番場恭治『ドストエフスキー全集』を刊行した小沼文彦 ネット版「Д文学通信」42号(通算1472号) 

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お勧め動画・ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk&t=187s

 

今回の番場恭治氏の「『ドストエフスキー全集』を刊行した小沼文彦」ネット版「Д文学通信」1号7号25号に掲載した論考の増補改訂版である。

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ネット版「Д文学通信」42号(通算1472号)           2022年03月08日

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「Д文学通信」   ドストエフスキー&宮沢賢 治:研究情報ミニコミ

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ドストエフスキー全集』を刊行した小沼文彦

抑留体験、嫉妬と憎悪で苦しんだ在野の翻訳家

番場恭治

 

 清水正氏の論文には、筑摩書房版『ドストエフスキー全集』を翻訳した小沼文彦氏がたびたび登場する。清水氏は日本大の学生だったころ小沼氏のもとを毎週のように訪れる時期があり、その後もロシア文学者の江川卓氏を交えた鼎談を開催するなど、長年にわたって交流が続いたためだ。

 2022年は筑摩書房の全集刊行が始まって60年の節目だが、今では訳者の小沼氏のことは名前ぐらいしか知られていない。というより、在野でドストエフスキー作品の翻訳に取り組んだ小沼氏は自身についてあまり語らなかったため、生前でも小沼氏の人となりはほとんど知られていなかった。

 筆者は共同通信社の社員で、ロシア文学は門外漢だ。小沼氏による書き込みがある全集を東京・神保町の古書店で購入したのがきっかけで、翻訳家としての生き方を調べてみようという気になった。文学作品の翻訳とはまったく別世界であるものの、これまで通信社でニュースの翻訳をしてきたことも影響した。

 小沼氏と交流があった方はなかなか見つからなかったが、清水氏が小沼氏について書いた文章を読むことができた。「とにかく小沼氏は裏表のある性格で、嫉妬や憎悪の感情も激しく、怒りの発作に襲われると自分でも感情のコントロールができずにしょっちゅう苦しんでいた」と興味深い人物像を紹介していた。

 その後、清水氏に連絡を取り、より詳しい人物像を教えていただいた。そして、清水氏のブログで断続的に小沼氏に関する文章を書かせてもらった。

 今回公表するのは、ブログに掲載した文章を再構成し、読みやすいように書き直したものだ。清水氏の弟子の研究者、孫弟子にあたる学生らを読者に想定した。小沼氏の詳しい人物像を伝えることにより、清水氏を研究する一助になるのではないかと思っている。

f:id:shimizumasashi:20220308051118p:plain小沼文彦氏による書き込みがある『ドストエフスキー全集』

 

【書き込みだらけの全集】

 筑摩書房版『ドストエフスキー全集』を入手したのは二〇二一年七月中旬、東京五輪パラリンピックが始まる直前の時期だった。東京・神保町の田村書店で「訳者の故・小沼文彦氏が校正のために利用した」という触れ込みで販売していた。全集を補う目的で小沼氏が訳した『ドストエフスキー未公刊ノート』(筑摩書房、一九九七年七月)とセットで計二十万円もする。この全集の古書店での相場と比べると二倍くらいの値段だ。

 当初買うつもりはなかったが、田村書店を訪れ実物を見せてもらった。試しに第六巻『罪と罰』を手に取ると、表紙は手あかで汚れ茶色く、少し臭いもする。ページをめくると、赤や青、緑、黄色の鉛筆を使って、びっしりと校正したような跡がある。名前しか知らなかった訳者の息づかいが伝わってくる気がした。

 手書きのメモがはさんであり、登場人物の名前のほか、地名や動物といった特定の単語の翻訳について調べていたことがわかる。「いきなり」や「不意に」といった似た意味の副詞を黄色く塗ってチェックしていた。再版の際に翻訳の正確さを期すため、あらためて校正をしたのだろうか。

 田村書店の方が「世界で一セットしかない全集ですよ」と耳打ちする。心が揺れた。ちょうどボーナスの時期だった。既に所有していた筑摩書房ドストエフスキー全集を買い取ってもらい、差額を払う形でこの「校正本」を購入した。

 訳者の小沼氏は在野でロシア文学の研究を続け、自身について詳しく語らないまま八十二歳で死去した。インターネットで調べても詳しい経歴はわからない。どのような人物だったのだろう。この「校正本」とされる全集は、実のところ何の目的で使われたのだろうか。

 二〇二一年はドストエフスキー生誕二百年だった。筑摩書房版『ドストエフスキー全集』は完結から三十年が経過し、訳者の小沼氏のことは忘れ去られつつある。文庫本になった翻訳作品が少ないため、書店の店頭で名前を見かける機会が少ないためだろう。ロシア文学の専門家ではない自分が出る幕ではないと思いながらも「いま私が調べなければ、小沼氏の人物像は誰にも知られないまま歴史の闇に埋もれていくのではないか」と思った。

 生前の小沼氏を知る人物はなかなか見つからなかったが、ドストエフスキー研究で知られる清水正・元日本大教授と交流があったことがわかった。清水氏は、大学生のころ週に一度のペースで小沼氏のもとを訪れていた。筑摩書房の元編集者や、ともに翻訳書を出した方からも話をうかがうことができた。

 こうした関係者の話や小沼氏が書き残した文章を総合すると、ソ連による収容所での抑留体験、てんかん発症、信仰、経済的に苦しい生活といった、ドストエフスキーを彷彿させるような生涯だったことがわかった。ユダヤ人へのビザ発給で知られる杉原千畝とも深い関係があった。ロシア文学の翻訳者というだけでは説明できない生涯だった。

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小沼文彦氏(1986年11月14日、東京・江古田「和田屋」にて)

 

【日本を代表する体操選手】 

 小沼氏は一九一六年(大正五年)三月二十一日に生まれた。ドストエフスキーの没後、三十五年が経過していた。第一次世界大戦のまっただ中であり、この年の五月に夏目漱石が『明暗』の連載を始める。翌年にロシア革命が起きた。

 小沼は「おぬま」ではなく「こぬま」と発音する。埼玉県浦和市(現さいたま市)の出身で、六人兄弟の末っ子だった。兄の小沼十寸穂(ますほ)氏は広島大医学部の教授を務めるなど秀才ぞろいだったようだ。双子で生まれ、七カ月の未熟児だった小沼氏は、自虐的に「(生まれた姿は)イカのようだった」と周囲に語っている。

 運動神経が抜群で、得意の体操では全国大会で優勝するレベルだった。どちらかというと勉強は不得手であった。教師から面罵されたり、病気の影響が残っているのかと真顔で質問されたりしたこともあったという。

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「『悪霊』に導かれて」を掲載した『月刊キリスト』

 

 小沼氏は五十歳で洗礼を受けた後、『月刊キリスト』(教文館)に寄せた「『悪霊』に導かれて ドストエフスキーと私と聖書」(一九六七年十一月)で、それまでの人生を語っている。わずか六ページの文章であるが、胸の内を率直に語っている。

 

 秀才の誉れをほしいままにした兄達とはちがって、学校へ行っても休み時間以外はまったく意気のあがらない劣等生でした。「どこの家庭にもしいなっ児★「しいなっ児」の右に点あり★といって出来そこないがいるものだ」と面罵する教師もいれば、「子供の時に脳膜炎でもやったのではないか」と真顔になってきく教師もいましたが、なにを言われても恥ずかしいとも思わず、へらへら笑っていたのですから、先生方もきっと手を焼いたにちがいありません。ところが学科のほうは劣等生ですが、体操では全校のスターで運動会の花形、弁論大会に出れば県下、全関東、全日本とこれまた優勝につぐ優勝なので、先生方も呆れて物が言えない始末です。(「『悪霊』に導かれて」より)

 

 兄の十寸穂(ますほ)氏は慶応義塾大の医学部を卒業後に広島大教授を務めた。精神科が専門で、原爆の影響を記録した「小沼ファイル」が最近でも地元の新聞で取り上げられる。小沼氏はこの兄に、いろいろと相談をしていたようだ。

 

 いま広島大学の医学部の教授をしている長兄が、そんな(注:体操に熱中している)私の行末を案じて運動などはやめて、もっと勉強するように意見してくれましたが、ちょっとやそっとの意見などで運動がやめられるものではありません。医学博士なんかは掃いて捨てるほどいるけれど、選手権保持者はひとりしかいないんだぞなどと、そのころ若くして学位をもらったばかりの兄にいやみを言う始末ですので手がつけられません。(「『悪霊』に導かれて」より)

 

 小沼氏も慶應義塾大で学んだ。文学部哲学科で専攻は心理学だった。体操に熱中していた学生生活で突然、ドストエフスキーの作品に目覚める。初めて読んだのは中学三年のころに中村白葉が翻訳したものだったが、大学生になってドストエフスキーの作品を読み直し、亡くなった兄のことを思い出したという。

 

 三田(注:慶應義塾の所在地)の山の上の体育会ホールの合宿の一室で、教科書以外は本などは一冊も読まない仲間から離れて、二度目に読んだ『罪と罰』と『カラマーゾフ兄弟』が、私にはっとこの先生(注:紅露五郎)のことばと、亡くなった兄のことを思い出させてくれたのです。(「『悪霊』に導かれて」より)

 

 この兄とは、二十六歳で亡くなった達(いたる)氏である。一九〇三年生まれなので十歳以上も年が離れている。達氏は早稲田の第一高等学院を経て、露文科に進み、のち国文科に転じた。同じ早稲田出身の作家、井伏鱒二と同人雑誌を始め、自ら短編小説も執筆していた。岩波文庫からツルゲーネフの「プウニンとバブリン」の翻訳を出した年に亡くなっている。★1

 小沼氏はドストエフスキー全集の翻訳を終えた後、筑摩書房の雑誌に掲載したコラムで「トゥルゲーニェフの薄い文庫本一冊を残して、若くして世を去った兄の遺志を継ぐ決心を固めさせました」★2と、より踏み込んで当時の決意を記している。

 

 ともかくも通学の電車の中で岩波文庫赤帯(注:外国文学)だけはぜんぶ読んでいた私に、これではいけない、この世には考える世界があるのだ、肉体を使ってサーカスのまねをするのなら猿でもできる、と指摘してくれたのです。いくらかスポーツに疑問を持ち始めたところでしたので、その印象は強烈でした。スポーツの世界ではやるだけのことはやったと感じた私は、思い切ってスポーツを棄て、それまでの生活に終止符を打ちました。その一年後には将来の志望もロシア文学と決まっていました。(「『悪霊』に導かれて」より)

 

【東欧でロシア語の個人レッスン】

 大学を卒業する時点でロシア語がまったくできなかった。あらためて学校でロシア語をゼロから習うのもためらった。一九三七年に始まった日中戦争の影響により通常の方法では留学も困難な状況だったので、政府派遣の留学生試験に挑戦する決意をした。

 子供の時分から記憶力は抜群だった。在学中にNHKの試験にも合格しており「雑駁な知識だけは誰にも負けない自信がありました」(「『悪霊』に導かれて」より)と述べている。

 

 日支事変は拡大する一方で、普通の手段ではもう外国へは行けなくなってしまいました。しかも当時の情勢では官費でロシア語を勉強させてくれるのは、政府派遣の外務省留学生だけです。一夜漬けの勉強が始まりました。

 それまでそんなものにはまるきり縁のなかった文学部の学生が、これだけは子供の時分から抜群であった記憶力に物を言わせて、国際法やら経済学やら財政学やらを丸暗記して、かつての劣等生もスポーツを棄てたおかげでどうやら試験に合格、昭和十四年の春四月、神戸から欧州航路の客船に乗り込んだときには希望で胸がはちきれ、まさに天にも昇る思いでした。

 こうして欧州にわたった私は、戦争にあえぐ国民の血税によって、十年間にわたってロシア語を勉強させていただけることになったのです。ロシア語だけを勉強していればいいのですからこんないい身分はありません。(「『悪霊』に導かれて」より)

 

