精神と母胎への回帰に一致することには、気づかなかったのである。

 松原「寛」と同じ「寛」と言えば、五木「寛」之がおり、その仏教観も概ね、原始仏教ではなく、近代以降の親鸞浄土真宗観を中心とするものである。五木寛之は松原寛と違い、むしろ仏典を丁寧に渉猟した結果、法然親鸞蓮如の生き方を選んだ筋金入りの浄土信仰者である。

 五木寛之は一見すると、神仏習合、初詣、葬式、クリスマスなど、諸教のイベント混在の曖昧さを厭わない日本の国民性に活路を見出している点で、超宗教的な始原存在としての「母なるもの」に目を向けているようには見えるが、その宗教道徳・仏教道徳は、真偽、善悪、美醜の混在をどちらかというと嫌うものであって、最初かつ最深の始原には戻っていないと思う。例えば、五木寛之の説く「平和」や「幸福」というものは、近代道徳であって、根本的に世界の「平和」や人間の「幸福」を説いたことなどない釈迦牟尼原始仏教の教えとは異なる。五木寛之の仏教観は、ニーチェや松原寛にとっては全く必要がないと思う。

 先にも述べたように、弾圧・迫害を受けた巫女たちの多くは教派神道に逃げ込んだが、仏教に逃げ込むとすれば、教義上は国体変革を直接主張していた法華系教団であったはずである。しかし実際は、法然の思想・浄土宗を選びかけたくらいで、結局は仏教界への転向は少なかった。

 巫女たちのアニミズムと汎神・多神的世界観が浄土真宗と相容れなかったのは当然としても、法華系教団に転向しなかった最大の理由は、男権主義的思想である。田中智学、高山樗牛西田無学石原莞爾らの日蓮主義・法華経至上主義は、日本主義、国家・国体主義、男権主義と高い親和性を保ったままだった。当時の日蓮主義的国家主義者らの多くがニーチェ主義者であったこともまた、現実である。そして、戦前当時とは比較にならない段階までニーチェの誤読をさらに推し進めてきた勢力が、先に述べた「新しい歴史教科書をつくる会」のニーチェ「愛読者」らであることも、悲しき現実である。

 

執筆者プロフィール

岩崎純一(いわさき じゅんいち)

1982年生。東京大学教養学部中退。財団事務局長。日大芸術学部非常勤講師。その傍ら共感覚研究、和歌詠進・解読、作曲、人口言語「岩崎式言語体系」開発など(岩崎純一学術研究所)。自身の共感覚、超音波知覚などの特殊知覚が科学者に実験・研究され、自らも知覚と芸術との関係など学際的な講義を行う。著書に『音に色が見える世界』(PHP新書)など。バレエ曲に『夕麗』、『丹頂の舞』。著作物リポジトリ「岩崎純一総合アーカイブ」をスタッフと展開中。

 

ネット版「Д文学通信」編集・発行人:清水正                             発行所:【Д文学研究会】

※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。

 

清水正の著作購読希望者は下記をクリックしてください。

https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208

www.youtube.com

動画撮影は2021年9月8日・伊藤景

大学教育人気ブログランキングに参加しています。応援してくださる方は押してください。よろしくお願いします。

清水正・批評の軌跡Web版で「清水正ドストエフスキー論全集」第1巻~11巻までの紹介を見ることができます。下記をクリックしてください。

sites.google.com

 

清水正著『ウラ読みドストエフスキー』を下記クリックで読むことができます。

清水正•批評の軌跡web版 - ウラ読みドストエフスキー

f:id:shimizumasashi:20210907111050j:plain

「松原寛と日藝百年」展示会の模様を動画でご案内します。

日大芸術学部芸術資料館にて開催中

2021年10月19日~11月12日まで

https://youtu.be/S2Z_fARjQUI松原寛と日藝百年」展示会場動画

https://youtu.be/k2hMvVeYGgs松原寛と日藝百年」日藝百年を物語る発行物
https://youtu.be/Eq7lKBAm-hA松原寛と日藝百年」松原寛先生之像と柳原義達について
https://youtu.be/lbyMw5b4imM松原寛と日藝百年」松原寛の遺稿ノート
https://youtu.be/m8NmsUT32bc松原寛と日藝百年」松原寛の生原稿
https://youtu.be/4VI05JELNTs松原寛と日藝百年」松原寛の著作

 

日本大学芸術学部芸術資料館での「松原寛と日藝百年」の展示会は無事に終了致しました。 

 

sites.google.com