ネット版「Д文学通信」を発行することにしました。ネット版「Д文学通信」第1号は当ブログに掲載した番場恭治氏の「小沼文彦氏が校正したドストエフスキー全集」の連載1と2、それに未発表の3回目を加えて一挙掲載することにしました。感想などあればわたし宛のメールshimizumasashi20@gmail.comにお送りください。

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ネット版「Д文学通信」を発行することにしました。

清水正の著作、レポートなどの問い合わせ、「Д文学通信」掲載記事・論文に関する感想などあればわたし宛のメールshimizumasashi20@gmail.comにお送りください。

 

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ネット版「Д文学通信」1号(通算1431号)           2021年10月21日

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「Д文学通信」   ドストエフスキー&宮沢賢 治:研究情報ミニコミ

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  ネット版「Д文学通信」を発行するに当たって。

   清水正(編集発行人)

「Д文学通信」は1991年1月1日に第1号を出し、2017年11月3日に1430号を出して中断しています。わたしの気まぐれの性質のため、「Д文学通信」は4ページ、8ページ、16頁仕立ての時もあったり、288号のときは160頁であったりと形式は自由、発行も一日に20号出すときもあったり、一年に1回の時もあれば0回の時もありと、まさに形式にも時間にもとらわれずに気ままに編集発行してきましたが、それでも約30年の間に総ページ7372を積み上げてきた事実には我ながら驚いています。

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 2016年に日大病院を退院、翌年の2017年に「Д文学通信」を久しぶりに編集発行して「帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー」を17回にわたって連載しました。が、神経痛の影響は大きく、「Д文学通信」はすでに三年半も刊行できずにいます。それで今回、当ブログでネット版「Д文学通信」を編集発刊することにしました。( )内にはペーパー版を引き継いだ号数をいれてあります。ちなみに「Д文学通信」は「デーブンガクツウシン」と読み、「ドストエフスキー文学通信」の意味ですが、このミニコミ通信においてはペーパー版と同様、ドストエフスキーにかぎらず小説、漫画、映画、絵画、芸能などに関するエッセイ、論文なども取り上げることにしたいと思っています。

 ネット版「Д文学通信」第1号は当ブログに掲載した番場恭治氏の「小沼文彦氏が校正したドストエフスキー全集」の連載1と2、それに未発表の3回目を加えて一挙掲載することにしました。感想などあればわたし宛のメールshimizumasashi20@gmail.comにお送りください。随時、ネット版「Д文学通信」に掲載し、誌面を活性化していきたいと思っています。よろしくご協力のほどお願い致します。

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    小沼文彦氏が校正した

    ドストエフスキー全集

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         番場恭治

 

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小沼文彦氏が自ら校正したドストエフスキー全集

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小沼文彦氏(1986年11月14日、江古田「和田屋」にて)

 ロシア文学者の故・小沼文彦氏が自ら校正したドストエフスキー全集(筑摩書房)を、東京・神保町の田村書店で購入した。今年七月中旬、東京五輪パラリンピックが始まる直前の時期のことだ。全集を補う『ドストエフスキー未公刊ノート』とセットで計二十万円もしたので当初買うつもりはなかったが、興味本位で見せてもらった。試しに第六巻『罪と罰』を手に取ると、表紙は手あかで汚れ茶色く、少し臭いもした。ページをめくると、赤や青、緑、黄色の鉛筆を使って、びっしりと校正した跡がある。名前しか知らなかった訳者の息づかいが伝わってくる気がした。田村書店の方から「世界で一セットしかない全集ですよ」と耳打ちされた。ちょうどボーナスの時期だったこともあり、所有していた筑摩書房ドストエフスキー全集を買い取ってもらい、差額を払う形でこの校正本を購入した。

 おそらく再版の際に翻訳の正確さを期すため、あらためて校正をしたのだろう。手書きのメモがはさんであり、登場人物の名前のほか、地名や動物といった特定の単語の翻訳に誤りがないかどうかを調べていたことがわかる。「いきなり」や「不意に」といった似た意味の副詞を黄色く塗ってチェックしていた。既に刊行した全集だったためか、翻訳を大幅にあらためるわけではなく、修正は最小限にとどめたようだ。

 小沼氏は一九一六年つまり大正五年生まれ。もし生きていれば百五歳になっている。在野でロシア文学の研究を続けた自身について詳しく語らないまま八十二歳で死去した。経歴をネットで調べても、ユダヤ人へのビザ発給で知られる杉原千畝の義弟に当たるというようなことがウィキペディアに書いてある程度だ。ただ、残された文献や関係者の証言を総合すると、小沼氏はソ連による収容所での抑留体験、晩年のてんかん発症といったドストエフスキーを彷彿させるような経験もしていた。

 清水正先生は大学生のころ週に一度のペースで小沼氏のもと訪れていた時期がある。今年5月に刊行した『清水正ドストエフスキー論全集11』で「とにかく小沼氏は裏表のある性格で、嫉妬や憎悪の感情も激しく、怒りの発作に襲われると自分でも感情のコントロールができずにしょっちゅう苦しんでいた」と興味深い人物像を紹介している。

 今年はドストエフスキー生誕二百年にあたる。小沼氏が全集の刊行を終えてから三十年でもある。校正本を入手したのをきっかけに、小沼氏の生涯について簡単にまとめてみようという気になった。私自身が通信社で外国語と格闘する仕事をしてきたことも、著名な翻訳者への関心につながっている。小沼氏は若いころ、米川正夫をはじめロシア文学の先達に批判的な文章も雑誌に書いていた。今の時代、同じ分野の研究者に向けた舌鋒鋭い文章を目にすることは滅多にない。日本の学会の問題点を突いている分析でもあり、引用が長くなっても紹介しておきたいと思った。清水先生の論文には小沼氏との交流がたびたび登場するが、若い学生にとって過去の人物になりつつあるのは否めない。詳しい人物像を伝えることにより清水先生の弟子や孫弟子にとって研究の一助になるのではないかとも考えた。