 二十三歳で欧州に向かう。この一九三九年は、五月にノモンハン事件が起き、九月にドイツがポーランド侵攻した。英国とフランスによる宣戦布告で第二次世界大戦が始まる。激動の幕開けとなる年だった。

 留学先はバルト三国の一つのラトビアの首都リガだった。かつてロシア帝国の一部だったが、この時代は独立国家であり、ラトビア語だけでなく、ロシア語を話す住民も多かった。日本政府にとっては、ソ連に関する情報を収集する拠点という位置づけだ。バルト三国の真ん中にあり、この当時は人口、面積ともバルト三国で最大の国だったという。

 ロシア語の学習は個人レッスンのような形式だった。ロシア語による意思の疎通ができずに、ドイツ語で授業を受けるようになった。

 

 まったく馬の耳に念仏の私に、先生はやがてロシア語で授業するのをあきらめてドイツ語で講義をしてくださるようになりました。しかし大学で六年間も習ったとはいえ、こちらにとってはドイツ語だって怪しげなものです。それでも一年もするうちにロシア語にも慣れ、あまり日常生活に不自由を感じなくなったのですからありがたいものです。

 そしてある日、先生があしたからこれを読もうと取り出されたのが『罪と罰』だったのです。(「『悪霊』に導かれて」より)

 

 小沼氏はロシア語、ドイツ語、フランス語で『罪と罰』の発音を聞いたときの感激は終生忘れることができないと述べ「そのときの電光のような感激がついに私の一生を決定することになりました」(「『悪霊』に導かれて」より)と振り返っている。

 

 長年取り組んだ体操でのおかげで運動は得意だった。気晴らしだったのだろうか、体操の大会に出場し優勝したエピソードを語っている。

 

 小柄な私には畸形ともいえる胸囲一メートルの疲れを知らぬ肉体で、ロシア人の生活の中にまったくとけこんで、ロシア古典文学に取り組むようになりました。いくらか余裕ができたせいか、ふらりと近くの体育館に顔を出したのが縁になって胸に日の丸のマークなどをつけて全ラトヴィアの選手権をあっさりいただき新聞種になったのは愉快でした。(「『悪霊』に導かれて」より)

 

 ソ連の侵攻によりラトビアを離れた。留学先はその後、ブルガリアルーマニアへと移る。ブルガリアでは、トルストイの『戦争と平和』を三回朗読するという指導により「もはやロシア語は私にとって外国語ではなくなっていました。日本語を使わない何年かの生活がやっと実を結んだわけです」(「『悪霊』に導かれて」より)と述べている。

 

 今度はバルカンの日本といわれたブルガリアに転学になりました。ここでの学生生活はまことに楽しいものでした。戦局拡大の一途をたどる戦乱の祖国をよそに、使っても使っても使いきれないほどの学費をいただいて、勉学に専念することができたのですから、まったく身に余る果報と言わなければなりません。(「『悪霊』に導かれて」より)

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ロシア語による小沼文彦氏の著作

 

 ブルガリア時代にロシア文学やことわざに関する著書をロシア語で執筆している。有名なロシア文学作品の一節をまとめた本もあった。これらの書物を目にしたとき、何の目的で出版されたのかがわからなかったが、『ドストエフスキー箴言(しんげん)と省察』(教文館、一九八五年二月)のあとがきを読んで謎が解けた。「本を読みながら感銘を受けた詩句や箴言のたぐいを書き抜いておくのはそのころ(注:ラトビア留学中)からの習慣であったが、その成果はやがて一本にまとめられ、その四年後に、転学先のソフィアの書店から公刊され、いわゆる白系ロシア人のあいだで好評をもってむかえられ、類書がなかったせいもあり、大いに面目をほどこしたものであった」と説明していた。

 

ルーマニア杉原千畝の同僚に】

 最後に学んだルーマニアでは、ユダヤ人へのビザ発給で知られる杉原千畝とともに公使館に勤務していた。当時の外務省職員録によると、杉原が「一等通訳官」、小沼氏は「書記生」となっている。杉原がリトアニア領事館の領事代理となったのは一九三九年で、小沼氏は同じ年ラトビアに到着した。ともにバルト三国であり、両国の距離は東京と静岡県西部くらいにすぎない。深い交流があったとみられる。

 小沼氏は晩年、杉原の研究者のインタビューを受けている。当時の録音も存在するのだが、残念ながら、インタビューした研究者は生前の小沼氏との約束により録音記録を公開できないと語った。

 小沼氏は一九四七年に帰国した後、ルーマニアの収容所で知り合った菊池節子さんと結婚する。杉原の夫人、幸子さんの妹だ。節子さんは、戦前から杉原一家と東欧などで暮らしていた。杉原一家と節子さんが一緒にいる写真も存在するが、当時の日本人女性としては、かなり目鼻がはっきりしたタイプのようにみえる。節子さんは長女「いずみ」を生んだ三カ月後、一九四八年十一月に病気で亡くなった。

 杉原の妻、幸子さんは『六千人の命のビザ 新版』(大正出版、一九九三年十月)において「妹亡き後すぐに、小沼さんはロシア語の翻訳をともにする方と結婚しました。日頃から子供は好きでないという人でしたので、私はいずみを貰って育てたいと思ったのですが、養女に望まれて他家の子になりました」と当時の事情を明らかにしている。

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杉原千畝とともに名前が記載された外務省職員録

 

終戦によりソ連に抑留】

 ルーマニア終戦を迎えるが、ドイツとソ連の侵攻により街の様子や市民の態度が急速に変わっていくのを目撃する。

 

 戦争前のルーマニヤ(原文のママ「ヤ」)は、殊にバルカンの小パリといわれるブカレスト(注:原文の「レブカスト」を修正)は、フランス文化全盛の都会でした。コルセットをつけて薄化粧をした将校から、デパートの売子にいたるまでフランス語に万能です。フランス語さえ知っていれば、田舎くさいルーマニヤ語などぜんぜん知らなくても、何不自由なく暮せたものです。ところが戦争が始まって、ルーマニヤは枢軸側に立ち、やがてドイツ軍が進駐してきました。

 するとどうでしょう。昨日までフランス語万能だったブカレストの町は、一夜にしてドイツ語万能の町に変ってしまいました。フランス語などはわずかにサロンの中でぼそぼそと語られるだけです。

 そしてドイツは敗れ去り、東の方から怒濤のような進撃を続けてきたソヴェート軍が、ブカレストの町に泥まみれ姿をあらわしました。そしてブカレストの町は、ルーマニヤは『スターリン万才、赤軍万才!』また一夜にしてロシア語の支配する国となったのです。★3

 

 ソ連軍侵入により小沼氏は逮捕される。自宅軟禁を経て、抑留を体験する。「私は正式にいえばルーマニア政府によってソ連の管理する収容所に抑留されたことになります」★4と説明している。

 ロシア語を長く学んだためスパイと疑われ、厳しい調べを受けた。手錠をかけられたり、箱のようなものに押し込められたりした。

 小沼氏は戦後に夫人とともにソ連を旅行したが、ハバロフスクの上空に差しかかると震えはじめ、しばらく止まらなかったという。生前交流があった方が、小沼氏の夫人から聞いたエピソードだ。

 小沼氏は戦後、抑留体験について周囲に面白おかしく話すこともあった。留学中に収集した膨大なドストエフスキーに関する文献を全て没収されてしまったことや、移送列車の暖房で使うため枕木を盗んだエピソードだ。ただ、詳しく書くのは差し控えるが、私生活では抑留のトラウマによると思われる異常な行動をしていたことを、ある関係者からうかがった。過酷な体験による心の傷は時間が経過しても癒えなかったようだ。

 こうした経験は『死の家の記録』の翻訳において暗い影を落とした。ドストエフスキーがシベリア流刑の体験をもとに描いた『死の家の記録』を後回しし、全集に収めた小説の中では最後に訳した。抑留体験が心の傷となり、作品と向き合うことができなかったためとみられる。この点に関しては後で詳しく検討したい。

 小沼氏は二十九歳から二年にわたり収容所などでの生活を体験した。ドストエフスキーは二十八歳から四年にわたりシベリアで刑に服した。二人とも三十歳を挟んだ時期に極寒の地で厳しい体験をしたことになる。

 小沼氏は『ドストエフスキー全集』の『死の家の記録』のあとがきで「無期限兵役という義務が心に重くのしかかってはいたが、イルトゥイシ河に沿って数百キロの護送の旅は、ドストエフスキーにとっては楽しいものであった。完全な自由にはまだほど遠いものではあったけれども、彼は五年ぶりにしみじみと自由の味を噛みしめたに相違いない」と指摘している。

 こうした表現は、小沼氏自らの移送体験がもとになっているように思われる。「十年にわたる留学生活の最後のしめくくりは、六ヵ月をついやしたオデッサ(現在はウクライナの都市)からウラジオまでの護送旅行でした」(「『悪霊』に導かれて」より)と振り返っている。「旅行」と表現することにより、精神的に少し余裕ができたことをと伝えたかったのだろう。

 

 零下五十五度の酷寒もすこしも苦にはならず、係官をうまくごまかして持ちこんだ三巻の書簡集を唯一の伴侶として、赤軍兵士に護送される身を、シベリアへ流刑される偉大な作家の身の上になぞらえて、幼稚な感傷にひたる余裕もありました。(「『悪霊』に導かれて」より)

 

ロシア文学翻訳の道へ】

 帰国後、ドストエフスキー研究で生きていくつもりだった。「荒廃の祖国にたどりついた私は迷うことなく現在の仕事に足がかりを求め、鍛え上げられた健康な身体をもとでに、初志を曲げることなくドストエフスキー研究に全力を注ぐことになりました」(「『悪霊』に導かれて」より)と決意を述べている。

 しかし、翻訳のスタートはドストエフスキーではなかった。ドストエフスキーの作品を翻訳したくても、当時の日本におけるロシア文学研究者や出版社の慣習により、できなかったのが実情のようだ。後に清水正・元日本大教授に対し、あるロシア文学の大家から「この作品は私がすでに訳してあるのだから、新しく訳す必要はない」と言われた体験を明らかにしている。

 小沼氏は一九六八年に書いた文章で「わたくし個人の考え方によれば、新訳はいくらたくさん出ても結構だと思います。長老のX氏のように、この全集は自分のだけがあればそれで十分だ、などと言うつもりはさらにありません」★5と閉鎖的な日本のロシア文学研究の世界を批判している。

 帰国した一九四七年十二月に世界文学社からロシアの作家、ガルシンの『四日間』を出した。この本の末尾にロシア文学者の原久一郎が「小沼文彦君を推す」という文を寄せているが、早稲田大で教鞭をとっていたときの生徒が小沼氏の兄、達氏だった。

 ドストエフスキーの作品を初めて翻訳して出版したのは、一九五〇年十月に三笠書房から出した『虐げられた人々』とみられる。翌一九五一年五月に新潮文庫で『白痴』を刊行したのに続き、岩波文庫で一九五四年一月に『二重人格』を出した。三笠書房から一九五七年四月に『罪と罰』、翌一九五八年三月に『カラマーゾフ兄弟』を出版したが、いずれも抄訳だった。

 小沼氏は、日本におけるロシア文学研究や翻訳のレベルの低さを嘆いていた。ドストエフスキートルストイの作品は戦前から広く読まれた一方、ロシア語を本格的に学ぶ人は少なかった。二葉亭四迷米川正夫、中村白葉、原久一郎といった、現在の東京外国語大でロシア語を学んだ人たちの努力によりロシア文学の裾野は少しずつ広がったものの、語学力が抜群の小沼氏からみれば、お粗末な水準だったのだろう。

 日本出版協会の『書評』(一九四九年六月)に掲載した小論「ロシア文学憎まれ帖」で日本におけるドストエフスキーの翻訳を厳しく批判している。原文の旧仮名遣いをあらため引用する。

 

 従来のロシア文学者が安閑としてああした無責任な翻訳をつづけて来られたのも、ロシア語が人の多く知らない語学だというお蔭なのである。ロシア語がせめてドイツ語、フランス語程度に普及していて、日本にももう少しロシア語の読める人が沢山出ていたら、到底いつまでもあんな泰平の夢を食っていられたわけのものではない。

