ネット版「Д文学通信」25号(通算1455号)番場恭治「筑摩書房版『ドストエフスキー全集』を翻訳した小沼文彦氏」
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ネット版「Д文学通信」25号(通算1455号) 2021年11月30日
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「Д文学通信」 ドストエフスキー&宮沢賢 治:研究情報ミニコミ誌
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番場恭治
ロシア文学者の小沼文彦氏が翻訳した筑摩書房版『ドストエフスキー全集』が完結してから今年秋で三十年。きょう(十一月三十日)は、小沼氏の命日だ。八十二歳で亡くなってから、二十三年が経過したことになる。
小沼文彦氏
今月十一日はドストエフスキーの生誕二百周年だった。評論家の佐藤優氏が文芸春秋から出した『ドストエフスキーの預言』は光文社の古典新語訳を引用に使っていた。訳者と交流があったのが理由と思われるが、わかりやすさを目指した翻訳が広く受け入れられつつあるのだろう。
小沼氏は半世紀以上も前に、平易な日本語によるドストエフスキー作品の翻訳を目指した。わかりやすさだけでない。原文に忠実な翻訳との両立も狙った。小沼氏自らは「翻訳の寿命は五十年」と語っていたが、とんでもない。小沼訳のドストエフスキー作品は、現代のわれわれが読んでも読みやすい。
小沼氏が生前に所有していた『ドストエフスキー全集』を古書店で購入したのがきっかけで、生前に交流があった人たちから話を聞いてきた。大学生のときに小沼氏のもとを頻繁に訪れていた清水正先生をはじめ、元編集者、一緒に翻訳書を出版した方々だ。
話す人によって小沼氏の人物像は大きく異なっていた。清水先生は「感情をコントールできず嫉妬と憎悪に苦しんだ」と評したが、元編集者は「笑顔のロシア文学者」と語った。接する人によって、まったく別人のような顔を見せていた。
清水先生の教え子に当たる大学教員から「どうして小沼氏のことを熱心に調べるのか」と質問された。ひと言で説明できないが、常人ばなれした複雑な性格に興味を抱いたことと、全身全霊で打ち込んだ「魂の翻訳」ともいえる業績を後世に伝えるためと思っている。
これまで「D文学通信」に小沼氏に関する計五本の文章を掲載していただいたが、掲載後にわかった事実もいくつか出てきた。「命のビザ」で知られる杉原千畝氏との関係や、全集翻訳の様子なども盛り込んだ上で全体を書き直すことにした。
来年は、筑摩書房版『ドストエフスキー全集』刊行が始まってから、ちょうど六十年の節目となる。次の世代を担う人たちがネット上で読みやすいように、出典を明記しなかった部分もあるが、今回は容赦してほしい。D文学通信に書いた過去の文章を参照すればわかるようになっている。全体を精査した文章は別の機会にあらためて書きたいと考えている。
【1】秀才ぞろいの兄弟
小沼氏は一九一六年(大正五年)三月二十一日に生まれた。ドストエフスキーの没後、三十五年が経過していた。第一次世界大戦のまっただ中であり、この年の五月に夏目漱石が『明暗』の連載を始める。翌年にロシア革命が起きた。埼玉県浦和市(現さいたま市)の出身で、六人兄弟の末っ子だった。
双子で生まれ、七カ月の未熟児だった。自虐的に「(生まれた姿は)イカのようだった」と周囲に語っていたという。兄の小沼十寸穂(ますほ)氏は広島大医学部の教授を務めるなど一家は秀才ぞろいだった。
小沼氏は、どちらかというと勉強は不得手であった。「どこの家庭にも出来そこないがいるものだ」と教師から面罵されたり、「幼少期に病気でもした影響が残っているのか」と真顔で質問されたりしたこともあったという。
運動神経は抜群だった。成人してからの体型を「小柄な私には畸形ともいえる胸囲一メートル」と語っているが、得意の体操では全国大会で優勝するレベルだった。演説も得意で「弁論大会に出れば県下、全関東、全日本とこれまた優勝につぐ優勝なので、先生方も呆れて物が言えない始末です」と回想している。