 

【1】東欧で10年ロシア語学ぶ、終戦ソ連に抑留

 

 小沼氏は、自伝のようなものを残さなかったが、五十歳でカトリックの洗礼を受けるまでの生き方を『月刊キリスト』(教文館)に寄せた「『悪霊』に導かれて ドストエフスキーと私と聖書」(一九六七年十一月)で語っている。わずか六ページの文章ではあるが、かなり率直に胸の内を述べているように感じる。その後、亡くなるまでの生き方については、清水正先生が「ロシア文学者・小沼文彦氏との三十年」(『江古田文学41号』、一九九九年十月)をはじめとした論文で取り上げている。これら二つの文章を柱にすれば、小沼氏の生涯をある程度はたどることができる。引用は、断りがないかぎり「『悪霊』に導かれて」からである。

 小沼は「おぬま」ではなく「こぬま」と発音する。一九一六年三月二十一日に双子で生まれ、七カ月の未熟児だったという。ドストエフスキーの没後、三十五年が経過していた。第一次世界大戦のまっただ中であり、この年の五月に夏目漱石が『明暗』の連載を始める。翌年にロシア革命が起きた。埼玉県浦和市(現さいたま市)の出身で、六人兄弟の末っ子だった。秀才ぞろいだったようだが、運動神経抜群の小沼氏は、どちらかというと勉強は不得手であった。

 

 秀才の誉れをほしいままにした兄達とはちがって、学校へ行っても休み時間以外はまったく意気のあがらない劣等生でした。「どこの家庭にもしいなっ児といって出来そこないがいるものだ」と面罵する教師もいれば、「子供の時に脳膜炎でもやったのではないか」と真顔になってきく教師もいましたが、なにを言われても恥ずかしいとも思わず、へらへら笑っていたのですから、先生方もきっと手を焼いたにちがいありません。ところが学科のほうは劣等生ですが、体操では全校のスターで運動会の花形、弁論大会に出れば県下、全関東、全日本とこれまた優勝につぐ優勝なので、先生方も呆れて物が言えない始末です。

 

 慶應義塾大の文学部哲学科で学んだ。専攻は心理学だった。在学中にNHKの試験にも合格し「雑駁な知識だけは誰にも負けない自信がありました」と語っている。兄の小沼十寸穂(ますほ)氏も慶応義塾大で学び、医学部を卒業後に広島大教授を務めた。精神科が専門で、原爆の影響を記録した「小沼ファイル」が最近でも地元の新聞で取り上げられる。小沼氏はこの兄にいろいろなことを相談していたようだ。

 

 いま広島大学の医学部の教授をしている長兄が、そんな(注:体操に熱中している)私の行末を案じて運動などはやめて、もっと勉強するように意見してくれましたが、ちょっとやそっとの意見などで運動がやめられるものではありません。医学博士なんかは掃いて捨てるほどいるけれど、選手権保持者はひとりしかいないんだぞなどと、そのころ若くして学位をもらったばかりの兄にいやみを言う始末ですので手がつけられません

 

 体操に熱中していた小沼氏は突然、ドストエフスキーに目覚める。初めて読んだのは中学三年のころに中村白葉が翻訳したものだった。大学生になってドストエフスキーの作品を読み直した。

 

 三田(注:慶應義塾の所在地)の山の上の体育会ホールの合宿の一室で、教科書以外は本などは一冊も読まない仲間から離れて、二度目に読んだ『罪と罰』と『カラマーゾフ兄弟』が、私にはっとこの先生(注:紅露五郎)のことばと、亡くなった兄のことを思い出させてくれたのです。

 

 この兄は、二十六歳で亡くなった小沼達(いたる)氏である。一九〇三年生まれなので十歳以上も離れている。小沼氏はドストエフスキー全集の翻訳を終えた後、雑誌『ちくま』(一九九一年八月)に掲載したコラム「命なりけり」で「トゥルゲーニェフの薄い文庫本一冊を残して、若くして世を去った兄の遺志を継ぐ決心を固めさせました」とより踏み込んで当時の決意を記している。早稲田大教授だった紅野敏郎氏の「井伏鱒二と小沼達」(『群像37』、一九八二年三月)によると「早稲田の第一高等学院を経て、露文科に進み、のち国文科に転じ」たという。同じ早稲田出身の作家、井伏鱒二と同人雑誌を始め、自ら短編小説を執筆していた。岩波文庫からツルゲーネフの「プウニンとバブリン」の翻訳を出した一九二九年に亡くなっている。

 

 ともかくも通学の電車の中で岩波文庫赤帯(注:外国文学)だけはぜんぶ読んでいた私に、これではいけない、この世には考える世界があるのだ、肉体を使ってサーカスのまねをするのなら猿でもできる、と指摘してくれたのです。いくらかスポーツに疑問を持ち始めたところでしたので、その印象は強烈でした。スポーツの世界ではやるだけのことはやったと感じた私は、思い切ってスポーツを棄て、それまでの生活に終止符を打ちました。その一年後には将来の志望もロシア文学と決まっていました。

 

 小沼氏はロシア語がまったくできなかった。「いまさら学校に入り直してロシア語をやるのも気のきかない話」と思って留学を考えるが、一九三七年に始まった日中戦争の影響が影を落とす。

 

 日支事変は拡大する一方で、普通の手段ではもう外国へは行けなくなってしまいました。しかも当時の情勢では官費でロシア語を勉強させてくれるのは、政府派遣の外務省留学生だけです。一夜漬けの勉強が始まりました。

 それまでそんなものにはまるきり縁のなかった文学部の学生が、これだけは子供の時分から抜群であった記憶力に物を言わせて、国際法やら経済学やら財政学やらを丸暗記して、かつての劣等生もスポーツを棄てたおかげでどうやら試験に合格、昭和十四年の春四月、神戸から欧州航路の客船に乗り込んだときには希望で胸がはちきれ、まさに天にも昇る思いでした。

