ネット版「Д文学通信」7号(通算1437号)発行。番場恭治「続・小沼文彦氏が校正したドストエフスキー全集  【1】筑摩書房の元編集者が語った翻訳への姿勢」。

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ネット版「Д文学通信」7号(通算1437号)           2021年11月08日

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「Д文学通信」   ドストエフスキー&宮沢賢 治:研究情報ミニコミ

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続・小沼文彦氏が校正したドストエフスキー全集

       

番場恭治

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小沼文彦氏が所有していた『ドストエフスキー全集」を見つめる大西寛氏

 

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小沼文彦氏の書き込みがある『ドストエフスキー全集』



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小沼文彦訳『悪霊』筑摩書房ドストエフスキー全集8巻

【1】筑摩書房の元編集者が語った翻訳への姿勢

 

 「これは小沼先生の字ですね」。鉛筆の走り書きがある、筑摩書房版『ドストエフスキー全集』の『罪と罰』を手に取ると、大西寛氏はじっと見入った。

 筑摩書房の編集者だった大西氏は、小沼文彦氏が翻訳した『ドストエフスキー全集』のうち「書簡集」「作家の日記」「評論集」「創作ノート」を手がけた。刊行開始から完結まで三十年のうち二十年は大西氏が担当した。小沼氏の最後の著書となった『ドストエフスキー未公刊ノート』も担当し、出版した一九九七年に筑摩書房を定年退社した。小沼氏は翌年十一月三十日に亡くなっている。

 大西氏は八十四歳の現在、東京郊外の住宅地にある住宅で悠々自適の暮らしをしている。都内の古書店が「小沼文彦氏が校正した全集」として販売していた本を持参し、十月末に自宅にうかがった。

 「小沼先生がお持ちだったものですか」。大西氏は全集の『罪と罰』、自身が編集を担当した「創作ノート」を十分ほど見比べると「なるほど。わかりました」とつぶやいた。

 「校正本というよりは、創作ノート訳出のために参照した本ですね。創作ノートの翻訳は、ロシア語の原典を単に訳すだけではできません。小説と創作ノートのどこを対照するか、創作ノートから抹殺したところとか(を調べた)」と説明した。赤や黄色などカラフルな印でページが埋まっていることについて「和訳はこちらのほうがいいのではないか、という目的などで印をつけたのではないか」と語った。

 

 大西氏は早稲田大でロシア文学を学んだ。ドストエフスキー全集の個人訳を出した米川正夫氏の授業も受けた。「もう高齢で、淡々とした授業だった。テキストはチェーホフの『三人姉妹』だったと思う。生徒に読んで訳させた」という。筑摩書房は一九六〇年度入社だが、卒業前の三月一日から「来い」と言われ出社したという。ロシア文学だけでなく、吉川幸次郎氏や『漢書』といった中国古典の編集も担当した。『ドストエフスキー全集』担当になったのは一九七二年だが、筑摩書房の『世界文学大系』に入った小沼氏の翻訳には一年目から他の編集者とともに関わった。

 

 編集者の仕事は、原稿をチェックしながら、助詞の「てにをは」の使い方や句読点の打ち方が適切かどうかといったことを調べたり、印刷のための割り付けをしたりすることだ。大西氏によると、ときに筆者の文章に立ち入ることもあり、翻訳に赤い線を引いたり、「こう訳した方がいいのでは」と伝えたりするという。ただ、『ドストエフスキー全集』に関しては「直すところは一切なかった」と振り返った。

 「小沼先生に限っては、もう、お見事と。ドストエフスキー作品の原文のリズムを感じさせる見事な翻訳だった。ドストエフスキー作品はおしゃべりの文章だが、よく体現している。独特の文体、原文のリズムを日本語に移す感じですね。今でも、ドストエフスキーについては小沼訳がいちばんいいと思っている」と語った。

 小沼氏の持論は「翻訳は音楽の演奏みたいなもの、解釈と再現技術」だったという。一方で大西氏は、ドストエフスキー作品にのめり込んだ翻訳者という悲劇の側面についても語ってくれた。

 「小沼先生は、ドストエフスキーに入っていってしまう。(原作者と翻訳者の間に)距離がないといけない。もう一人の自分がいないといけないが、小沼先生は入っていってしまう。そういう意味では、ドストエフスキーが乗り移っているというか、そういう翻訳だと思う。小沼先生自身にとっては、しんどかったのではないか。距離をとれなくて。だから『悪霊』についても、先生の中に悪霊がいる感じですね。(小沼氏の随想のタイトルのように)『悪霊』に導かれて、というか」。