慶應義塾大の文学部哲学科で学んだ。専攻は心理学だった。体操に熱中していた大学時代に突然、ドストエフスキーの作品に目覚める。初めて読んだのは中学三年のころだったが、大学生になって読み直し、亡くなった兄のことを思い出したという
この兄とは、二十六歳で亡くなった小沼達(いたる)氏である。一九〇三年生まれなので十歳以上も年が離れている。達氏は早稲田の第一高等学院を経て、露文科に進み、のち国文科に転じた。同じ早稲田出身の作家、井伏鱒二と同人雑誌を始め、自ら短編小説も執筆していた。岩波文庫からツルゲーネフの「プウニンとバブリン」の翻訳を出した年に亡くなっている。
私に、これではいけない、この世には考える世界があるのだ、肉体を使ってサーカスのまねをするのなら猿でもできる、と指摘してくれたのです。いくらかスポーツに疑問を持ち始めたところでしたので、その印象は強烈でした。スポーツの世界ではやるだけのことはやったと感じた私は、思い切ってスポーツを棄て、それまでの生活に終止符を打ちました。その一年後には将来の志望もロシア文学と決まっていました。(『月刊キリスト』(教文館、一九六七年十一月)の「『悪霊』に導かれて ドストエフスキーと私と聖書」より)
【2】東欧留学、ソ連に抑留
小沼氏はロシア語がまったくできなかった。学校でロシア語をゼロから習うのもためらった。一九三七年に始まった日中戦争の影響により普通の手段では留学も困難な状況になっていた。そこで、政府派遣の外務省留学生への挑戦を決意し、一夜漬けの勉強が始めた。
子供の時分から記憶力は抜群だった。在学中にNHKの試験にも合格しており「雑駁な知識だけは誰にも負けない自信がありました」と語っている。国際法、経済学、財政学を丸暗記し、試験に合格した。
二十三歳で欧州に向かう小沼氏は「神戸から欧州航路の客船に乗り込んだときには希望で胸がはちきれ、まさに天にも昇る思いでした」と回想している。
しかし、この一九三九年は、五月にノモンハン事件、九月にはドイツのポーランド侵攻に続き、英国とフランスによる宣戦布告で第二次世界大戦が始まった。激動の幕開けとなる年だった。
小沼氏の留学先はバルト三国の一つのラトビアの首都リガだった。かつてロシア帝国の一部だったが、この時代は独立国家であり、ラトビア語だけでなく、ロシア語を話す住民も多かった。日本政府にとっては、ソ連に関する情報を収集する拠点という位置づけだった。バルト三国の真ん中にあり、この当時は人口、面積とも最大の国だったという。
ロシア語の学習は個人レッスンのような形式だった。意思の疎通ができずに、ドイツ語で授業を受けるようになった。一年もするとロシア語に慣れ、日常生活に不自由を感じない水準にまで上達した。
戦況の激化は、小沼氏の留学生活も大きく変えた。ソ連の侵攻によりラトビアを離れた。留学先はその後、ブルガリア、ルーマニアへとうつる。
ブルガリア時代は、トルストイの『戦争と平和』を三回朗読するという指導により「もはやロシア語は私にとって外国語ではなくなっていました。日本語を使わない何年かの生活がやっと実を結んだわけです」と述べている。このころロシア文学に関する著書をロシア語で執筆し、出版している。
最後に学んでいたルーマニアで、小沼氏はソ連軍侵入により逮捕される。自宅軟禁を経て、収容所に入った。ロシア語を長く学んだためスパイと疑われ、厳しい調べを受けた。手錠をかけられたり、箱のようなものに押し込められたりといった過酷な体験もした。
小沼氏は二十九歳から二年にわたり収容所などでの生活を体験した。ドストエフスキーは二十八歳から四年にわたりシベリアで刑に服した。偶然とはいえ、二人とも三十歳を挟んだ時期に極寒の地で厳しい体験をしたことになる。
この過酷な体験が『ドストエフスキー全集』の翻訳において影を落とすことになる。ドストエフスキーがシベリア流刑の体験をもとに描いた『死の家の記録』の翻訳を、小説の翻訳では最後にまわしたのだ。自身の抑留体験が心の傷となって作品と向き合うことができなかったとみられる。後で詳しく説明する。