 こうして欧州にわたった私は、戦争にあえぐ国民の血税によって、十年間にわたってロシア語を勉強させていただけることになったのです。ロシア語だけを勉強していればいいのですからこんないい身分はありません。

 

 二十三歳の小沼氏は欧州に向かう。一九三九年は五月にノモンハン事件、九月にはドイツのポーランド侵攻に続き、英国とフランスによる宣戦布告で第二次世界大戦が始まった。激動の幕開けとなる年だ。

 留学先はバルト三国の一つのラトビアの首都リガだった。かつてロシア帝国の一部だったが、この時代は独立国家であり、ラトビア語だけでなく、ロシア語を話す住民も多かった。白石仁章氏の『諜報の天才杉原千畝』(新潮社、二〇一一年二月)によると「第一次世界大戦後、対ソ情報収集の拠点として、日本が最初に選んだのはラトヴィアだった。ラトヴィアは、バルト三国の真ん中に位置し、戦間期には人口、面積とも最大の国であった」という。

 ユダヤ人へのビザ発給で知られている杉原千畝リトアニア領事館の領事代理となったのは一九三九年だ。小沼もこの年、ラトビアに到着した。同じバルト三国であり、両国の距離は東京と静岡県西部くらいにすぎない。両者ともルーマニア終戦を迎えたが、この当時から交流があったのは容易に想像できる。杉原千畝は早稲田大で英語を学び、外務省に入った後にロシア語を学んだ。情報収集、つまりスパイのような活動もしていた。小沼氏は戦後に書いた随筆などで「留学生」や「通訳官」と名乗っていたが、留学生の身分だけでこれだけ長い期間を海外で過ごすと考えにくい。政府文書の翻訳や、通訳官として日本からの出張者の案内くらいはしていたのだろう。ひょっとしたら情報収集のような仕事にも従事していたのかもしれない。小沼氏は戦後、ドストエフスキー関係の文献を各国から取り寄せていたが、文献の入手に支障が出るのをおそれ、当時の詳しい経歴については口をつぐんでいた可能性があるのではないだろうか。

 小沼氏は当初「ロシア語といえばウォートカとトロイカのふたつの単語ぐらいしか知らなかった」という。「『悪霊』に導かれて」には、ドイツ語で個人レッスンを受けていた様子が描かれている。

 

 まったく馬の耳に念仏の私に、先生はやがてロシア語で授業するのをあきらめてドイツ語で講義をしてくださるようになりました。しかし大学で六年間も習ったとはいえ、こちらにとってはドイツ語だって怪しげなものです。それでも一年もするうちにロシア語にも慣れ、あまり日常生活に不自由を感じなくなったのですからありがたいものです。

 そしてある日、先生があしたからこれを読もうと取り出されたのが『罪と罰』だったのです。

 

 小沼氏はロシア語、ドイツ語、フランス語で『罪と罰』の発音を聞いたときの感激は終生忘れることができないと述べ「そのときの電光のような感激がついに私の一生を決定することになりました」と振り返っている。

 長年取り組んだ体操でのおかげで運動は得意だった。「小柄な私には畸形ともいえる胸囲一メートルの疲れを知らぬ肉体で、ロシア人の生活の中にまったくとけこんで、ロシア古典文学に取り組むようになりました。いくらか余裕ができたせいか、ふらりと近くの体育館に顔を出したのが縁になって胸に日の丸のマークなどをつけて全ラトヴィアの選手権をあっさりいただき新聞種になったのは愉快でした」というエピソードを明かしている。ソ連の侵攻によりラトビアを離れた。留学先はその後、ブルガリアルーマニアへとうつる。

 

 今度はバルカンの日本といわれたブルガリアに転学になりました。ここでの学生生活はまことに楽しいものでした。戦局拡大の一途をたどる戦乱の祖国をよそに、使っても使っても使いきれないほどの学費をいただいて、勉学に専念することができたのですから、まったく身に余る果報と言わなければなりません。

 

 小沼氏はトルストイの『戦争と平和』を三回朗読するという指導により「もはやロシア語は私にとって外国語ではなくなっていました。日本語を使わない何年かの生活がやっと実を結んだわけです」と述べている。指導教授からドストエフスキーも徹底的にたたきこまれ「もうこのときにはドストエフスキー専攻が、一生の仕事として迷わぬ目標になっていました」という。ブルガリア時代に、ロシア文学やことわざに関する著書をロシア語で執筆している。後に移ったルーマニアの様子は『随筆』(産経新聞社、一九五六年九月)に執筆した「洋画のスーパー」で紹介している。

 

 戦争前のルーマニヤ(原文のママ「ヤ」)は、殊にバルカンの小パリといわれるブカレスト(注:原文の「レブカスト」を修正)は、フランス文化全盛の都会でした。コルセットをつけて薄化粧をした将校から、デパートの売子にいたるまでフランス語に万能です。フランス語さえ知っていれば、田舎くさいルーマニヤ語などぜんぜん知らなくても、何不自由なく暮せたものです。ところが戦争が始まって、ルーマニヤは枢軸側に立ち、やがてドイツ軍が進駐してきました。

 するとどうでしょう。昨日までフランス語万能だったブカレストの町は、一夜にしてドイツ語万能の町に変ってしまいました。フランス語などはわずかにサロンの中でぼそぼそと語られるだけです。

 そしてドイツは敗れ去り、東の方から怒濤のような進撃を続けてきたソヴェート軍が、ブカレストの町に泥まみれ姿をあらわしました。そしてブカレストの町は、ルーマニヤは『スターリン万才、赤軍万才!』また一夜にしてロシア語の支配する国となったのです。

 

【2】日本のロシア文学者と距離、30年で個人訳

 

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小沼文彦訳『罪と罰

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小沼文彦氏(左)と江川卓氏(右)1986年11月14日、清水正研究室に於いて

 