 だから比較的忠実に、原文の文字を辿って固いけれども日本文になおした翻訳よりも、分からないところは二行でも三行でもとばして、コンマもピリオドも完全に無視して、ただずらずらと訳し終わったものの方が、一応日本文になっているという理由でこの国では名訳ということになるのである。

 

 同じくドストエフスキーの全訳に取り組んだ、米川正夫の翻訳も「ロシア文学憎まれ帖」で批判した。「ずらずらっと頭も終わりもない比較的読み易い日本文になっている、所謂こなれた日本文になっているという点を除けば、この翻訳は、誤訳、曲解、脱漏至らざるはなき無責任極まるものではないか」と指摘している。

 この文章を掲載した『書評』をどれくらいのロシア文学関係者が読んだのだろう。半年後の一九五〇年の正月ごろ、小沼氏に金沢大で勤務する話が持ち上がった。東京におけるロシア文学研究の世界で生きていくのに嫌気がさしたか、気まずくなったのではないかと勘ぐってしまう。

 三十五歳の小沼氏は、金沢大講師として一九五一年五月に赴任する。北陸に行ったことはなく、現地の様子を知るため石川県で発行されている北國新聞を一年以上も前から取り寄せて読んだという。

 金沢大は、作家の井上靖らが学んだ旧制の第四高等学校が前身で、当時は城跡にキャンパスがある珍しい大学だった。小沼氏は赴任後に地元の雑誌に寄せた随筆で当時の気持ちを綴っている。

 

 金沢は予想に違わず私に大変はよいところのように思われます。不愉快なこともまだあまりぶつかりません。第一街がきれいです。東京のように街に紙くずがおちていません。砂ぼこりもたたないようです。これには全くほっといたしました。★6

 

 金沢の北陸放送のラジオで、新語をテーマに十五回にわたる講演もした。学生時代に弁論大会で何度も優勝したというくらいだから、放送で話すのはお手の物だったのかもしれない。連続講演をまとめた『新語の周囲』(大和出版社、一九五三年二月)という本により、当時の放送内容を知ることができる。「ジャーナリズム」や「スポンサー」といった放送に関係がある外来語の由来を語源から説いたり、日本語の乱れを嘆いたりと、放送した回によって内容はさまざまだ。

 小沼氏は金沢大講師の後、中央大講師などに転じるが、この当時は金沢を終の棲家とするという決意も語っていた。一方で、保守的な金沢での生活に必ずしもなじむことができなかったようだ。どちらかというと、市井の人たちにシンパシーを感じつつ、仕事などで交流がある地方都市の「文化人」に対しては心情的に反発していたらしい。『新語の周囲』のまえがきで、金沢出身の文人である泉鏡花室生犀星徳田秋声を例に挙げ次のように述べている。

 

 金沢が生んだ★「生んだ」の横に○★文学者というのと、金沢で生まれた★「生まれた」の横に黒点★文学者というのでは意味が違うということです。なるほど彼等は金沢で生まれた人達かも知れませんが、金沢が生んだ人ではありますまい。言葉の点だけから考えると、彼等はその精進努力によって、金沢的なものから脱却して偉大な文学者となり得たものを考えます。その点をはっきり区別しないと、とんだ自惚れに終わるのではないかと心配です。金沢にもいわゆる文学青年、あるいは「北国文化」などに拠ってひとかどの文学者らしい顔をしておられる方がたくさんおります。しかしその人達の作品で、てにをはを正確に使っておられる方がはたして幾人おられるでしょうか。私は皆無だと断言いたします。

 

ドストエフスキー全訳に挑戦】

 筑摩書房から『ドストエフスキー全集』の刊行が始まったのは一九六二年だった。小沼氏は、四十五歳になっていた。これから全集完結まで約三十年もかかるとは、この時点で想像していなかったはずだ。

 ドストエフスキー全集は、小沼氏が取り組む前にも翻訳が何種類か刊行されていた。小沼氏自らが、日本におけるドストエフスキー作品翻訳の歴史をまとめている。『随想ドストエフスキー』(近代文芸社、一九九七年五月)所収の「ドストエフスキーの移入、その受容のいきさつ」などをもとに紹介する。

 ドストエフスキー作品の翻訳は、内田魯庵が一八九二年(明治二十五年)に英語から訳した『罪と罰』を刊行したのが最初といわれている。森鴎外は一九一二年(明治四五年)に『鰐』を訳しているが、ドイツ語からの翻訳とみられている。

 大正時代に入ると、米川正夫や中村白葉の手によりロシア語からの翻訳が次々と登場した。一九一七年(大正六年)に新潮社が全十七巻の『ドストエーフスキー全集』を刊行した。小沼氏は「この全集が原典からの直接訳であるとともに、これによって各作品の表題と内容の把握がほぼ定着したという事実も忘れてはならない」と一定の評価をしている。もっとも、実質的に小説だけを集めたものだったので、現代のわれわれが考えるような「全集」はない。

 昭和時代になると、小説のアイデアを盛り込んだ「創作ノート」を含めた全集の翻訳が出版されるようになった。ソ連ドストエフスキーの研究が進んだことも影響した。米川正夫の『ドストーエフスキイ全集』が何度か刊行されたほか、複数の研究者が協力して翻訳に取り組んだ新潮社版の全集もある。これらに小沼訳を加え、現在は計三つの「全集」が存在すると考えるのが一般的だ。

 

【わかりやい翻訳を目指す】

 小沼氏は『ドストエフスキー全集』に取り組むに当たってどのような翻訳を目指したのだろうか。全集刊行が始まった一九六二年に雑誌『文藝春秋』に寄せたコラムで★8で、読みやすい日本語による翻訳を目指していたと強調している。

 従来の翻訳の課題について「ドストエフスキーは難解と言われています。たしかにある意味では難解かも知れませんが、ロシヤ語で読めばとにかくわかるのに、日本語で読むとますます難解であるというのは、これは日本語の表現の問題ではないでしょうか」と問いかけている。その上で「翻訳を業とするようになってからも、自分で読んでわからない、また他人が読んでわからない訳文だけは絶対に書くまいという翻訳態度が生まれました」と語っている。

 その後も、訳者をオーケストラの指揮者に例え、どのような態度で翻訳に臨んんだかを説明している。

 

 私の頭には「日本語で読むと、ドストエフスキーはどうしてあんなに難しいんだろうなあ」ともらした、外務省のロシア語のエキスパートたちの言葉がこびりついて離れません。

 ドストエフスキーの文体を再現するとか、その風格を生かすとか、日本語を練り上げるとかいう野望は、私の場合、ただもどかしさを感じるだけですが、私はただひたすら私のドストエフスキー、私の理解したドストエフスキーを、日本語にしてみたかったのです。

 ドストエフスキーという偉大なオーケストラを、私の解釈によって指揮してみたかったのです。

 身の程をわきまえないことであるとは知っていますが、従来の演奏に、指揮者の主観による、ある思い込み、または不注意による省略があまりにも多すぎたと思うのです。

 そこで一つの試みとして、私の解釈による指揮をしてみました。あくまでも原文に忠実に、その微妙な表現を見逃すことなく、しかも自分で納得のいく翻訳をしてみました。その結果、読んで意味がわからないということは、まずなくなったと思います。★7

 

 小沼氏は翻訳をオーケストラの演奏を例えるのが好きだったようだ。別の文章で、より詳しく説明している。

 

 もともと翻訳というものは大編成のオーケストラのようなもので、翻訳者は指揮者兼演奏者です。指揮者不在のオーケストラではサマになったものではありません。演奏者は楽譜のとおりに演奏しているつもりでしょうが、統一と、一つのすっきりとした指揮者の個性と解釈に欠けた演奏になる恐れがあります。

 独奏の場合でも同じことでしょう。ただ楽譜を追って音を出せばいいというものではなくて、その曲に対する演奏者の理解が基礎になるはずです。翻訳者を軽視するのは演奏家を軽視するのとまったく同じことで、こんなことは音楽の世界では通用しないのではないでしょうか。ただし、純粋な音とちがって、文学の場合には言語というものが媒体になりますので、問題はもっと複雑になってきます。譜面だけで音楽の鑑賞ができるのは特殊な人たちで、わたくしたちはやはり誰かにこれを演奏してもらうことが必要です。文学作品も原文でこれを読むに越したことはないに決まっていますが、やはり大多数はこれを日本語に訳してもらわなければ困るでしょう。★9

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冷牟田幸子さんが小沼文彦氏とともに翻訳した『ドストエフスキーの「大審問官」』

 

【共著者への翻訳のアドバイス

 「訳した文章は声を出して読むこと、声に出してすんなり読めるのが、読みやすい文章であるとおっしゃっていました」。小沼文彦氏とともに『ドストエフスキーの「大審問官」』(一九八一年十月、ヨルダン社)を翻訳した冷牟田幸子さんは、小沼氏からこう助言を受けたという。

 この本は『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」について論じた文章を研究者がまとめたものだ。『チャタレー夫人の恋人』のD.H.ロレンスの論文も収められている。小沼氏がロシア語、ドイツ語、それに英語のうちボイス・ギブソンの論文を翻訳し、冷牟田さんがほかの英語の論文を手がけた。

 冷牟田さんは一九三八年生まれ。早稲田大の英文科を卒業した。ドストエフスキーの勉強会に所属していた仲間の紹介により、小沼氏が東京・渋谷に開設した「日本ドストエフスキー協会資料センター」を訪れ、小沼氏と知り合った。宗教的な視点からドストエフスキー作品を論じた文章を書くたびに、小沼氏のもとを訪れ、夫妻から話を聞くという関係だった。

 冷牟田さんによると、小沼氏は「ぴったりする言葉が見つからないときは、頭の片隅に置いて、しばらく離れるとよい、思わぬ時にふっと適当な言葉が浮かびますよ」と助言したという。

 翻訳作品に関しては「原作の文章の句点を尊重し、息が長くても、それがドストエフスキーの特徴なのだから、途中で切って二文にするようなことはしない、息の長さを味わってほしい」と語っていた。ドストエフスキーの作品は、一つの段落が長い。文庫本にすると何ページも改行がないこともある。小沼氏は、これも鑑賞の対象とするべきだという考えだ。

 近年わかりやすさで話題になった光文社の古典新訳文庫の作品は、段落を小分けしている。小沼氏は、いずれこういう時代が来る可能性があると考えていたように思ってしまう。

 冷牟田さんは『白痴』の訳文をめぐり、小沼氏と交わした興味深い会話についても紹介してくださった。

 

 『白痴』のロゴージンがホルバインの絵を前にして「それでなくても(信仰を)失いかけているさ」といいます。訳によっては「失っているさ」となっています。小沼先生に尋ねました。私は小沼訳で論文を書いていてすんなり論が展開します。「失っているさ」ですと、解釈の変更を迫られます。先生は手持ちの訳書を調べてくださいまして、木村浩訳と小沼訳のみが「失いかけているさ」になっている。これは、ロシアでの生活経験の有無によるとのことでした。

 

筑摩書房から全集刊行】

 筑摩書房版の『ドストエフスキー全集』は第九巻『未成年』からスタートし、次のような順で刊行された。終盤の十九巻と二十巻は「A」「B」の二冊にわかれた。筑摩書房と関係が深い評論家の唐木順三氏が手がけた別巻を含めると計二十三冊になった。

 

第九巻『未成年』 (一九六二年十月)

第三巻『おじさんの夢』『虐げられた人々』(一九六二年十一月)

第一巻『貧しい人々』『二重人格』ほか(一九六三年一月)

第七巻『白痴』(一九六三年四月)

第六巻『罪と罰』(一九六三年六月)

第十巻『カラマーゾフ兄弟1』(一九六三年九月)

第十一巻『カラマーゾフ兄弟2』 (一九六三年十月)

第二巻『白夜』ほか(一九六四年十月)

別巻 唐木順三編『ドストエフスキー研究』(一九六四年十月)

第八巻『悪霊』(一九六七年四月)

第五巻『地下生活者の手記』ほか(一九六八年十月)

第四巻『死の家の記録』ほか(一九七〇年三月)