【3】杉原千畝夫人の妹と結婚
小沼氏は一九四七年に帰国した後、ルーマニアの収容所で知り合った菊池節子さんと結婚する。ユダヤ人へのビザ発給で知られる杉原千畝氏の夫人、幸子さんの妹だった。
杉原氏がリトアニア領事館の領事代理となったのは一九三九年。小沼氏もこの年、ラトビアに到着した。同じバルト三国であり、両国の距離は東京と静岡県西部くらいにすぎない。二人は後にルーマニア公使館の同僚となる。
小沼氏と結婚した節子さんは、戦前から杉原一家と東欧などで暮らしていた。杉原一家と節子さんが一緒にいる写真もあるが、当時の日本人女性としては、かなり目鼻がはっきりしたタイプのようにみえる。節子さんは長女「いずみ」を生んだ三カ月後、一九四八年十一月に病気で亡くなった。
杉原氏の妻、幸子さんは『六千人の命のビザ 新版』(大正出版、一九九三年十月)において「妹亡き後すぐに、小沼さんはロシア語の翻訳をともにする方と結婚しました。日頃から子供は好きでないという人でしたので、私はいずみを貰って育てたいと思ったのですが、養女に望まれて他家の子になりました」と当時の事情を明らかにしている。
小沼氏は帰国した一九四七年の十二月に世界文学社からロシアの作家、ガルシンの『四日間』を出した。ドストエフスキーの作品を翻訳したくても、当時のロシア文学研究者や出版社の慣習により、できなかったのが実情らしい。ロシア文学研究の先達が訳した作品には手を着けないと言った不文律があったようだ。
ドストエフスキー作品を初めて翻訳して出版したのは、一九五〇年十月に三笠書房から出した『虐げられた人々』とみられる。翌一九五一年五月に新潮文庫で『白痴』を刊行したのに続き、岩波文庫で一九五四年一月に『二重人格』を出した。三笠書房から一九五七年四月に『罪と罰』、翌一九五八年三月に『カラマーゾフ兄弟』を出版したが、いずれも抄訳だった。
三十五歳の小沼氏は、金沢大講師として一九五一年五月に赴任する。金沢の北陸放送のラジオで、新語をテーマに十五回にわたる講演もした。学生時代に弁論大会で何度も優勝したというから、放送で話すのはお手の物だったのかも知れない。連続講演をまとめた『新語の周囲』(大和出版社一九五三年二月)で、当時の放送の内容を知ることができる。「ジャーナリズム」や「スポンサー」といった放送に関係がある外来語を語源から説いたり、日本語の乱れを嘆いたりと、内容は放送した回によって異なっている。その後、中央大講師も務めた。
【4】ドストエフスキー翻訳への挑戦
筑摩書房版『ドストエフスキー全集』の刊行が始まったのは一九六二年だ。小沼氏は、四十五歳になっていた。この時点で全集完結まで約三十年もかかるとは想像していなかったと思われる。
ドストエフスキー作品の翻訳は、内田魯庵が一八九二年(明治二十五年)に英語から訳した『罪と罰』を刊行したのが最初といわれている。大正時代に入ると、米川正夫氏や中村白葉氏によりロシア語からの翻訳が次々と登場した。一九一七年(大正六年)に新潮社が全十七巻の『ドストエーフスキー全集』を刊行したが、実質的に小説を集めたものだった。
昭和になると、ソ連でドストエフスキーへの研究が進んだこともあり、手紙や評論だけでなく、小説のアイデアを盛り込んだ「創作ノート」を含んだ全集翻訳が出版されるようになった。米川氏の『ドストーエフスキイ全集』が何度か刊行されたほか、複数の研究者が協力して取り組んだ新潮社版の全集もある。これらに小沼訳を加え、計三つのドストエフスキー全集が存在する。
筑摩書房がロシア文学の「大家」でもない小沼氏に翻訳を依頼した理由ははっきりしない。ある関係者は、初代の編集担当者と、小沼氏が再婚した女性は交流があったため翻訳の話が持ち上がったのではないかとの見方を示したが、既に亡くなったので詳しいことはわからない。
筑摩書房版の『ドストエフスキー全集』は次のような順で刊行された。別巻は、評論家の唐木順三氏が手がけた。