 小沼氏はソ連軍侵入による自宅軟禁、さらに抑留を体験する。シベリア抑留を特集した『文芸春秋』(一九八二年九月増刊号)で抑留体験について語った「ドイツ人の豪胆さ」には「ルーマニア終戦になり、そこで収容所に入りました」と語り「私は正式にいえばルーマニア政府によってソ連の管理する収容所に抑留されたことになります」と説明している。小沼氏は二十九歳から二年にわたり収容所などでの生活を体験した。ドストエフスキーは二十八歳から四年にわたりシベリアで刑に服したので、偶然とはいえ、二人とも三十歳を挟んだ時期に極寒の地で厳しい体験をしたことになる。

 後に小沼氏は、抑留体験を清水先生に面白おかしく語っている。収集した膨大なドストエフスキーに関する文献全てを没収されてしまったことや、移送列車の暖房で使うため枕木を盗んだエピソードだ。ただ、実際は精神的にかなりの緊張状態に置かれた時期もあった。手錠をかけられたこともあるという。戦前はスポーツマンで弁舌爽やかだった慶応ボーイが、こうした過酷な体験がきっかけとなり、嫉妬や憎悪で苦しむ人間へと変わったのではないかとも想像している。当時の胸の内を語った部分を「『悪霊』に導かれて」から引用する。

 

 約二年間にわたる自由を奪われた生活は、それまでで最も恵まれた読書と内省の機会を与えてくれました。私の血となり肉となったドストエフスキー観が生まれてきたのです。金と暇にまかせて買い集めた本の山の中で、すべてを忘れて読書に没頭できたことは感謝のほかはありません。収容所の鉄条網の中で読んだドストエフスキー、特にその『死の家の記録』の印象はまさに強烈なものでした。疑心暗鬼の不安の中で、いつ銃殺されるか、いつ無期限強制労働のラーゲリ送りになるかと、いまから考えると滑稽な妄想に悩まされながら読んだドストエフスキーは、はじめて私に神の問題を考えさせてくれたのです。

 

 小沼氏は『死の家の記録』について、筑摩書房の『ドストエフスキー全集』の第四巻のあとがきで「この記録小説は、見方によればドストエフスキーの最高傑作と言えないこともない」と高く評価している。収容体験などについてやや感情的に語っており、ドストエフスキーが死刑を執行直前に免じられたことに触れ「いかなる強靱な神経の持主でも、平静な気持ちでこれを耐え忍び、皇帝の仁慈に素直に感謝する気分になったとは思われない」と指摘した。さらに「こうした極限状況(注:処刑の場)にあってすらも神を見出そうとしなかった彼が、四年間の『死の家』の生活によって、ついに神を発見した事実は決して軽く見過ごしてはならないものであろう」と語っている。

 ドストエフスキーは四年にわたるシベリアでの懲役に続き、四年の兵卒勤務を経験する。『死の家の記録』のあとがきでは「無期限兵役という義務が心に重くのしかかってはいたが、イルトゥイシ河に沿って数百キロの護送の旅は、ドストエフスキーにとっては楽しいものであった。完全な自由にはまだほど遠いものではあったけれども、彼は五年ぶりにしみじみと自由の味を噛みしめたに相違いない」と指摘している。一方で自身の移送について「『悪霊』に導かれて」で「十年にわたる留学生活の最後のしめくくりは、六ヵ月をついやしたオデッサ(現在はウクライナの都市)からウラジオまでの護送旅行でした」として振り返っている。わざわざ「旅行」という表現を使ったのは、ドストエフスキーと自身の体験の類似性を強く意識したためではないだろうか。

 

 零下五十五度の酷寒もすこしも苦にはならず、係官をうまくごまかして持ちこんだ三巻の書簡集を唯一の伴侶として、赤軍兵士に護送される身を、シベリアへ流刑される偉大な作家の身の上になぞらえて、幼稚な感傷にひたる余裕もありました。

 

 ソ連による収容生活を終えた小沼氏は一九四七年に帰国し、ドストエフスキー研究で生きていく決意をあらたにする。

 

 荒廃の祖国にたどりついた私は迷うことなく現在の仕事に足がかりを求め、鍛え上げられた健康な身体をもとでに、初志を曲げることなくドストエフスキー研究に全力を注ぐことになりました。

 

 しかし、翻訳のスタートはドストエフスキーではなかった。小沼氏は帰国した一九四七年十二月に世界文学社からガルシンの『四日間』を出した。この本の末尾にロシア文学者の原久一郎が「小沼文彦君を推す」という文を寄せている。早稲田大で教鞭をとっていたときに教えたのが、夭折した小沼氏の兄、達氏だったという。清水先生は『ドストエフスキー論全集11』で、小沼氏が戦後ロシア語の仕事の相談のため訪れた原久一郎から出戻り娘との再婚を勧められたエピソードを紹介している。推薦文にはこうした背景もあったのかもしれない。

 小沼氏は、あるロシア文学の大家から「この作品は私がすでに訳してあるのだから、新しく訳す必要はない」と言われたエピソードを清水先生に明らかにしている。ドストエフスキーの作品を翻訳したくても、できなかった時期があったのだろう。ドストエフスキーの作品を初めて翻訳して出版したのは、一九五〇年十月に三笠書房から出した『虐げられた人々』とみられる。翌一九五一年五月に新潮文庫で『白痴』を刊行したのに続き、岩波文庫で一九五四年一月に『二重人格』を出した。三笠書房から一九五七年四月に『罪と罰』、翌一九五八年三月に『カラマーゾフ兄弟』を出版したが、いずれも抄訳だった。