第十五巻『書簡集1』(一九七二年一月)

第十六巻『書簡集2』(一九七三年十月)

第十七巻『書簡集3』(一九七五年二月)

第十二巻『作家の日記1』(一九七六年十二月)

第十三巻『作家の日記2』(一九八〇年六月)

第十四巻『作家の日記3』(一九八〇年十一月)

第二十巻A『評論集1』(一九八一年十月)

第二十巻B『評論集2』(一九八二年八月)

第十八巻『創作ノート1』(一九八三年十二月)

第十九巻B『創作ノート3』(一九八九年八月)

第十九巻A『創作ノート2』(一九九一年六月)

 

 全集刊行に三十年というと翻訳が遅々として進まなかった印象を受けるが、第八回配本までは二年しかかかっていない。その後、『死の家の記録』や『悪霊』といった作品や、小説のアイデアを集めた「創作ノート」の翻訳にかなり時間を要することになる。

 

【百冊の辞書に囲まれ作業】

 小沼氏は、『ドストエフスキー全集』の月報に「翻訳の宿命」という文章を寄せ、日常の翻訳作業ついて紹介している。翻訳の遅れを釈明するを目的に書いたようだが、百冊以上の辞書に囲まれ、各国から取り寄せた全集の解釈を参考にしながら、翻訳に取り組んでいたのがわかる。

 

 この全集の翻訳にはテキストとして最も新しいロシア語版の十巻選集(一九五六~五八)を使っている。もっともこの十巻選集は、前に訳注のところで書いておいたように、横文字の本には珍しく誤植が多く、しかも意識的に改変したのではないかと思われる箇所も散見されるので、これだけを頼りにするわけにはいかない。そこで定本といわれる旧正字法の十三巻全集(一九二六~三〇)を絶えず参照することになる。幸いロシア語は旧正字法で勉強したので、いまの若い人たちのように苦労することはない。まずロシア語のテキストとしてはこの二種類、それに時に応じていままでに刊行された十六種類のうちの幾つかを照合しなければならないこともある。

 おまけにガーネット訳の英語版の全集やその他の英語訳の単行本、外国語訳のドストエフスキー全集では日本と並んで東西の双璧、十種類を数えるドイツ語版全集も場合によっては必要になってくる。米川訳の日本語版全集を参考にすることはもちろんである。こんなわけで机の上は数種類のテキストでいつもいっぱいのありさまである。その上、辞書の類も最低二十冊は机の上に並べておかなければならない。翻訳家にとっては命よりも大事な辞書がそのほかにも百冊以上、手のとどく本棚に並んでいる。その中にはロシア人名の各種の変化とアクセントを網羅した姓名辞典が二冊ある。(この後、八巻の『悪霊』での登場人物名の表記ミスの説明があるが略)

 ついひと月ほど前にユーゴースラヴィヤから十二巻の全集が二種類、キリル文字のものと国字改革以降のローマ字版のものがとどいたかと思うと、きのうはまたルーマニヤから、ルーマニヤ語十一巻全集が送られてきた。これでまた参照しなければならないものが増えたというわけである。時間をくわれることおびただしい。

 そればかりではなく、ドストエフスキーの生誕百五十年を記念して、ソヴェートのアカデミヤ付属出版所から、全三十巻にのぼる全集の発刊が予告されている。このアカデミヤ版全集の編集、校訂には科学アカデミヤのふたつの研究所が協力し、ロシア文学研究所(プーシキンの家)のバザーノフ教授が編集長となって、すでに原稿整理を終わったものが数巻あるという。

 アカデミヤ版全集の特色は、書簡、草稿、ノートからあらゆる異本にいたるまで、すべての資料を包括することにあるので、この発刊は期待される。(アカデミヤ版の刊行見通しの説明を略)

 この全集が刊行されると、こちらの全集もいろいろと手を加えなければならないことになるであろうが、それは後日のことにして、『書簡集』『作家の日記』を終えて、『作品ノート』にはいると資料集めが大変である。決定版といわれた米川訳全集でも、『作品ノート』はほぼ半分の分量しか紹介されていないし、『未成年ノート』のごときは、ドイツ語からの重訳でしかも抄訳、その他のノートでも、ロシア語のテキストがないために、フランス語―ロシア語―日本語というまわりくどい手間をかけたものもあるので、『書簡集』からあまり大事でないとして省かれたものを補充するなど、訳者にとっては励みの多い仕事が待っている。(以下、残った巻を刊行することへの決意など略)

 

 一九六八年十月二日付の文章なので、『ドストエフスキー全集』の刊行開始から六年の時期に書いたようだ。この段階では、まだ『死の家の記録』が未刊行だっただけでなく、その後に「書簡」や「創作ノート」といった翻訳の難航が予想される作品が残っていた。完結までさらに二十年以上を費やすことになる。

 小沼氏は一九六三年に書いた文章で「限られた人生のことですから、これからはこの仕事が終わりしだい、読者の要望に答えて、研究書の執筆にかかれれば望外の幸せです」★10と述べている。この時点では、全集の翻訳を終えた後に評論などに取り組むことに意欲を示していた。

 その約九年後、随想や論文を集めた『ドストエフスキーの顔』(筑摩書房、一九八二年三月)のあとがきでは「肩をいからし特製のよろいかぶとに身を固めたドストエフスキー論は苦手で、紹介者、翻訳者として、どこまでも身の程を知って裏方に徹したいと思っているわたしに書けるのは、せいぜいこれくらいのところです」と、ずいぶんトーンダウンしてしまった。年齢のせいで時間の限界があることを痛感したのだろうか。

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小沼文彦氏の書き込みがある『ドストエフスキー全集』を見つめる元編集者の大西寛氏

 

古書店で買った「校正本」の真相】

 「これは小沼先生の字ですね」。鉛筆やペンの走り書きがある『ドストエフスキー全集』の『罪と罰』を手に取ると、筑摩書房の編集者だった大西寛氏はじっと見入った。

 八十四歳の大西氏は、東京郊外の住宅地にある住宅で悠々自適の暮らしをしている。都内の古書店が「校正本」として販売していた『ドストエフスキー全集』を持参し、二〇二一年十月末に自宅にうかがった。

 「小沼先生がお持ちだったものですか」。大西氏は全集の『罪と罰』、自身が編集を担当した「創作ノート」を十分ほど見比べると「なるほど。わかりました」とつぶやいた。

 「校正本というよりは、創作ノート訳出のために参照した本ですね。創作ノートの翻訳は、ロシア語の原典を単に訳すだけではできません。小説と創作ノートのどこを対照するか、創作ノートから抹殺したところとか(を調べた)」と説明した。赤や黄色などカラフルな印でページが埋まっていることについて「和訳はこちらのほうがいいのでは、という目的などで印をつけたのではないか」と語った。

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小沼文彦氏による書き込みがある『ドストエフスキー全集』

 

 小沼氏は筑摩書房版の全集に取り組む前に、『白痴』を新潮文庫から出版していた。『罪と罰』や『カラマーゾフの兄弟』の抄訳も一度出している。全集においても、これらの作品を早い段階で刊行した。

 三十年にわたって刊行した全集のうち、小説に続く「書簡集」「評論」「創作ノート」の翻訳に多くの時間を費やしている。特に小説のアイデアを書き込んだ「創作ノート」の翻訳は難しかったようだ。実際に完成した小説と比べ、どのように表現が変わっているかを照合しながら作業を進めた。訳者である小沼氏が、書き残されたメモから取捨選択を判断しなければならない場面もあったようだ。古書店で購入した「校正本」は、これらの作業に使われたというのが真相だったらしい。

 

【編集者が語った小沼氏】

 大西氏は早稲田大でロシア文学を学んだ。ドストエフスキー全集の個人訳を出した米川正夫の授業も受けた。「もう高齢で、淡々とした授業だった。テキストはチェーホフの『三人姉妹』だったと思う。生徒に読んで訳させた」という。

 筑摩書房は一九六〇年度の入社だったが、大学を卒業する前の三月一日から「来い」と言われ出社したという。入社一年目に、筑摩書房の『世界文学大系』に入った小沼氏の翻訳の出版に他の編集者とともに関わった。『ドストエフスキー全集』担当になったのは一九七二年で、「書簡集」「作家の日記」「評論集」「創作ノート」を手がけた。完結まで三十年かかった「全集」刊行のうち、大西氏が二十年を担当したことになる。筑摩書房ではロシア文学だけでなく、吉川幸次郎氏や『漢書』といった中国古典の編集もつとめた。

 小沼氏の最後の著書となった『ドストエフスキー未公刊ノート』も手がけ、出版した一九九七年に筑摩書房を定年退社した。小沼氏は翌年十一月三十日に亡くなっている。つまり、大西氏は入社一年目から退社まで、一時期を除いて小沼作品と関わり続けた。『ドストエフスキー全集』を柱とした小沼氏の作品は、かなりの部分が「小沼・大西コンビ」によって世に送り出されたわけだ。

 編集者の仕事は幅広い。原稿をチェックしながら、助詞の「てにをは」の使い方や句読点の打ち方が適切かどうかといったことを調べたり、印刷のための割り付けをしたりする。大西氏によると、ときに筆者の文章に立ち入ることもある。翻訳に赤い線を引いたり、「こう訳した方がいいのでは」と伝えたりするという。ただ、小沼氏の『ドストエフスキー全集』に関しては「直すところは一切なかった」と振り返った。

 「小沼先生に限っては、もう、お見事と。ドストエフスキー作品の原文のリズムを感じさせる見事な翻訳だった。ドストエフスキー作品はおしゃべりの文章だが、よく体現している。独特の文体、原文のリズムを日本語に移す感じですね。今でも、ドストエフスキーについては小沼訳がいちばんいいと思っている」と語った。

 大西氏は、ドストエフスキー作品にのめり込んだ翻訳者という悲劇の側面についても語ってくれた。

 「小沼先生は、ドストエフスキーに入っていってしまう。(原作者と翻訳者の間に)距離がないといけない。もう一人の自分がいないといけないが、小沼先生は入っていってしまう。そういう意味では、ドストエフスキーが乗り移っているというか、そういう翻訳だと思う。小沼先生自身にとっては、しんどかったのではないか。距離をとれなくて。だから『悪霊』についても、先生の中に悪霊がいる感じですね。(小沼氏の随想のタイトルのように)『悪霊』に導かれて、というか」。

 計二十巻余りある全集で翻訳のミスはほとんどなかったと話す。小沼氏が自分で訂正することはあったが、他人から誤訳を指摘された記憶はないという。『ドストエフスキー全集』から小説だけを選び「小説全集」として刊行した際、大西氏は翻訳をじっくり読み直した。口絵の説明など二カ所を修正しただけだったという。

 小沼氏は、大学卒業後に十年にわたって海外で暮らしたが、この間はロシア語の学習に明け暮れたため日本語の文章を読む機会は多くなかったはずだ。文章を書くうえで、お手本とするなどした日本の文学者はいるのだろうか。大西氏は「聞いたことはないし、考えたこともない。日本の作家の影響も聞いたことがない」述べた。

 大西氏は「小沼氏の文章は仮名が多い。平明さを心がけていたのではないか」と文章の特徴について指摘した。一方で、小沼氏は別の関係者に生前、「翻訳で平仮名が多いと、本のページ数が増えてしまう」という愚痴のようなことも語っていた。ページ数が増えると、出版のコストが高くなってしまうという悩みだったようだ。

 小沼氏は『ドストエフスキー全集』と並行して、ほかの出版社でトルストイ作品の翻訳なども手がけた。旺文社文庫の縮訳版『戦争と平和』だけでなく、キリスト教系の出版社でもトルストイの作品を翻訳している。

 大西氏は「(後回しにしていた)ドストエフスキー作品の翻訳に手を着けられず、わざと他の作家の作品を翻訳したのかもしれない。それとも経済的な理由だろうか。誰かに翻訳を頼まれたのかもしれない」との見方を示した。「トルストイには、ドストエフスキーほどの興味はなかったと思う。ドストエフスキーの翻訳ができれば、トルストイは簡単だ」とも付け加えた。