第九巻『未成年』 (一九六二年十月)
第三巻『おじさんの夢』『虐げられた人々』(一九六二年十一月)
第一巻『貧しい人々』『二重人格』ほか(一九六三年一月)
第七巻『白痴』(一九六三年四月)
第六巻『罪と罰』(一九六三年六月)
第十巻『カラマーゾフ兄弟1』(一九六三年九月)
第十一巻『カラマーゾフ兄弟2』 (一九六三年十月)
第二巻『白夜』ほか(一九六四年十月)
第八巻『悪霊』(一九六七年四月)
第五巻『地下生活者の手記』ほか(一九六八年十月)
第四巻『死の家の記録』ほか(一九七〇年三月)
第十五巻『書簡集1』(一九七二年一月)
第十六巻『書簡集2』(一九七三年十月)
第十七巻『書簡集3』(一九七五年二月)
第十二巻『作家の日記1』(一九七六年十二月)
第十三巻『作家の日記2』(一九八〇年六月)
第十四巻『作家の日記3』(一九八〇年十一月)
第二十巻A『評論集1』(一九八一年十月)
第二十巻B『評論集2』(一九八二年八月)
第十八巻『創作ノート1』(一九八三年十二月)
第十九巻B『創作ノート3』(一九八九年八月)
第十九巻A『創作ノート2』(一九九一年六月)
【5】よみやすい日本語目指す
小沼氏は翻訳で、読みやすい日本語を目指していた。全集刊行が始まった年に『文芸春秋』(一九六二年十二月)へ寄せたコラムで「ドストエフスキーは難解と言われています。たしかにある意味では難解かも知れませんが、ロシヤ語で読めばとにかくわかるのに、日本語で読むとますます難解であるというのは、これは日本語の表現の問題ではないでしょうか」と問いかけている。
その上で「翻訳を業とするようになってからも、自分で読んでわからない、また他人が読んでわからない訳文だけは絶対に書くまいという翻訳態度が生まれました」と翻訳に臨む上での決意を語っている。
わかりやすさだけでなく、原文に忠実な翻訳も心がけた。かつて小沼氏は日本におけるロシア文学の翻訳を厳しく批判し「分からないところは二行でも三行でもとばして、コンマもピリオドも完全に無視して、ただずらずらと訳し終わったものの方が、一応日本文になっているという理由でこの国では名訳ということになる」と述べていた。
筑摩書房の編集者だった大西寛氏は小沼氏の翻訳に関して「もう、お見事と。ドストエフスキー作品の原文のリズムを感じさせる見事な翻訳だった。ドストエフスキー作品はおしゃべりの文章だが、よく体現している。独特の文体、原文のリズムを日本語に移す感じですね。今でも、ドストエフスキーについては小沼訳がいちばんいいと思っている」と語った。
一方で大西氏は、ドストエフスキー作品にのめり込んだ翻訳者という悲劇も指摘した。「小沼先生は、ドストエフスキーに入っていってしまう。(原作者と翻訳者の間に)距離がないといけない。もう一人の自分がいないといけないが、小沼先生は入っていってしまう。そういう意味では、ドストエフスキーが乗り移っているというか、そういう翻訳だと思う。小沼先生自身にとっては、しんどかったのではないか。距離をとれなくて」と分析した。
【6】百冊超す辞書に囲まれた作業場
小沼氏は、『ドストエフスキー全集』の月報に「翻訳の宿命」という文章を寄せ、自ら翻訳の様子を紹介している。翻訳の遅れを釈明するためのものだが、百冊以上の辞書に囲まれた作業場の様子などがわかる興味深い文章だ。米川正夫氏によるドストエフスキー全集はもちろん、各国から取り寄せた全集の解釈を参考にしながら翻訳に取り組んでいることを明かしている。
一九六八年十月二日付の文章なので、『ドストエフスキー全集』の刊行開始から六年の時期に書いたようだ。この段階では、まだ『死の家の記録』が未刊行だっただけでなく、その後に「書簡」や「創作ノート」といった翻訳の難航が予想される作品が残っていた。完結までさらに二十年以上を費やすことになる。