 小沼氏は、日本におけるロシア文学研究や翻訳のレベルの低さを嘆いていた。ドストエフスキートルストイは戦前から広く読まれていたものの、ロシア語を本格的に学ぶ人は少なかった。二葉亭四迷米川正夫、中村白葉、原久一郎といった、現在の東京外国語大でロシア語を学んだ人たちの努力によりロシア文学の裾野は少しずつ広がったものの、語学力が抜群の小沼氏からみれば、あまりにもお粗末な水準だったのだろう。日本出版協会の『書評』(一九四九年六月)に掲載した小論「ロシア文学憎まれ帖」で日本におけるドストエフスキーの翻訳を厳しく批判している。原文の旧仮名遣いをあらため、続けて引用する。

 

 従来のロシア文学者が安閑としてああした無責任な翻訳をつづけて来られたのも、ロシア語が人の多く知らない語学だというお蔭なのである。ロシア語がせめてドイツ語、フランス語程度に普及していて、日本にももう少しロシア語の読める人が沢山出ていたら、到底いつまでもあんな泰平の夢を食っていられたわけのものではない。

 

 だから比較的忠実に、原文の文字を辿って固いけれども日本文になおした翻訳よりも、分からないところは二行でも三行でもとばして、コンマもピリオドも完全に無視して、ただずらずらと訳し終わったものの方が、一応日本文になっているという理由でこの国では名訳ということになるのである。

 

 同じくドストエフスキーの全訳に取り組んだ、米川正夫の翻訳も「ロシア文学憎まれ帖」で厳しく批判している。「ずらずらっと頭も終わりもない比較的読み易い日本文になっている、所謂こなれた日本文になっているという点を除けば、この翻訳は、誤訳、曲解、脱漏至らざるはなき無責任極まるものではないか」と指摘している。この文章を掲載した日本出版協会の『書評』をどれくらいのロシア文学関係者が読んだのだろう。半年後の一九五〇年の正月ごろ、小沼氏に金沢大で勤務する話が持ち上がった。東京におけるロシア文学研究の世界で生きていくのに嫌気がさしたか、気まずくなったのではないかと勘ぐってしまう。

 小沼氏は『ドストエフスキーの顔』(筑摩書房一九八二年三月)所収の「翻訳五十年」で「わたくし個人の考え方によれば、新訳はいくらたくさん出ても結構だと思います。長老のX氏のように、この全集は自分のだけがあればそれで十分だ、などと言うつもりはさらにありません」と閉鎖的な日本のロシア文学研究の世界を批判している。一九六八年八月の文章なので、自身によるドストエフスキー全集の刊行が始まった後に執筆したことになる。米川正夫の姿勢を批判しているとも考えられるが、戦後にロシア文学の大家から伝えられた言葉を思い出していたのだろうか。

 三十五歳の小沼氏は、金沢大講師として一九五一年五月に赴任する。北陸に行ったことはなく、現地の様子を知るため石川県で発行されている北國新聞を一年以上も前から取り寄せて読んだという。金沢大は、作家の井上靖らが学んだ旧制の第四高等学校が前身で、当時は城跡にキャンパスがある珍しい大学だった。小沼氏は赴任後に地元の雑誌「北国文化」(一九五一年十月号)に「金沢は文化の谷間か」という随筆を寄せ「金沢は予想に違わず私に大変はよいところのように思われます。不愉快なこともまだあまりぶつかりません。第一街がきれいです。東京のように街に紙くずがおちていません。砂ぼこりもたたないようです。これには全くほっといたしました」と述べている。「これからの半生を送るのに申分あるまいと喜び勇んで赴任してまいりました」とも述べており、当初この地に骨を埋める覚悟もあったようだ。一九五三年には金沢の放送局での連続講演をまとめた「新語の周囲」(大和出版社)を出版するなどしたが、その後、中央大講師に転じている。

 四十五歳から筑摩書房ドストエフスキー全集に取り組んだ。一九六二年十月に刊行が始まり、第一回の配本は『未成年』だった。同じ時期に雑誌『文芸春秋』(一九六二年十二月)に寄せたコラム「犬とは何であるか」で、わかりやすい日本語を心がけたことを次のように説明している。

 

 翻訳を業とするようになってからも、自分で読んでわからない、また他人が読んでわからない訳文だけは絶対に書くまいという翻訳態度が生まれました。

 ドストエフスキーは難解と言われています。たしかにある意味では難解かも知れませんが、ロシヤ語で読めばとにかくわかるのに、日本語で読むとますます難解であるというのは、これは日本語の表現の問題ではないでしょうか。

 

 翻訳した日本語が読者にいつまで受け入れられるかについても語っている。『学鐙』(一九七五年一月)に掲載した「初期のドストエフスキー全集」で「五十年以上の寿命は望めないのであり、それが翻訳の、そして翻訳者の悲しい宿命なのであろう」と述べている。それでも「評論家にも、作家にもなれない、学者にもなれない、その才能のない一介の翻訳者にすぎない、ドストエフスキーの翻訳者であることに最高の満足を感じ、生き甲斐を覚えている」との考えを「『悪霊』に導かれて」の中で明らかにしている。

 

 ドストエフスキー全集は一九九一年に全巻の刊行を終えた。小沼氏は三十年にわたる翻訳作業により七十五歳になっていた。第八巻の『悪霊』のように翻訳がなかなか進ます、刊行が計画より大きく遅れたケースもあったようだ。『悪霊』の月報にある「編集室より」では「何分にも二千五百枚を超える大作であるうえ、〝訳注・あとがき〟からも汲みとれるような翻訳上の苦心、また訳者の一身上の事情などもあって、当初予想したよりもはるかに多くの期日を要し、今日に至ってしまいました」と説明している。

 清水先生は、小沼氏の夫人から聞いた当時のエピソードを「ロシア文学者・小沼文彦氏との三十年」で紹介している。「一身上の事情」とはこうした生活のことを指すのだろうか。

 

 ある日、夜遅く奥様から電話があった。何事かと思えば、小沼氏が家出をして帰ってこないという。何か気にくわないことがあったり、嫉妬の感情に襲われるとこういうことになるらしい。わたしはどうすることもできず、またそういうごく身内の話をされる奥様がふしぎでもあった。が、奥様が語ってくれた小沼氏の様々なエピソードはとにかく面白かった。