 

筑摩書房との関係】

 『ドストエフスキー全集』を刊行した筑摩書房は、多くの文学書を送り出してきた老舗の出版社だ。創業者の吉田晃が、同じ長野県出身の臼井吉見唐木順三ら著名な評論家の協力を得ながら企業として成長した。

 筑摩書房が刊行した『筑摩書房の三十年』(二〇一一年三月)『筑摩書房 それからの四十年』(二〇一一年三月)は、いずれも『ドストエフスキー全集』にほとんど触れていない。「全集」を担当した六人ほどの編集者のうち初代の土井一正氏、後に社長になった森本政彦氏らが登場し、個性的な編集者がそろった出版社だったのはわかる。

 大西氏は筑摩書房について「一九七八年に倒産したころは百人以上いた。しかし、『ドストエフスキー全集』の担当は一人だけ」と明かした。担当社員は、他にもいろいろと仕事があったという。

 社内の様子について「(全百巻に上った)『明治文学全集』は資料が多く専用の部屋があったが、『世界文学大系』でさえ専用の部屋はなかった。まして小沼先生の担当の部屋は…」と語った。打ち合わせは自宅に行くことが多かったが、小沼氏が筑摩書房に来ることもあった。

 小沼氏が箱根のほうへ引っ越したとき、湯河原の駅前にあるそば屋などで待ち合わせをした。「小沼先生は酒をあまり飲まなかった。けっこう、ゆっくり、二、三時間は雑談をしたと思う。仕事の進行はもちろんだけれど、世間話。細かい内容は忘れたが、深い話はしていない」と振り返った。翻訳した原稿は、少しずつ渡された時期もあったが、まとまった量を受け取ることが多かったという。

 大西氏に対し怒るようなことは一切なかったという。「ぼくは、お目にかかって、怖かったり、不快になったりしたことは一度もありませんでした。いつもにこやかで。気分のいいときを選んで会っていたのかもしれませんが」。筑摩書房の編集担当の間でも、小沼氏の気難しさに関する引き継ぎはなかったという。

 『ドストエフスキー全集』刊行前はロシア文学の「大家」でもなかった小沼氏に、筑摩書房が翻訳を依頼したのはなぜだろう。大西氏は、初代の編集担当だった土井一正氏が、小沼氏の二番目の夫人と交流があったため翻訳の話が持ち上がったのではないかとの見方を示した。二番目の夫人はロシア語の翻訳や出版関係の仕事をしていたとの情報もあるが、当事者が亡くなったので詳しい事情はわからない。小沼氏は筑摩書房の『世界文学大系』に『罪と罰』『白夜』を一九五八年に提供しているものの、それ以前に筑摩書房との付き合いはなかったはずだという。

 小沼氏は雑誌に連載したコラムや論文をまとめ、『ドストエフスキー』(日本基督教団出版局、一九七七年七月)、『ドストエフスキーの顔』(筑摩書房、一九八二年三月)、『随想ドストエフスキー』(近代文芸社、一九九七年五月)といった本を刊行していた。

 大西氏は、小沼氏の随筆をまとめた『ドストエフスキーの顔』を担当した。「先生は(随筆など自身に関する)文章は、下手だ、苦手だと言っていた。自分の文章に中身があるとは思っていなかったようだ。言い方は微妙だが(翻訳以外の)自分で書いたものについて、ヘラヘラした文章だと。自分に向き合うのが怖い、逃げているような感じだった。『ドストエフスキーの顔』もあまりいい文章ではないでしょう」と語った。もちろん、最後の言葉は、自身が編集を担当したことによる謙遜も含まれているのだろう。

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小沼文彦氏が翻訳を先送りした第八巻『悪霊』

 

【後回しにした『悪霊』『死の家の記録』の翻訳】

 『ドストエフスキー全集』の刊行は徐々に計画より遅れるようになった。第三回配本からは、月報の「編集室より」で毎回のように、読者に対し刊行の遅れを詫びるようになる。

 それでも『白痴』をはじめ過去に一度は翻訳したことがある作品を手がけているうちはまだよかった。『悪霊』や『死の家の記録』は、意図的に翻訳を後回しにした。大西氏は理由について「いちばん気になる、いやな作品だったのではないか。近親憎悪みたいなことを感じたかもしれない」と指摘した。小沼氏の夫人の勝子さんから「悪霊になった気持ちで、この人は訳している」という言葉を聞いたという。

 『悪霊』は革命を夢見る十九世紀のロシア若者らの姿を描いた作品だ。「スタヴローギンの告白」が信仰などの観点から論じられることが多い。連合赤軍オウム真理教による事件が起きると『悪霊』とからめて論じる評論が目立った。この作品の影響を受けたという現代の作家も少なくない。

 清水正・元日本大教授は、小沼氏の夫人から『悪霊』に取り組んでいたころの家庭内での様子を聞いていた。翻訳作業がどれほど苦しいものだったかがわかる。

 

 「夜中に突然私を起こして『悪霊』の話をされるの。スタヴローギンとかキリーロフの話を。神があるとかないとか……いきなり質問しておいて答えないものなら怒る怒る……前の奥さんなんかこの人が殺したようなもんです」

 『悪霊』を訳している時がもっともひどかったそうで、奥様もだいぶ神経を傷めたようである。翻訳という仕事は人物が憑依しやすい状態を作るのかもしれない。★11

 

 小説の中で翻訳が最も遅かったのは『死の家の記録』だった。空想的社会主義の集まりに参加したため逮捕されたドストエフスキーが、シベリア流刑の体験をもとに書いた作品だ。架空の登場人物の回想という形をとっているものの、殺人犯らとの生活を余儀なくされるなどした体験が下敷きとなっている。

 この作品の翻訳を先延ばししたのは、ソ連による抑留が影響したためとみられる。ロシア語を長く学んだためスパイと疑われた。戦後に夫人とともにソ連を旅行したが、ハバロフスクの上空に差しかかると震えはじめ、しばらく止まらなかった。編集者の大西氏によると、小沼氏は二年にわたる抑留で受けた侮辱的な体験について「箱に押し込められた」「家畜みたいに、物理的に押し込められた」という趣旨の話をしていたという。

 小沼氏は、ソ連による抑留中に読んだ『死の家の記録』が強い印象を残したと次のように語っている。

 

 約二年間にわたる自由を奪われた生活は、それまでで最も恵まれた読書と内省の機会を与えてくれました。私の血となり肉となったドストエフスキー観が生まれてきたのです。金と暇にまかせて買い集めた本の山の中で、すべてを忘れて読書に没頭できたことは感謝のほかはありません。収容所の鉄条網の中で読んだドストエフスキー、特にその『死の家の記録』の印象はまさに強烈なものでした。疑心暗鬼の不安の中で、いつ銃殺されるか、いつ無期限強制労働のラーゲリ送りになるかと、いまから考えると滑稽な妄想に悩まされながら読んだドストエフスキーは、はじめて私に神の問題を考えさせてくれたのです。(「『悪霊』に導かれて」より)

 

 小沼氏は『死の家の記録』について、全集のあとがきで「この記録小説は、見方によればドストエフスキーの最高傑作と言えないこともない」と高く評価している。

 ドストエフスキーが死刑を執行直前に免じられたことに触れ「いかなる強靱な神経の持主でも、平静な気持ちでこれを耐え忍び、皇帝の仁慈に素直に感謝する気分になったとは思われない」と指摘し、「こうした極限状況(注:処刑の場)にあってすらも神を見出そうとしなかった彼が、四年間の『死の家』の生活によって、ついに神を発見した事実は決して軽く見過ごしてはならないものであろう」と語っている。

 

 『ドストエフスキー全集』は一九九一年に全巻の刊行を終えた。小沼氏は七十五歳になっていた。翻訳を終えた瞬間の気持ちを次のように振り返った。

 

 『「未成年」創作ノート』の最後のセンテンスを書き終えペンを擱いたときには、不覚にもしばらく涙の落ちるのを禁じえませんでした。

 よくまあ無事に生き永らえて、途中で投げ出すこともなくここまでやって来られたものだというのが、いつわらぬ実感でした。★12

 

 筑摩書房は一九七八年に一度、経営破たんしている。全集の発刊を続けられるかどうか危うかった時期もあったようだ。小沼氏は「さらに倒産というまったく予期しない事態に見舞われたにもかかわらず、そのままずっと仕事をつづけさせ、つねに支援してくださった筑摩書房の厚意には、それこそ感謝の言葉を知りません」とも語っている。大西氏によると、社内で全集刊行をやめるという議論はなかったという。

 

【販売伸び悩み生活苦しく】

 一九六二年に刊行が始まった『ドストエフスキー全集』は版を重ねた。好評だった筑摩書房の『世界文学大系』の印税も小沼氏の収入となった。編集者の大西氏によると、当時は本の価格も安く、よく売れたという。小沼訳の翻訳作品は、岩波書店や新潮社、旺文社からも文庫本で出ていた。静岡英和女子大の教授をしていた時期もあった。

 小沼氏は一九七〇年に「日本ドストエフスキー協会資料センター」を開設している。当時は金銭的にも余裕があったようだ。

 ただ、好評だった『ドストエフスキー全集』も小説の刊行が終わり、専門家らが対象となる「書簡集」以降の配本になるとだんだん売れなくなった。大きく値上げした影響もあったとみられる。

 大西氏によると、小説だけを集めた全十巻の『ドストエフスキー小説全集』を一九七六年から翌年にかけて刊行したのは、小沼氏からの働きかけだったという。

 横浜の自宅や渋谷のマンションを拠点としていた小沼氏が、箱根のほうへ移り、晩年を岩手県盛岡市ですごしたのも金銭的な事情が一因だったようだ。岩手県は、小沼氏の妻、勝子の故郷だった。筑摩書房の社長が金銭面で支援した時期もあったという。

 大西氏は『カラマーゾフの兄弟』の「創作ノート」の原稿を盛岡市の居酒屋で受け取った。小沼氏が食事代を払おうとしたが、筑摩書房の経費で支払ったのを覚えている。

 最後の訳書となった『ドストエフスキー未公刊ノート』の編集が詰めの作業に入ったころ、小沼氏の体調はすぐれなかった。未公刊ノートは、ドストエフスキー全集の補完となる二百ページ足らずの本だが、訳注が空白になっていた。大西氏が小沼氏に問い合わせると「資料が、もともとないから」ということだった。大西氏は「私が書こうかとも一瞬考えたが、やはり小沼氏の作品ということを考え、そのまま出版した」という。

 小沼氏は、一九九七年七月に『ドストエフスキー未公刊ノート』を出した。その翌年、一九九八年十一月三十日に死去する。喪主は、妻の勝子さんだった。

 

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清水正氏(左)と小沼文彦氏(右)日本大学芸術学部文芸学科研究室にて

 

【嫉妬と憎悪で苦しんだ私生活】

 清水正・元日本大教授は、小沼氏が死去した翌年『D文学通信554号』に「ロシア文学者・小沼文彦氏との三十年」を掲載し(『江古田文学41号』などに再録)、小沼氏の複雑な性格について明らかにした。嫉妬や憎悪に苦しみ、感情をコントロールできず、夫人につらい態度で接していたことがわかる。

 

 ある日、夜遅く奥様から電話があった。何事かと思えば、小沼氏が家出をして帰ってこないという。何か気にくわないことがあったり、嫉妬の感情に襲われるとこういうことになるらしい。わたしはどうすることもできず、またそういうごく身内の話をされる奥様がふしぎでもあった。が、奥様が語ってくれた小沼氏の様々なエピソードはとにかく面白かった。(「ロシア文学者・小沼文彦氏との三十年」より)

 

 五十台半ばの小沼氏と大学生の清水氏が初めて会ったのは、一九七〇年に都内で開かれた「ドストエーフスキの会」第一回総会の場だった。自費出版した「ドストエフスキー体験」(清山書房・一九七〇年一月)を小沼氏が二冊購入した。その後、清水先生は約一年にわたり毎週日曜日に小沼氏のマンションを訪れ、ドストエフスキーとの出会いや翻訳について話を聞くような関係になる。