この全集の翻訳にはテキストとして最も新しいロシア語版の十巻選集(一九五六~五八)を使っている。もっともこの十巻選集は、前に訳注のところで書いておいたように、横文字の本には珍しく誤植が多く、しかも意識的に改変したのではないかと思われる箇所も散見されるので、これだけを頼りにするわけにはいかない。そこで定本といわれる旧正字法の十三巻全集(一九二六~三〇)を絶えず参照することになる。幸いロシア語は旧正字法で勉強したので、いまの若い人たちのように苦労することはない。まずロシア語のテキストとしてはこの二種類、それに時に応じていままでに刊行された十六種類のうちの幾つかを照合しなければならないこともある。
おまけにガーネット訳の英語版の全集やその他の英語訳の単行本、外国語訳のドストエフスキー全集では日本と並んで東西の双璧、十種類を数えるドイツ語版全集も場合によっては必要になってくる。米川訳の日本語版全集を参考にすることはもちろんである。こんなわけで机の上は数種類のテキストでいつもいっぱいのありさまである。その上、辞書の類も最低二十冊は机の上に並べておかなければならない。翻訳家にとっては命よりも大事な辞書がそのほかにも百冊以上、手のとどく本棚に並んでいる。その中にはロシア人名の各種の変化とアクセントを網羅した姓名辞典が二冊ある。(この後、八巻の『悪霊』での登場人物名の表記ミスの説明があるが略)
ついひと月ほど前にユーゴースラヴィヤから十二巻の全集が二種類、キリル文字のものと国字改革以降のローマ字版のものがとどいたかと思うと、きのうはまたルーマニヤから、ルーマニヤ語十一巻全集が送られてきた。これでまた参照しなければならないものが増えたというわけである。時間をくわれることおびただしい。
そればかりではなく、ドストエフスキーの生誕百五十年を記念して、ソヴェートのアカデミヤ付属出版所から、全三十巻にのぼる全集の発刊が予告されている。このアカデミヤ版全集の編集、校訂には科学アカデミヤのふたつの研究所が協力し、ロシア文学研究所(プーシキンの家)のバザーノフ教授が編集長となって、すでに原稿整理を終わったものが数巻あるという。
アカデミヤ版全集の特色は、書簡、草稿、ノートからあらゆる異本にいたるまで、すべての資料を包括することにあるので、この発刊は期待される。(アカデミヤ版の刊行見通しの説明を略)
この全集が刊行されると、こちらの全集もいろいろと手を加えなければならないことになるであろうが、それは後日のことにして、『書簡集』『作家の日記』を終えて、『作品ノート』にはいると資料集めが大変である。決定版といわれた米川訳全集でも、『作品ノート』はほぼ半分の分量しか紹介されていないし、『未成年ノート』のごときは、ドイツ語からの重訳でしかも抄訳、その他のノートでも、ロシア語のテキストがないために、フランス語―ロシア語―日本語というまわりくどい手間をかけたものもあるので、『書簡集』からあまり大事でないとして省かれたものを補充するなど、訳者にとっては励みの多い仕事が待っている。(以下、残った巻を刊行することへの決意など略)
【7】難航した『悪霊』の翻訳
『ドストエフスキー全集』の刊行は計画より徐々に遅れた。第三回配本からは月報の「編集室より」で、毎回のように読者に対して刊行の遅れを詫びるようになる。過去に翻訳したことがある作品を手がけているうちはまだよかったが、『悪霊』や『死の家の記録』の翻訳は意図的に後回しにした。
『悪霊』は革命を夢見る十九世紀のロシア若者らの姿を描いた問題作だ。連合赤軍やオウム真理教による事件が起きると『悪霊』とからめて論じる文章が目立った。作品中の「スタヴローギンの告白」は信仰などの観点から論じられることが多い。
清水先生が、小沼氏の夫人から聞いた家庭内での様子は、翻訳作業がどれほど苦しいものだったかを明らかにしてくれる。清水先生が小沼氏が亡くなった翌年に書いた「ロシア文学者・小沼文彦氏との三十年」(『江古田文学41号』、一九九九年十月)から引用する。
「夜中に突然私を起こして『悪霊』の話をされるの。スタヴローギンとかキリーロフの話を。神があるとかないとか……いきなり質問しておいて答えないものなら怒る怒る……前の奥さんなんかこの人が殺したようなもんです」