「夜中に突然私を起こして『悪霊』の話をされるの。スタヴローギンとかキリーロフの話を。神があるとかないとか……いきなり質問しておいて答えないものなら怒る怒る……前の奥さんなんかこの人が殺したようなもんです」

『悪霊』を訳している時がもっともひどかったそうで、奥様もだいぶ神経を傷めたようである。翻訳という仕事は人物が憑依しやすい状態を作るのかもしれない。

 

 筑摩書房の『ちくま』(一九九一年八月)に掲載した「命なりけり」で翻訳を終えた瞬間の気持ちを次のように振り返った。

 

『「未成年」創作ノート』の最後のセンテンスを書き終えペンを擱いたときには、不覚にもしばらく涙の落ちるのを禁じえませんでした。

 よくまあ無事に生き永らえて、途中で投げ出すこともなくここまでやって来られたものだというのが、いつわらぬ実感でした。

 

 実は、筑摩書房は一九七八年に一度、経営破たんしている。全集の発刊を続けられるかどうか危うかった時期もあったようだ。小沼氏は「さらに倒産というまったく予期しない事態に見舞われたにもかかわらず、そのままずっと仕事をつづけさせ、つねに支援してくださった筑摩書房の厚意には、それこそ感謝の言葉を知りません」と「命なりけり」に書いている。後半生をかけた翻訳作業だったが、ドストエフスキーだけでなく、この間にトルストイらの作品の翻訳も出版している。翻訳における気分転換が目的だったのだろうか、それとも経済的な事情があったのだろうか。

 

【3】嫉妬と憎悪に苦しんだ私生活、キリスト教洗礼

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清水正(左)と小沼文彦氏(右)日本大学芸術学部文芸学科研究室にて

 

 小沼氏のキリスト教との関わり、日本ドストエフスキー資料センター設立、清水先生との出会い、といった翻訳以外の活動について紹介する。清水先生による証言が柱になる。自らが語らなかった姿、つまり、嫉妬と怒りをコントロールできずに苦しむ様子が明らかになる。

 小沼氏はドストエフスキー全集の刊行が始まった後しばらくして、五十歳で洗礼を受けた。やや長くなるが「『悪霊』に導かれて」から続けて引用する。タイトルの通り、『悪霊』の翻訳で精神的に苦しんだのが洗礼の決め手になったようだ。

 

 お茶の水の高等師範を出てから間もなくこの世を去った、クリスチャンであった長姉に連れられて、子供のころから教会に通いなれた私は、中学に入ってからは当時の軍国主義の影響もあって、教会へ通うのはやめましたが、聖書だけはいつもはなしたことがなく、聖書の物語りには精通していました。留学時代には学友にさそわれるままにギリシャ正教の教会にもかかさず通いつめましたが、自分からその中へ飛びこんで受洗しようという気にはついになりませんでした。しかしいまから思えば、神だけはやはり信じていたのです。そして生意気にも、聖書を読み、キリスト教の精神にのっとった生活をし、なによりもまず神さえ信じていれば洗礼などは受けなくてもいいのだと、かたくなに思いこんでいました。

 

 日本に帰って、特にドストエフスキーの個人訳に取りかかってから教会遍歴がはじまりましたが、どの教会も私の心をなごませてはくれませんでした。

 

 翻訳の仕事が『罪と罰』から『カラマーゾフ兄弟』に進み、さらに『悪霊』に取り組むようになったとき、私ははじめて自分の誤りに気がついて極度の絶望にかられるようになりました。自我のかたまりである自分にはこのままでは救いがないことがはっきりとわかったのです。

 

「今度会うときには、君はきっと神を信じているでしょうよ」というスタヴローギンのことばほど私の胸をぐさりと刺したものはありませんでした。

 このへんのことは悪霊論としてもっと詳細に論じなければならないのですが、とにかく私はそれまで漠然としていだいていた神への信仰を、ドストエフスキーを信頼することによって、つまりドストエフスキーを心の牧師として身につけようと覚悟を決めました。

 ちょうどそんなとき八十年の光栄ある伝統をもった静岡英和が短大を創設することになり、私もその教員の一員に加わることになりました。これだ、この機会をおいては私は一生救われないぞという霊感に打たれた私に、「ためらわずに行け!」とういドストエフスキーの声がはっきりと聞こえました。

 

 小沼氏は、キリスト教系の静岡英和の短大創設に関わっていた。一九六六年十二月十七日に、創設間もない静岡英和の学院教会の仮礼拝堂で洗礼を受けた。

 

 五十歳になって入信した私に奇異の目をみはり、よくまあその年で決心がつきましたねと珍しい現象のようにたずねる人もおりますが、私にとってはそれは奇異なことでもなんでもないのです。ただ四十年来の生活にひとつのけじめをつけただけの話なのです。傍観者の立場を棄てただけのことなのです。

 

 この短大は、静岡メソジスト教会の牧師らが設立した学校がルーツという。小沼氏は「『悪霊』に導かれて」の原文の一部を削除したうえで前出の『ドストエフスキーの顔』に収容している。付記として「その数年後に私はカトリックに改宗しました」「稿を改めてまた語るときもあろうかと思います」と述べている。

 小沼氏は一九七〇年に東京・渋谷に日本ドストエフスキー協会資料センターを設立した。ロシアを専門とするナウカの雑誌『窓』(一九七二年七月)に掲載した「まぼろしの名著」というコラムで当時の様子を説明している。

 

 おこがましくもドストエフスキーの「資料センター」なるものを開いてから、早くも一年八カ月になります。その間、一日の休みもなく、日曜日を返上して、延べ一千人に及ぶ来館者の方々のお相手をしたわけですから、われながらよくからだがつづいたと思います。