 

 二度目に小沼氏にお目にかかったのは渋谷のマンションにおいてであった。小沼氏は渋谷のマンション一室を借り切って「日本ドストエフスキー協会資料センター」(注:住所の説明略)を開設しておられた。紹介してくださったのは、近藤承神子さんである。(注:近藤氏の紹介略)ドアの上に「日本ドストエフスキー協会資料センター」の看板が眩しく光っていた。近藤さんと私は小沼夫妻に迎えられ、部屋の中へと足を踏み入れた。部屋の四方の壁はガラス付きの書棚になっていて世界各国のドストエフスキー全集や研究書が整然と並んでいた。(「ロシア文学者・小沼文彦氏との三十年」より)

 

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ドストエフスキー曼陀羅』別冊鼎談ドストエフスキー(2008年1月)に掲載

 

【渋谷に設立した資料センター】

 小沼氏は一九七〇年に東京・渋谷に「日本ドストエフスキー協会資料センター」を設立した。ドストエフスキーに関する国内外の膨大な資料を集めた。週末はドストエフスキーの愛読者を受け入れ、作品の研究会も開いた。ロシアを専門とする雑誌のコラムで、小沼氏がセンターについて自ら説明している。

 

 おこがましくもドストエフスキーの「資料センター」なるものを開いてから、早くも一年八カ月になります。その間、一日の休みもなく、日曜日を返上して、延べ一千人に及ぶ来館者の方々のお相手をしたわけですから、われながらよくからだがつづいたと思います。

 最初はそれも気分の転換に役立ち、いいレクリエイションになるなどと、のほほんと構えておりましたが、このごろはさすがに重荷になってきました。そのつもりで覚悟を決めてやりはじめたことですから、いまさら弱音を吐くのはなんともだらしないのですが、六日間みっちりと働き、日曜日は夜半までセンターに詰めきり、さらに毎月八ページの月報をひとりで発行するとなると、これはなかなかの大仕事です。★13

 

 小沼氏は、清水氏に対して大学院進学の学費を負担する話を持ちかける。この当時は筑摩書房版『ドストエフスキー全集』もよく売れ、生活にもかなり余裕があったとみられる。

 

 小沼氏は大学四年になったわたしに熱心に大学院進学を勧めた。「経済的に問題があるなら、あなたを日本ドストエフスキー協会の会員として給料も払いましょう」とまで仰って下さった。その日、小沼夫妻は自宅に帰り、わたしは一人、資料センターに泊まることになった。一度はベッドにもぐりこんで寝ようとしたのだが、どうも頭が異様に冴えて眠るどころではない。部屋中に小沼氏の神経の網の目が張りめぐらされているようでなんとも居心地が悪い。小沼氏は純粋にわたしの将来を考えて大学院進学の話をされたのかも知れないが、わたしはガラス付の書棚に入れられて外から鍵をかけられるような感じに襲われた。小沼氏の優しい微笑は時に悪魔の微笑のように感じられる時もあり、なかなか素直に氏の言葉を受け入れることはできなかった。結局、小沼氏の話にわたしは乗らなかった。まあ、こんなこともあって小沼氏との関係も気まずいものとなり、資料センターへの足も自然と遠のくことになった。(「ロシア文学者・小沼文彦氏との三十年」より)

 

 小沼氏の求めに応じ執筆した『罪と罰』に関する原稿を渡したものの、小沼氏がその分析を自著の解説で使ってしまったと明らかにしている。★14これも小沼氏の一面なのだろう。激高しやすい性格の小沼氏は、資料センターを訪れた人たちと口論になりかけたこともあったようだ。

 

 小沼氏はわたしの前ではいつも微笑を絶やさなかったが、なかなか気難しいところもあった。人の好き嫌いも激しく、いちおうそれなりに我慢はしていても、我慢しきれなくなると爆発するといったような性格であった。その激しい性格で人間関係がうまくいかなることも多々あったようである。ある日、小沼氏は自分の部屋に入ったきり一向に顔をださない。そんなことはわたしにとって初めての経験であった。小沼氏はわたしたちがお邪魔すると必ず玄関で迎え入れてくれたからである。心配してさりげなく部屋をのぞくと小沼氏は顔を真っ赤にして怒りを精一杯押さえている。わたしがなんでもない風を装って「先生、こんにちは。お仕事いそがしいんですか」と声をかけた。それからしばらくして小沼氏がみんなの前に姿を現し、「あのとき清水さんに声かけてもらってほんと助かりました」と言う。感情が高ぶると自分でも制御できずに苦しむことが多々あったらしい。(「ロシア文学者・小沼文彦氏との三十年」より)

 

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小沼文彦氏(左)と江川卓氏(右)1986年11月14日、清水正研究室に於いて

 

江川卓とのドストエフスキー論議

 清水氏は、ロシア文学者の江川卓氏を交えた鼎談を企画し、七十代になっていた小沼氏に久しぶりに連絡を取った。このときの議論の内容は「鼎談・ドストエフスキーの現在」★15などで公開された。小沼氏が江川氏に対しトゲのある言葉を発するなど緊張感がある雰囲気で談義が始まっている。清水氏は鼎談の背景を次のように説明した。★16

 

 アルコールがほどよくまわるにつれ、六畳ほどの部屋は熱気に包まれた。筑摩書房から個人訳ドストエフスキー全集を刊行し、世界的にも知名度の高かった小沼文彦、『罪と罰』の謎ときでドストエフスキー愛好者の注目を集めていた江川卓、この二人が心を開いてドストエフスキーを語るのは実はこの席が初めてであった。

 

 座談の席で、小沼文彦がトルストイドストエフスキーが生前一度も会わなかった話を持ち出したのは、江川卓を意識していたからである。二人ともドストエフスキー研究に対する自負があって、この日までお互いに声をかけあうこともなかった。

 

 わたしは小沼文彦の発する言葉に小悪魔的なおふざけ(わたしは〈小股すくい〉と名付けていた)があることを常々感じていた。片方の手でほめながら、同時にもう一方の手は足をすくうように動いている。

 

 小沼氏と清水氏が直接会ったのはこれが最後になった。電話や葉書のやり取りは続き、てんかんを発症した小沼氏と電話で次のような会話をした。

 

 いやあ、これは清水さんですから言いますが、実は私、ついにてんかんになりましてね。散歩の途中で倒れましてね、血まみれになって帰ったんですが、医者をしている兄に見てもらいましたらてんかんだって言うんですよ。私もドストエフスキーを長年、研究してきてようやくてんかんになりました……」こんなに嬉しそうに自分の病気について語る人も珍しい、というかいないであろう。わたしは変な気持ちになって小沼氏の言葉を聞いていた。ライフワークにしたドストエフスキーと同じ病気になったことがこれほど嬉しいとは。(「ロシア文学者・小沼文彦氏との三十年」より)

 

 小沼氏はてんかん発症について、全集を訳し終えた後の随筆★17で「昨年は、あやかるに事欠いて老年に及んで、ドストエフスキーと同病であるという診断を受け、その奇縁に驚くとともに、これで私のドストエフスキーもいよいよ本物に近づいてきたのかななどと、ひとりほくそえんだりしています」と公表もしている。

 実際は、もっと早い時期にてんかんを発症していたようだ。てんかんに対する理解が今日ほどはなかった時代なので、公表をためらっていたのかもしれない。

 生前に交流があった関係者は、てんかん公表のころ小沼氏から「ご存じだったでしょう」「気がついておられたでしょう」と言われたと明らかにした。渋谷に「日本ドストエフスキー協会資料センター」を開設していた当時、頭部正面に三日月のような傷跡があるのを見かけたことがあり「この頃には発症していた」と考えているという。

 

【盛岡に転居した晩年】

 昭和から平成に年号がかわるころ、小沼氏は岩手県盛岡市に転居した。『ドストエフスキー全集』の翻訳は終盤、この地で取り組んだことになる。清水氏への転居通知には、盛岡出身の石川啄木のことが記されている。

 

 すっかり秋めいてきましたがお元気のことと存じます。このたびは大著をお送りいただき、ここ何年かの精力的活動に謹んで敬服の意を表します。ところでお礼のご挨拶が遅れたいへん失礼いたしましたが、実は今般急に表記の地に移転することになり、引っ越しの大騒動で心ならずも後回しになってしまいました。お赦しください。みちのくをついの棲家と定め啄木の渋民村に設けた仕事場で、やり残した仕事をつづけるつもりです。ご健康を祈りあげます。

平成二年九月十日

 

 清水氏に宛てた転居通知を読んだとき、小沼氏が石川啄木に言及していたことを意外に感じた。ドストエフスキーと啄木の作品は、あまりにもかけ離れているように思った。

 小沼氏が亡くなった際の新聞記事をもとに自宅を調べると「盛岡市湯沢南二の一〇の一六」となっていた。啄木の出身地は旧渋民村だが、地図で確認すると小沼氏の自宅とは離れていた。小沼氏は経済的な事情により転居したことを明らかにしたくなかったため、啄木との関係を持ちだしたのだろうか。

 

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小沼文彦氏の夫人、勝子さんがペンネームで刊行した詩集

 

【勝子夫人の詩集】

 筑摩書房の編集者だった大西寛氏から、小沼氏の妻、勝子さんが詩集を書いていたことを教えてもらった。個性が強い小沼氏と一緒にすごす時間が長かっただけに、気苦労は絶えなかったが、深い愛情はかわらなかったようだ。

 英語の下訳の仕事を求めて小沼氏のもとを訪れたのがきっかけで結婚した。小沼氏にとっては三度目の結婚だった。一九二八年生まれなので、小沼氏より十二歳ほど若い。大西氏も何度か勝子さんに会っており、「目がキラキラしていて、精力的な女性だったのが印象に残っている」という。金銭的なことは、小沼氏にかわって、勝子さんが差配していた。

 抑嫉妬と憎悪に苦しんだ小沼氏は、ときに勝子さんに対して激高することがあった。勝子さんが家を出ようとしたこともあったようだ。冷静になった小沼氏が謝罪の態度を示すことで、その場を収めていたようだ。ソ連抑留による心の傷が影響していたと思われるような行動を家庭内で見せることもあった。

 文学少女だった勝子さんは「奥野華子」のペンネームで、教文館から詩集の『白夜のレニングラード 『罪と罰』によせて』(一九八四年十月)と『春は神秘体』(一九八八年三月)』を出した。教文館キリスト教系の出版社で、小沼氏と付き合いがあった関係から出版に至ったのかもしれない。

 『白夜のレニングラード』のあとがきで、勝子さんが家庭の様子を語っている。小沼氏が翻訳に悪戦苦闘し、家庭内がピリピリしていたのがわかる。勝子さんの息づかいも感じられる文章なので、そのまま引用する。

 

 翻訳は外国文学研究のアルファであり、オメガであるとの意気込みで、最高の誇を持ち、日夜それに打ち込んでいる夫の仕事への、求められる形での協力は欠かせません。その上更に欲が深くて、仕事そのものに対して夫が抱いているような、いや、それに負けない程の愛情も持ちたいものと願っていました。〝善きことのために祈る祈りは、必ず叶えられる〟との信念のもとに、気付かれないように、そっと、家事のかたわらに、又、極く小さな時間の断片をも惜しんで祈らずには居られない程、日夜緊張が家中に漲って居りました。

 

 詩集の刊行は、一九七二年夏に小沼氏とソ連を訪れたのが一つのきっかけになった。あとがきで「仕事で行く夫の『一緒について来い』との命令のような一言に胸を躍らせ、もう自分の中では血肉のように思われていたドストエフスキーの生地、ロシアの大地を踏む幸運に恵まれたのです」と述べている。

 

【夫人が語った強烈な個性】

 勝子さんは詩集のあとがきで、小沼氏を『罪と罰』の主人公にたとえ「我が家のラスコーリニコフ」とよびながら、旅行先で抱いた夫への思いを語っている。勝子さんが五十五歳か五十六歳ころの文章だ。