『悪霊』を訳している時がもっともひどかったそうで、奥様もだいぶ神経を傷めたようである。翻訳という仕事は人物が憑依しやすい状態を作るのかもしれない。
【8】最後に手を着けた『死の家の記録』
小説の中で翻訳が最も遅かったのは『死の家の記録』だ。空想的社会主義の集まりに参加したため逮捕されたドストエフスキーが、シベリア流刑での体験をもと書いた作品だ。架空の登場人物の回想という形をとっているものの、殺人犯らとの生活を余儀なくされた自らの体験が下敷きとなっている。
小沼氏は『死の家の記録』について「この記録小説は、見方によればドストエフスキーの最高傑作と言えないこともない」と高く評価した。にもかかわらず、翻訳を先延ばししたのは、自らのソ連による抑留体験が影響した可能性が高い。
小沼氏は戦後にソ連を旅行した。ハバロフスクの上空に差しかかると、震えはじめ、しばらく震えが止まらなかったという。生前交流があった方が小沼氏の夫人から聞いたエピソードだ。小沼氏は自らの抑留と『死の家の記録』の関係について随想で次のように語っている。
収容所の鉄条網の中で読んだドストエフスキー、特にその『死の家の記録』の印象はまさに強烈なものでした。疑心暗鬼の不安の中で、いつ銃殺されるか、いつ無期限強制労働のラーゲリ送りになるかと、いまから考えると滑稽な妄想に悩まされながら読んだドストエフスキーは、はじめて私に神の問題を考えさせてくれたのです。(「『悪霊』に導かれて」より)
『ドストエフスキー全集』は一九九一年に全巻の刊行を終えた。小沼氏は三十年にわたる翻訳作業により七十五歳になっていた。翻訳を終えた瞬間の気持ちを筑摩書房『ちくま』(一九九一年八月)に掲載した「命なりけり」で次のように振り返った。
『「未成年」創作ノート』の最後のセンテンスを書き終えペンを擱いたときには、不覚にもしばらく涙の落ちるのを禁じえませんでした。
【9】翻訳をきっかけに洗礼
小沼氏は、五十歳で洗礼を受けていた。『ドストエフスキー全集』の刊行が始まった後しばらくしたころだ。小沼氏が洗礼について振り返った随想「『悪霊』に導かれて」で詳しく経緯を説明している。タイトルの通り、『悪霊』の翻訳で精神的に苦しんだのが洗礼の決め手になったようだ。
翻訳の仕事が『罪と罰』から『カラマーゾフ兄弟』に進み、さらに『悪霊』に取り組むようになったとき、私ははじめて自分の誤りに気がついて極度の絶望にかられるようになりました。自我のかたまりである自分にはこのままでは救いがないことがはっきりとわかったのです。
「今度会うときには、君はきっと神を信じているでしょうよ」というスタヴローギンのことばほど私の胸をぐさりと刺したものはありませんでした。
ちょうどそんなとき八十年の光栄ある伝統をもった静岡英和が短大を創設することになり、私もその教員の一員に加わることになりました。これだ、この機会をおいては私は一生救われないぞという霊感に打たれた私に、「ためらわずに行け!」とういドストエフスキーの声がはっきりと聞こえました。
一九六六年十二月十七日に、創設間もない静岡英和の学院教会の仮礼拝堂で洗礼を受けた。この短大は、静岡メソジスト教会の牧師らが設立した学校がルーツという。小沼氏はその後、カトリックへ改宗するため四谷のイグナチオ教会で改めて洗礼を受けた。改宗は、夫人の影響があったようだ。
【10】嫉妬と憎悪に苦しんだ私生活
洗礼を受けた後の小沼氏が心のやすらぎ得られたわけではなかった。
清水先生は「ロシア文学者・小沼文彦氏との三十年」において「ある日、夜遅く奥様から電話があった。何事かと思えば、小沼氏が家出をして帰ってこないという。何か気にくわないことがあったり、嫉妬の感情に襲われるとこういうことになるらしい」と、小沼氏のもう一つの顔を明らかにした。
五十台半ばの小沼氏と大学生の清水氏が初めて会ったのは、一九七〇年に都内で開かれた「ドストエーフスキの会」第一回総会の場だった。その後、清水先生は約一年にわたり毎週日曜日に小沼氏のマンションを訪れ、ドストエフスキーとの出会いや翻訳について話を聞く関係になる。