 最初はそれも気分の転換に役立ち、いいレクリエイションになるなどと、のほほんと構えておりましたが、このごろはさすがに重荷になってきました。そのつもりで覚悟を決めてやりはじめたことですから、いまさら弱音を吐くのはなんともだらしないのですが、六日間みっちりと働き、日曜日は夜半までセンターに詰めきり、さらに毎月八ページの月報をひとりで発行するとなると、これはなかなかの大仕事です。

 

 清水先生と小沼氏の交流があったのもこの頃だ。清水先生が詳しく書き残したおかげで、小沼氏が洗礼を受けた後の暮らしだけでなく、複雑な性格について具体的に知ることができる。

 五十台半ばの小沼氏と大学生の清水先生が初めて会ったのは、一九七〇年に都内で開かれた「ドストエーフスキの会」第一回総会の場だった。自費出版した「ドストエフスキー体験」(清山書房・一九七〇年一月)を小沼氏が二冊購入したという。その後、清水先生は約一年にわたり毎週日曜日に小沼氏のマンションを訪れ、ドストエフスキーとの出会いや翻訳について話を聞く関係になる。清水先生の「ロシア文学者・小沼文彦氏との三十年」から続けて引用する。

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ドストエフスキー曼陀羅』別冊鼎談ドストエフスキー(2008年1月)に掲載

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編集発行人:清水正 発行所:日芸文芸学科「雑誌研究」編集室 2008年1月20日発行

 二度目に小沼氏にお目にかかったのは渋谷のマンションにおいてであった。小沼氏は渋谷のマンション一室を借り切って「日本ドストエフスキー協会資料センター」(注:住所の説明略)を開設しておられた。紹介してくださったのは、近藤承神子さんである。(注:近藤氏の紹介略)ドアの上に「日本ドストエフスキー協会資料センター」の看板が眩しく光っていた。近藤さんと私は小沼夫妻に迎えられ、部屋の中へと足を踏み入れた。部屋の四方の壁はガラス付きの書棚になっていて世界各国のドストエフスキー全集や研究書が整然と並んでいた。

 

 清水先生を出迎えたのは、小沼氏の二番目の妻、勝子さんだ。英語の下訳の仕事がないかどうかを尋ねるため訪れた勝子さんに、小沼氏がプロポーズしたという。かなり年齢差があり、二人の間に子供はなかったという。最初の妻は戦後しばらくして亡くなったとみられる。最初の妻との間にいた娘は清水先生と同い年だったが、ずっと会っていないという。

 

 小沼氏は大学四年になったわたしに熱心に大学院進学を勧めた。「経済的に問題があるなら、あなたを日本ドストエフスキー協会の会員として給料も払いましょう」とまで仰って下さった。その日、小沼夫妻は自宅に帰り、わたしは一人、資料センターに泊まることになった。一度はベッドにもぐりこんで寝ようとしたのだが、どうも頭が異様に冴えて眠るどころではない。部屋中に小沼氏の神経の網の目が張りめぐらされているようでなんとも居心地が悪い。小沼氏は純粋にわたしの将来を考えて大学院進学の話をされたのかも知れないが、わたしはガラス付の書棚に入れられて外から鍵をかけられるような感じに襲われた。小沼氏の優しい微笑は時に悪魔の微笑のように感じられる時もあり、なかなか素直に氏の言葉を受け入れることはできなかった。結局、小沼氏の話にわたしは乗らなかった。まあ、こんなこともあって小沼氏との関係も気まずいものとなり、資料センターへの足も自然と遠のくことになった。

 

 小沼氏は、資料センターを訪れた人たちと口論になることもあったようだ。清水先生が目撃したエピソードは、洗礼を受けながらも激高しやすい性格をあらためられずに苦しんでいる様子がわかる。

 

 小沼氏はわたしの前ではいつも微笑を絶やさなかったが、なかなか気難しいところもあった。人の好き嫌いも激しく、いちおうそれなりに我慢はしていても、我慢しきれなくなると爆発するといったような性格であった。その激しい性格で人間関係がうまくいかなることも多々あったようである。ある日、小沼氏は自分の部屋に入ったきり一向に顔をださない。そんなことはわたしにとって初めての経験であった。小沼氏はわたしたちがお邪魔すると必ず玄関で迎え入れてくれたからである。心配してさりげなく部屋をのぞくと小沼氏は顔を真っ赤にして怒りを精一杯押さえている。わたしがなんでもない風を装って「先生、こんにちは。お仕事いそがしいんですか」と声をかけた。それからしばらくして小沼氏がみんなの前に姿を現し、「あのとき清水さんに声かけてもらってほんと助かりました」と言う。感情が高ぶると自分でも制御できずに苦しむことが多々あったらしい。

 

 清水先生は今年七月刊行の『江古田文学107号』に寄せた「ソーニャの部屋 リザヴェータを巡って」で、小沼氏の求めに応じ『罪と罰』に関する原稿を執筆して渡したものの、小沼氏がその分析を自著の解説で使ってしまったことを明らかにしている。これも小沼氏の一面なのだろう。清水先生は一年ほどで、小沼氏のもとに出入りするのをやめた。

 清水先生はその後、ロシア文学者の江川卓氏を交えた鼎談を企画したため、七十代になっていた小沼氏に久しぶりに連絡を取った。『江古田文学12号』(一九八七年五月)の「鼎談・ドストエフスキーの現在」を読むと、小沼氏が江川氏に対しトゲのある言葉を発するなど緊張感ある雰囲気で鼎談が始まったのがわかる。鼎談の背景を説明するため『清水正ドストエフスキー論全集11』にある「ドストエフスキー放浪記」から続けて引用する。

 

 アルコールがほどよくまわるにつれ、六畳ほどの部屋は熱気に包まれた。筑摩書房から個人訳ドストエフスキー全集を刊行し、世界的にも知名度の高かった小沼文彦、『罪と罰』の謎ときでドストエフスキー愛好者の注目を集めていた江川卓、この二人が心を開いてドストエフスキーを語るのは実はこの席が初めてであった。

 