 小沼氏について「強烈な個性の持主」「不気味な二重性」「常人の数十倍(?)とも思えるような狂気の、奔流の如きエネルギーを見せる人」という表現がある。家庭では暴君のように振る舞った小沼氏が発した言葉もそのまま記されている。翻訳に関して「作品の世界にピタリ相似形のように嵌りこむまでは、意味が解ったからといって、決して筆を進めようとはしない」と厳しい姿勢で取り組んでた様子を描いている。ユーモラスな文章であるものの、ときに修羅場のようだった二人の生活を想像すると、哀しみのようなものを感じる。

 

 団体行動から解放された自由時間内は、静かにゆっくりと街を歩き回りましたが、『罪と罰』の世界そのままを見る思いでした。

 ニェヴァ河の河岸に立っていると、何時の間にやらラスコーリニコフが同じように佇んで河面を見つめている錯覚を、その時ふと感じましたが、今でもそれが身近に甦って参ります。

 初めて見る白夜の幻想的な夜に、うっとりしている私の傍らで、同じようにニェヴァ河の河面にじっと見入っていたのは、小説の主人公ではなく、我が家のラスコーリニコフでした。

 この上なく強烈な個性の持主でいながら、作品の世界にピタリ相似形のように嵌りこむまでは、意味が解ったからといって、決して筆を進めようとはしない人、彼自身とは正反対に見える没個性の世界に、その強烈過ぎる程の個性を完全に零(ゼロ)にして、原作に日夜いどむ態度にならっての意味か、〝自分を全く無にせよ! 存在しないと思え!〟と宣い、一寸の虫程の五分の魂すらも絶対に認めずと豪語し、私にも〝無〟という極限を、苛酷に、芸術的に求め続けたように、自分自身もその極限に向かって、不気味な二重性をうかがわせながら、魔物のようにスルリと嵌りこむ特技を持ち、その時のすさまじい集中力と烈しい燃焼は常人の数十倍(?)とも思えるような狂気の、奔流の如きエネルギーを見せる人、の姿が其処にあったのです。

 両極端の振幅の極まった状態、毎日の生活そのものを、何時も極限の緊張状態に追いつめ、そうした極度の緊張関係の空気を貪欲に餌として生きている人、ドストエフスキーの作品の密度の息苦しさをそのまま生きている様な人なればこそ、ニェヴァ河の橋上に立たずとも、屡々ラスコーリニコフを、他の登場人物をも時をかえて彷彿とさせるのでしょう。

 神の存在についても疑問形のままで、聖書の知識と信仰は別ということを、私に思い知らせたのも他ならぬ我が家のラスコーリニコフでした。今では共に未熟ながらカトリック信者、キリストの子羊の道を歩み始めて夫は十年余になります。

 

 夫婦に子供はいなかった。小沼氏が亡くなった後、勝子さんは岩手の親類の世話になりながら暮らした。二〇二一年末の時点、盛岡市内の高齢者施設で穏やかに過ごしている。

 

キリスト教に洗礼】

 小沼氏は、五十歳で洗礼を受けている。『ドストエフスキー全集』刊行が始まって、しばらくしてからだ。『悪霊』の翻訳で精神的に苦しんだのが洗礼の決め手になった。小沼氏が洗礼について振り返った「『悪霊』に導かれて」から続けて引用する。

 

 お茶の水の高等師範を出てから間もなくこの世を去った、クリスチャンであった長姉に連れられて、子供のころから教会に通いなれた私は、中学に入ってからは当時の軍国主義の影響もあって、教会へ通うのはやめましたが、聖書だけはいつもはなしたことがなく、聖書の物語りには精通していました。留学時代には学友にさそわれるままにギリシャ正教の教会にもかかさず通いつめましたが、自分からその中へ飛びこんで受洗しようという気にはついになりませんでした。しかしいまから思えば、神だけはやはり信じていたのです。そして生意気にも、聖書を読み、キリスト教の精神にのっとった生活をし、なによりもまず神さえ信じていれば洗礼などは受けなくてもいいのだと、かたくなに思いこんでいました。

 

 日本に帰って、特にドストエフスキーの個人訳に取りかかってから教会遍歴がはじまりましたが、どの教会も私の心をなごませてはくれませんでした。

 

 翻訳の仕事が『罪と罰』から『カラマーゾフ兄弟』に進み、さらに『悪霊』に取り組むようになったとき、私ははじめて自分の誤りに気がついて極度の絶望にかられるようになりました。自我のかたまりである自分にはこのままでは救いがないことがはっきりとわかったのです。

 

 「今度会うときには、君はきっと神を信じているでしょうよ」というスタヴローギンのことばほど私の胸をぐさりと刺したものはありませんでした。

 このへんのことは悪霊論としてもっと詳細に論じなければならないのですが、とにかく私はそれまで漠然としていだいていた神への信仰を、ドストエフスキーを信頼することによって、つまりドストエフスキーを心の牧師として身につけようと覚悟を決めました。

 ちょうどそんなとき八十年の光栄ある伝統をもった静岡英和が短大を創設することになり、私もその教員の一員に加わることになりました。これだ、この機会をおいては私は一生救われないぞという霊感に打たれた私に、「ためらわずに行け!」とういドストエフスキーの声がはっきりと聞こえました。

 

 小沼氏は、キリスト教系の静岡英和の短大創設に関わっていた。一九六六年十二月十七日に、創設間もない静岡英和の学院教会の仮礼拝堂で洗礼を受けた。

 

 五十歳になって入信した私に奇異の目をみはり、よくまあその年で決心がつきましたねと珍しい現象のようにたずねる人もおりますが、私にとってはそれは奇異なことでもなんでもないのです。ただ四十年来の生活にひとつのけじめをつけただけの話なのです。傍観者の立場を棄てただけのことなのです。(「『悪霊』に導かれて」より)

 

 この短大は、静岡メソジスト教会の牧師らが設立した学校がルーツという。小沼氏は「『悪霊』に導かれて」の原文の一部を削除したうえで、『ドストエフスキーの顔』に収容している。付記として「その数年後に私はカトリックに改宗しました」「稿を改めてまた語るときもあろうかと思います」と述べている。 

 ともに翻訳書を出した冷牟田幸子さんは、小沼氏がその後にカトリックへ改宗した経緯を知っていた。「プロテスタントに入信されてのちカトリックに変わられました。四谷のイグナチオ教会で改めて洗礼を受けたと聞いております。一つには、慈母のように先生に接してこられた奥様の信仰の姿に導かれてのようです」と述べている。

 

米川正夫への評価】

 小沼氏は『ドストエフスキー全集』に取り組む前、米川正夫の翻訳を厳しく批判していた。終戦で帰国したものの、ロシア文学の「大家」に隠れ、ドストエフスキー作品を翻訳する機会が得られなかった事情も影響したとみられる。

 日本出版協会の『書評』(一九四九年六月)に掲載した「ロシア文学憎まれ帖」で、米川が『罪と罰』から『カラマーゾフの兄弟』にいたる五つの大作を翻訳したことに触れたうえで次のように指摘している。旧仮名遣いをあらためて引用する。

 

 ロシア文学というと氏の名前を、氏の名前をいえばロシア文学とわれわれが直ぐに連想するように、ロシア文学に於ける氏の事業は実に偉大である。この点については、俺は琴の方が本格なのだといくら力説しても世間が承知しまい。

 そこで要するに氏一人の筆によって、われわれはこの魂の糧を得て来たのだといっても言い過ぎではあるまい。いずれにしてもこの大作が殆ど氏一人の筆によって、三十数年もの間、あらゆるわが国の知識青年の魂の糧となって来たという事実に、私は並々ならぬ意義を認めるのである。

 その訳が真に良心的なものであり、比較的正確なものであったならば問題はない。だが事実は?

 ずらずらっと頭も終わりもない比較的読み易い日本文になっている、所謂こなれた日本文になっているという点を除けば、この翻訳は、誤訳、曲解、脱漏至らざるはなき無責任極まるものではないか。

 この日本文として一応読めるという点とその精力が氏を今日の大に★「大に」の右に強調の点★至らしめたものと思うが、少なくとも前記五篇の訳業は、僅かに「罪と罰」を除けば全くお粗末の一事につきる代物。個々の例を引用することはやめにするが、このような訳によってドストイェーフスキーの大が語られ、多くの評論が書かれ、座談会が催されて来たという事実に、誇張していうならば慄然たるものを感じる。雑誌「近代文学」及び「個性」がドストイェーフスキーを語る座談会を行ったが、あれなぞも米川的ドストイェーフスキーに、あれこれ理屈をつけているという風にしか、私には思えない。一つの大きな結論を抽き出して来べき原文の引用が、若しも正確なものでなかったならば、その結論は一体どういうことになるのだろう。

 彼の作品には至るところに網が張られている。随所に伏線が張られて、他日の発展の基点となっている。ところがこれを翻訳で見ると、これらの伏線はあっさりと無視されるか、看過されて、原文の興味と迫力は半減されている。

 思えば哀れなわれわれである。また思えば偉大なドストイェーフスキーである。あれほど杜撰な訳によってもかくの如き強烈な感銘を与えるとは!

 あの訳によって魂を揺すぶられ、息つくひまもなく迫力に圧倒されたという人達は直接原文を読んだら発狂する以外に途はないだろう。

 これは要するに、氏が何でもや★「何でもや」の右に強調の点あり★である当然の帰結で、二十三才にして「白痴」を訳し、以来三十数年、あらゆる古典作家から北極探検記に至るまで、凡そロシア語で書かれたものは何でもという氏に、剃刀の如き訳を求める方が無理なのだ。人には各々得手がある。氏はあくまでも紹介者である。そしてその任務を実に見事に成しとげた、日本文化史にいや日本外来文化攝取史に不滅の金字塔を打ちたてた文人である。その努力には全く敬意を表するが、欲を言えば氏が三十年来培われた現在の実力をもって、せめてドストイェーフスキーの長篇なりとも改訳してくれたならば、世を益すること極めて大なるものがあると思う。しかし双手に斧を振り上げて、ばったばったと大森林を伐り倒す氏に、小刀をもってする彫刻を求めるのは所詮は叶わぬ夢であろうか。

 

 いま出回っている米川訳の作品は、ロシア文学者の子息らによる改訳などがほどこされているが、古い翻訳に関しては小沼氏が指摘するような問題があったのかもしれない。

 小沼氏は、米川訳の全集を傍らに置いて参照しながら、筑摩書房版『ドストエフスキー全集』の翻訳に取り組んでいた。全集刊行から十年余りが経過しても、米川訳への批判の手を緩めなかった。一九七五年に書いた文章で、米川訳とされる全集は、複数の訳者が下訳をしていたと指摘している。★18

 

 だが巷間には米川氏に敬意を払いながらも、あれはかならずしも氏の個人訳ではなく、何人かの若い翻訳者の手を借りたものであるという風説があり、いわば、知る人ぞ知る公然の秘密となっている。

 (14)の愛蔵決定版は(注:一九六九年刊行の河出書房新社版全集)、完璧を望むあまりであろうが、ご子息の米川哲夫氏をはじめ、若手の研究者が手を入れたと明記してあるので、体裁はととのったものの、米川正夫個人訳の実はすでに失われている。

 したがってこれは別格としても、それ以前の全集にも米川訳でないもの(つまり下訳をさせたもの)がはいっているという噂は、相当根強い。下訳をさせること自体は当時は普通のことで、昇曙夢氏も、原久一郎氏も、常連の下訳翻訳者をかかえていたものだし、下訳翻訳者を使わなかったのは、おそらく、中村白葉氏ぐらいのものではないかと思われるので、別に非難されるほどのことではなかったろう。

 いい趣味ではないが、裏話として言えば、米川氏のドストエーフスキイ全集に、こうした下訳ものがいくつか含まれていることは確かであり、筆者も村田春海氏をはじめとして、いずれも物故された二、三のかたから、「あれはわたしがやったんですよ」という自嘲気味の言葉を聞いたことがある。また現に真偽のほどは不明ながら、「わたしがお手伝いをしました」と吹聴している、弟子と自称する人もいて顰蹙を買っている。