小沼氏は一九七〇年に東京・渋谷に「日本ドストエフスキー協会資料センター」を設立していた。ドストエフスキーに関する国内外の資料を集めた。週末はドストエフスキーの愛読者を受け入れ、作品の研究会も開いた。
小沼氏は、資料センターを訪れた人たちと口論になることもあったようだ。清水氏が目撃したエピソードは、洗礼を受けながらも激高しやすい性格をあらためられずに苦しんでいる様子がわかる。
小沼氏はわたしの前ではいつも微笑を絶やさなかったが、なかなか気難しいところもあった。人の好き嫌いも激しく、いちおうそれなりに我慢はしていても、我慢しきれなくなると爆発するといったような性格であった。その激しい性格で人間関係がうまくいかなることも多々あったようである。ある日、小沼氏は自分の部屋に入ったきり一向に顔をださない。そんなことはわたしにとって初めての経験であった。小沼氏はわたしたちがお邪魔すると必ず玄関で迎え入れてくれたからである。心配してさりげなく部屋をのぞくと小沼氏は顔を真っ赤にして怒りを精一杯押さえている。わたしがなんでもない風を装って「先生、こんにちは。お仕事いそがしいんですか」と声をかけた。それからしばらくして小沼氏がみんなの前に姿を現し、「あのとき清水さんに声かけてもらってほんと助かりました」と言う。感情が高ぶると自分でも制御できずに苦しむことが多々あったらしい。
清水先生は一年ほどで、小沼氏のもとに出入りするのをやめた。ただ、時間をおいてロシア文学者の江川卓氏を交えた鼎談を企画するなど交際は続いた。
昭和から平成に年号がかわるころ、小沼氏は岩手県盛岡市に転居した。ドストエフスキー全集の翻訳は終盤、この地で取り組んだことになる。横浜の自宅や渋谷のマンションを拠点としていた小沼氏が、箱根のほうへ移り、晩年を岩手県盛岡市ですごしたのは金銭的な事情が一因だったようだ。岩手県は小沼氏の三番目の妻、勝子さんの故郷だった。
全集を補う形で出した『ドストエフスキー未公刊ノート』は、小沼氏の最後の訳書となった。編集が詰めの作業に入ったころ、小沼氏の体調はすぐれなかった。未公刊ノートは、ドストエフスキー全集の補巻となる本で、二百ページ足らずの本だが、訳注が空白になっていた。編集者の大西氏が小沼氏に問い合わせると「資料が、もともとないから」ということだった。
小沼氏は一九九七年七月、『ドストエフスキー未公刊ノート』を筑摩書房から刊行した。その翌年、一九九八年十一月三十日に死去する。
著者プロフィール
番場恭治(ばんば・きょうじ)一九六七年石川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。共同通信社の経済部、中国特派員などを経て、現在はアジア経済ニュースを配信するグループ会社NNAに編集委員として出向中。ノーベル文学賞を受賞した莫言氏への北京でのインタビューなど中国における取材をもとにした新聞連載をまとめた共著『中国に生きる 興竜の実像』(株式会社共同通信社、二〇〇七年六月)がある。
ネット版「Д文学通信」編集・発行人:清水正 発行所:【Д文学研究会】
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動画撮影は2021年9月8日・伊藤景
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清水正・批評の軌跡Web版で「清水正・ドストエフスキー論全集」第1巻~11巻までの紹介を見ることができます。下記をクリックしてください。
清水正著『ウラ読みドストエフスキー』を下記クリックで読むことができます。
「松原寛と日藝百年」展示会の模様を動画でご案内します。
日大芸術学部芸術資料館にて開催中
2021年10月19日~11月12日まで
https://youtu.be/S2Z_fARjQUI(「
日本大学芸術学部芸術資料館での「松原寛と日藝百年」の展示会は無事に終了致しました。