 座談の席で、小沼文彦がトルストイドストエフスキーが生前一度も会わなかった話を持ち出したのは、江川卓を意識していたからである。二人ともドストエフスキー研究に対する自負があって、この日までお互いに声をかけあうこともなかった。

 

 わたしは小沼文彦の発する言葉に小悪魔的なおふざけ(わたしは〈小股すくい〉と名付けていた)があることを常々感じていた。片方の手でほめながら、同時にもう一方の手は足をすくうように動いている。

 

 清水先生が小沼氏と直接会ったのはこれが最後になった。電話や葉書のやり取りは続き、てんかんを発症した小沼氏と電話で次のような会話をした。高齢になってから、てんかんを発症するのは珍しいことではないようだ。「ロシア文学者・小沼文彦氏との三十年」から引用する。

 

 いやあ、これは清水さんですから言いますが、実は私、ついにてんかんになりましてね。散歩の途中で倒れましてね、血まみれになって帰ったんですが、医者をしている兄に見てもらいましたらてんかんだって言うんですよ。私もドストエフスキーを長年、研究してきてようやくてんかんになりました……」こんなに嬉しそうに自分の病気について語る人も珍しい、というかいないであろう。わたしは変な気持ちになって小沼氏の言葉を聞いていた。ライフワークにしたドストエフスキーと同じ病気になったことがこれほど嬉しいとは。

 

 てんかんに関しては、全集を訳し終えた後の随筆「命なりけり」で「昨年は、あやかるに事欠いて老年に及んで、ドストエフスキーと同病であるという診断を受け、その奇縁に驚くとともに、これで私のドストエフスキーもいよいよ本物に近づいてきたのかななどと、ひとりほくそえんだりしています」と公表もしている。

 

 昭和から平成に年号がかわるころ、小沼氏は岩手県盛岡市に転居した。ドストエフスキー全集の翻訳は終盤、この地で取り組んだことになる。清水先生への転居通知には、盛岡出身の石川啄木のことが記されており、転居先は啄木との関係で選んだことを示唆している。次に紹介する転居通知は「ロシア文学者・小沼文彦氏との三十年」からの引用だ。

 

 すっかり秋めいてきましたがお元気のことと存じます。このたびは大著をお送りいただき、ここ何年かの精力的活動に謹んで敬服の意を表します。ところでお礼のご挨拶が遅れたいへん失礼いたしましたが、実は今般急に表記の地に移転することになり、引っ越しの大騒動で心ならずも後回しになってしまいました。お赦しください。みちのくをついの棲家と定め啄木の渋民村に設けた仕事場で、やり残した仕事をつづけるつもりです。ご健康を祈りあげます。

平成二年九月十日

 

 小沼氏が亡くなった際の新聞記事をもとに自宅を調べると「盛岡市湯沢南二の一〇の一六」となっていた。啄木の出身地は旧渋民村だが、小沼氏が転居した場所からは離れているようだ。

 小沼氏は一九九七年七月、ドストエフスキー全集の補巻となる『ドストエフスキー未公刊ノート』を筑摩書房から刊行した。その翌年、一九九八年十一月三十日に死去する。喪主は、妻の勝子さんだった。

 清水先生は死の翌年、『江古田文学41号』に「ロシア文学者・小沼文彦氏との三十年」同42号(一九九九年十一月)に「幻の雑誌『露西亜文學研究』と米川正夫訳『青年』をめぐって 文献収集家としての小沼文彦氏の或る一面」を掲載した。後者では、小沼氏が所有していた蔵書が極めて貴重だったことを指摘している。

 

 小沼文彦氏はドストエフスキー文献の収集家としても知られていた。何しろ全世界のドストエフスキー文献を収集しようというのだから中途半端ではない。日本の文献に関してもドストエフスキーに関する評論やエッセイが掲載されていれば同人雑誌やパンフレットの類にまで及んでいる。もうこれはほとんど病気みたいなものである。ご本人もよくそのことを自覚されていて「いっそのこと、みんな燃やしたいという気持ちになることもあります」と口に出すこともあった。

 

 小沼氏は生前、蔵書の一部を上智大に寄贈した。上智大図書館によると、一九九〇年から一九九四年にかけて和書九十五冊、洋書一千二百六冊の計一千三百一冊を受け入れたという。上智大の担当者は「当時対応した職員が残ったため臆測に過ぎないのですが、少なくとも当館での受け入れ記録が一九九四年より前となりますので、小沼氏がご存命の間にご意志によってご寄贈いただいたものと思われます。小沼氏がカトリックの信者だったことと、本学がイエズス会が設立した大学であること、本学にロシア語学科があることから、選んでいただいたのではないかと思われます」と述べた。

 小沼氏が亡くなった後、神保町の田村書店が約八百冊を引き取った。田村書店の奥平晃一(おくだいら・こういち)氏が親しく付き合っていた。小沼氏について「気難しい方だったが、わざわざベッドから降りてきて、熱心に話しているのを見た奥さんが驚いていた」と振り返った。田村書店は小沼氏の死後、蔵書を少しずつ店頭に売りに出し、最後まで残っていたのが、私が購入した全集の校正本だった。店の方によると「倉庫にしまったまま売り出すタイミングを待っていた。コロナ禍により在宅の人が増え、ドストエフスキーが静かなブームになっていたので販売すると決めた」ということらしい。(了)

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小沼文彦氏(左)と清水正(右)1986年11月14日 江古田「和田屋」にて

著者プロフィール

番場恭治(ばんば・きょうじ)一九六七年石川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。共同通信社の経済部、中国特派員などを経て、現在はアジア経済ニュースを配信するグループ会社NNAに編集委員として出向中。ノーベル文学賞を受賞した莫言氏への北京でのインタビューなど中国における取材をもとにした新聞連載をまとめた共著『中国に生きる 興竜の実像』(株式会社共同通信社、二〇〇七年六月)がある。

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ネット版「Д文学通信」編集・発行人:清水正                          発行所:【Д文学研究会】

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