 もっとも、米川氏は人物なので、そのような些事に拘泥することなく、清濁あわせのんだものと思われる。したがってこの個人訳全集に羊頭狗肉などとけちをつけるのは野暮の骨頂で、文化遺産としての価値は損なわれるものではないと愚考する。

 

 この文章は一九七五年一月の『学鐙』所収の「初期のドストエフスキー全集」から引用したが、筑摩書房から一九八二年三月の刊行した『ドストエフスキーの顔』にも同じ文章を収めている。小沼氏は、随筆とは別人のように、舌鋒鋭く批判している。自分こそが初めて個人で全訳を成し遂げたという自負があったのだろう。

 米川による全集の「創作ノート」に全訳ではなかったものがある。こうした事情もあり、個人訳のドストエフスキー全集は、小沼訳こそが唯一であるということを強調したい意図があったのかもしれない。

 

 一九七八年に書いた次の文章では、米川がドストエフスキー作品を日本で紹介してきた功績を高く評価している。翻訳の質と切り離して判断するという考えを示したのだろう。

 

 しかしここで特筆大書しなければならないのは、やはり米川正夫という巨人のことであろう。毀誉褒貶相半ばするとはいえ、『白痴』初訳以来、五十年にわたってロシア文学の移植にたずさわり、世界に誇るべき『ドストエフスキイ全集』を世に送った米川正夫の偉業は、当然のこととしてあまり言及されることはないが、これではなんと言っても片手落ちのそしりは免れない。★19

 

【貴重な蔵書の行方】

 清水正・元日本大教授は、小沼氏が所蔵していた蔵書が極めて貴重だったと指摘している。病的ともいえる態度で、ドストエフスキー関連の文献収集に努めていたことを「幻の雑誌『露西亜文學研究』と米川正夫訳『青年』をめぐって 文献収集家としての小沼文彦氏の或る一面」★20で紹介している。

 

 小沼文彦氏はドストエフスキー文献の収集家としても知られていた。何しろ全世界のドストエフスキー文献を収集しようというのだから中途半端ではない。日本の文献に関してもドストエフスキーに関する評論やエッセイが掲載されていれば同人雑誌やパンフレットの類にまで及んでいる。もうこれはほとんど病気みたいなものである。ご本人もよくそのことを自覚されていて「いっそのこと、みんな燃やしたいという気持ちになることもあります」と口に出すこともあった。

 

 これらのドストエフスキーに関する文献の行方について調べたところ、小沼氏は生前、蔵書の一部を上智大に寄贈していた。上智大の図書館に問い合わせると、一九九〇年から一九九四年にかけて和書九十五冊、洋書一千二百六冊の計一千三百一冊を受け入れたという。小沼氏がロシア語で書いた本も含まれている。

 上智大は「本学の蔵書として、大切に利用しており、破損した図書については修理するなどしてきましたが、うち六十九冊の図書については、修理できないほど破損した等の理由ですでに除籍しており」とのことだった。破損しかけても寄贈したのは、どのような本だったのだろう。よほどの思い入れがあったのかもしれない。翻訳のために繰り返し参照しボロボロになった本だろうか。ソ連の抑留から持ち帰った書籍も含まれていたという気もする。

 寄贈の経緯について、上智大の担当者は「当時対応した職員が残ったため臆測に過ぎないのですが、少なくとも当館での受け入れ記録が一九九四年より前となりますので、小沼氏がご存命の間にご意志によってご寄贈いただいたものと思われます。小沼氏がカトリックの信者だったことと、本学がイエズス会が設立した大学であること、本学にロシア語学科があることから、選んでいただいたのではないかと思われます」と述べた。

 ドストエフスキーイエズス会を嫌っていたとの見方があるにもかわらず、イエズス会を設立母体とする上智大に蔵書を寄贈したのは、なんとも不思議だった。

 筑摩書房の編集者だった大西寛氏によると、小沼氏は当初、早稲田大へ蔵書を移す考えだった。早稲田大の新谷(あらや)敬三郎教授との話がうまくまとまらなかったため、計画は立ち消えとなったという。小沼氏が気を悪くしたため『ドストエフスキー全集』の月報に新谷氏が書いていた連載は中止になったそうだ。

 

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田村書店で購入した『ドストエフスキー全集』

 

 小沼氏が亡くなった後、東京・神保町の田村書店が約八百冊の蔵書を引き取った。田村書店の奥平晃一(おくだいら・こういち)氏が生前に親しく付き合っていた。小沼氏について「気難しい方だったが、わざわざベッドから降りてきて、熱心に話しているのを見た奥さんが驚いていた」と振り返った。★21

 田村書店は小沼氏の死後、蔵書を少しずつ店頭に売りに出した。最後まで残っていたのが、私が購入した『ドストエフスキー全集』の「校正本」だった。店の方によると「倉庫にしまったまま売り出すタイミングを待っていた。コロナ禍により在宅の人が増え、ドストエフスキーが静かなブームになっていたので販売すると決めた」ということらしい。

 

【あとがき】

 一九七二年に刊行が始まった小沼訳『ドストエフスキー』全集は、二〇二二年が刊行開始からちょうど六十年の節目に当たる。

 編集者だった大西氏へのインタビューは、筑摩書房の喜入冬子社長にお願いし実現した。インタビューは二〇二一年十月末だったが、大西氏が「もうすぐ命日ですね」とつぶやいのが、印象に残っている。実直な人柄の大西氏は、小沼氏について「担当者としては、マイナス面を世間に知られたくない気持ちはある」と明かし、関係者を傷つけることがないよう言葉を選びながら慎重に語った。

 ただ、ドストエフスキーに関連した他の著者の出版物については「つまらない本です」「大事な本です」と厳しい言葉で語った。昔気質の編集者らしさを垣間見た気がした。大西氏の編集者としての人生のかなりが小沼氏との仕事だった。ある意味で「この編集者にして、この翻訳あり」と思った。

 小沼氏の生前を知る人たちにとって没後二十年余りというのは微妙な年月のようだ。興味深いエピソードをうかがったものの、書くのを見送ったものもある。「まさか」と驚くような事実もあった。小沼氏は自らについて多くを語らなかっただけに、生前を知る方々は私が調べた内容について「知らないことが多かった」と語った。

 小沼訳の『ドストエフスキー全集』をすべて所有しているの何人くらいだろうか。どういう動機で購入したのだろう。おそらく刊行当時は、ほかの翻訳と比べて読みやすい、もしくは、『未成年』の「未公刊ノート」をはじめ最も多く翻訳がなされているといった理由だろう。

光文社の古典新訳文庫のほうが読みやすい。小沼訳は寿命が近づいたのだろうか。

 筑摩書房が小沼氏の翻訳作品を「作家の日記」以外は文庫本として出版しなかったのは、新潮文庫などに価格面で太刀打ちできないと判断したからという。絶版になっていないのは岩波文庫の『二重人格』や角川文庫の『白夜』などごく一部だ。

 小沼氏は、翻訳した日本語が読者にいつまで受け入れられるかについて「五十年以上の寿命は望めないのであり、それが翻訳の、そして翻訳者の悲しい宿命なのであろう」★22と述べていた。一方で「評論家にも、作家にもなれない、学者にもなれない、その才能のない一介の翻訳者にすぎない、ドストエフスキーの翻訳者であることに最高の満足を感じ、生き甲斐を覚えている」(「『悪霊』に導かれて」より)との考えも述べていた。

 小沼訳の価値は、ソ連による抑留や信仰といった訳者の人生を踏まえて取り組んだ「魂の翻訳」だった点ではないかと思う。今では『悪霊』や『死の家の記録』の訳文は必ずしも読みやすいというわけではないが、小沼氏のうめきのようなものを行間から感じる。訳者が全身全霊をかけて取り組んだ翻訳が少しでも長く読み継がれほしい。この文章はそういう読み方を補うものと考えている。

 

★1 紅野敏郎井伏鱒二と小沼達」『群像』37、一九八二年三月

★2 小沼文彦「命なりけり」『ちくま』、一九九一年八月

★3 小沼文彦「洋画のスーパー」『随筆』、一九五六年九月

★4 小沼文彦「ドイツ人の豪胆さ」『文芸春秋』、一九八二年九月増刊号

★5 小沼文彦『ドストエフスキーの顔』(筑摩書房、一九八二年三月)所収「翻訳五十年」

★6 小沼文彦「金沢は文化の谷間か」『北国文化』、一九五一年十月号

★7 小沼文彦『随想ドストエフスキー』(近代文芸社、一九九七年五月)所収「ドストエフスキーへの道」(一九六三年)

★8 小沼文彦(『ドストエフスキーの顔』(筑摩書房、一九七二年)所収「翻訳五十年」(『黄塵』、一九六八年八月)

★9 小沼文彦「犬とは何であるか」『文芸春秋』、一九六二年十二月

★10 小沼文彦『随想ドストエフスキー』(近代文芸社、一九九七年五月)所収「ドストエフスキーへの道」(一九六三年)

★11 清水正ロシア文学者・小沼文彦氏との三十年」『江古田文学41号』、一九九九年十一月

★12 小沼文彦「命なりけり」『ちくま』、一九九一年八月

★13 小沼文彦「まぼろしの名著」『窓』、一九七二年七月

★14 清水正「ソーニャの部屋 リザヴェータを巡って」『江古田文学107号』、二〇二一年七月

★15 『江古田文学12号』、一九八七年五月

★16 清水正清水正ドストエフスキー論全集11』(D文学研究会、二〇二一年五月)所収「ドストエフスキー放浪記」

★17 小沼文彦「命なりけり」『ちくま』、一九九一年八月

★18 小沼文彦「初期のドストエフスキー全集」『学鐙』、一九七五年一月

★19 小沼文彦『随想ドストエフスキー』(近代文芸社、一九九七年五月)所収「人道主義的受容の時代」

★20 『江古田文学42号』、一九九九年十一月

★21 奥平氏は二〇二一年十一月に死去。

★22 小沼文彦「初期のドストエフスキー全集」『学鐙』、一九七五年一月

 

【著者プロフィール】

番場恭治(ばんば・きょうじ)一九六七年石川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。共同通信社の経済部、中国特派員などを経て、現在は経済部担当部長。ノーベル文学賞を受賞した莫言氏への北京でのインタビューなど中国における取材をもとにした新聞連載をまとめた共著『中国に生きる 興竜の実像』(株式会社共同通信社、二〇〇七年六月)がある。

ネット版「Д文学通信」編集・発行人:清水正                             発行所:【Д文学研究会】

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清水正・批評の軌跡」展示会場にて(9月1日)伊藤景・撮影

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清水正・批評の軌跡」展示会場にて(9月1日)伊藤景・撮影

 

 

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動画撮影は2021年9月8日・伊藤景

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清水正・批評の軌跡Web版で「清水正ドストエフスキー論全集」第1巻~11巻までの紹介を見ることができます。下記をクリックしてください。

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清水正著『ウラ読みドストエフスキー』を下記クリックで読むことができます。

清水正•批評の軌跡web版 - ウラ読みドストエフスキー

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韓国語訳『ウラ読みドストエフスキー』はイーウンジュの翻訳である。イーウンジュはわたしの教え子で拙著『宮崎駿を読む』の翻訳者でもある。現在、ソウルで著作活動に励んでいる。

 

「松原寛と日藝百年」展示会の模様を動画でご案内します。

日大芸術学部芸術資料館にて開催中

2021年10月19日~11月12日まで

https://youtu.be/S2Z_fARjQUI松原寛と日藝百年」展示会場動画

https://youtu.be/k2hMvVeYGgs松原寛と日藝百年」日藝百年を物語る発行物
https://youtu.be/Eq7lKBAm-hA松原寛と日藝百年」松原寛先生之像と柳原義達について
https://youtu.be/lbyMw5b4imM松原寛と日藝百年」松原寛の遺稿ノート
https://youtu.be/m8NmsUT32bc松原寛と日藝百年」松原寛の生原稿
https://youtu.be/4VI05JELNTs松原寛と日藝百年」松原寛の著作

 

日本大学芸術学部芸術資料館での「松原寛と日藝百年」の展示会は無事に終了致しました。 

 

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