 全集は二十巻余りあるが、翻訳のミスはほとんどなかった。小沼氏が自分で訂正することはあったが、他人から誤訳を言われた記憶はないという。『ドストエフスキー全集』から小説だけを選び、全十巻の「小説全集」として刊行した際、大西氏は翻訳をじっくり読み直した。口絵の説明など二カ所を修正しただけだったという。

 小沼氏は『ドストエフスキー全集』に取り組んでいた際、『死の家の記録』や『悪霊』の翻訳を後回しにした。大西氏は理由について「いちばん気になる、いやな作品だったのではないか。近親憎悪みたいなことを感じたかもしれない」と指摘した。

 『悪霊』の翻訳には苦しみ、刊行が大きく遅れた。小沼氏の夫人、勝子さんから「悪霊になった気持ちで、この人は訳している」という言葉を聞いたという。小沼氏は『悪霊』の翻訳をきっかけにキリスト教の洗礼を受けた。

 小説の中で翻訳が最も遅かったのは『死の家の記録』だ。ソ連による抑留が影響した可能性がある。二年にわたる抑留で受けた侮辱的な体験を大西氏は聞いていた。「箱に押し込められた」「物理的に押し込められた、家畜みたいに」という趣旨の話をしていたという。

 小沼氏は『ドストエフスキー全集』と並行して、ほかの出版社でトルストイ作品などの翻訳も手がけていた。大西氏は「(後回しにしていた)ドストエフスキー作品の翻訳に手を着けられず、わざと他の作家の作品を翻訳したのかもしれない。それとも経済的な理由か。誰かに翻訳を頼まれたのかもしれない」との見方を示した。「トルストイには、ドストエフスキーほどの興味はなかったと思う。ドストエフスキーの翻訳ができれば、トルストイは簡単だ」とも語った。

 

 小沼氏は慶應義塾大を卒業後、官費による留学生として東欧に十年滞在した。この間はロシア語漬けで、日本語に接する機会も少なかった。戦後はソ連による抑留を経て、日本に帰国し、そのまま翻訳活動に入った。学生時代は体操に熱中しており、文学青年だったというわけではない。手本にした日本語の文章はあったのだろうか。

 大西氏は「聞いたことはないし、考えたこともない。日本の作家の影響も聞いたことがない」述べた。「小沼氏の文章は仮名が多い。平明さを心がけていたのではないか」と指摘した。

 小沼氏の随筆をまとめた『ドストエフスキーの顔』(一九八二年三月)も担当した。「先生は(随筆など自身に関する)文章は、下手だ、苦手だと言っていた。自分の文章に中身があるとは思っていなかったようだ。言い方は微妙だが(翻訳以外の)自分で書いたものについて、ヘラヘラした文章だと。自分に向き合うのが怖い、逃げているような感じだった。『ドストエフスキーの顔』もあまりいい文章ではないでしょう」と語った。もちろん、最後の言葉は、自身が編集を担当したことによる謙遜も含まれているのだろう。

 全集を刊行した筑摩書房に関して「一九七八年に倒産したころは百人以上いた。しかし、『ドストエフスキー全集』の担当は一人だけ」と明かした。担当社員は、他にもいろいろと仕事があったという。

 社内の様子について「(全百巻に上った)『明治文学全集』は資料が多く専用の部屋があったが、『世界文学大系』でさえ専用の部屋はなかった。まして小沼先生の担当の部屋は…」と語った。打ち合わせは自宅に行くことが多かったが、小沼氏が筑摩書房に来ることもあった。

 小沼氏が箱根のほうへ引っ越したときは、湯河原の駅前にあるそば屋などで待ち合わせをした。「小沼先生は酒をあまり飲まなかった。けっこう、ゆっくり、二、三時間は雑談をしたと思う。仕事の進行はもちろんだけれど、世間話。細かい内容は忘れたが、深い話はしていない」と振り返った。翻訳した原稿は、少しずつ渡された時期もあったが、まとまった量を受け取ることが多かったという。

 大西氏に対し怒るようなことは一切なかったという。「ぼくは、お目にかかって、怖かったり、不快になったりしたことは一度もありませんでした。いつもにこやかで。気分のいいときを選んで会っていたのかもしれませんが」。筑摩書房の編集担当の間でも、小沼氏の気難しさに関する引き継ぎはなかったと説明した。

 筑摩書房は、なぜドストエフスキー全集の翻訳を小沼氏に依頼したのだろう。大西氏は正確な事情はわからないと述べた上で、初代の編集担当だった土井一正氏が、小沼氏の知人を通じて、つながりができたのではないかとの見方を示した。小沼氏は筑摩書房の『世界文学大系』に『罪と罰』『白夜』を一九五八年に提供している。それ以前には筑摩書房との付き合いはなかったと思うと語った。

 一九六二年に刊行が始まった『ドストエフスキー全集』は版を重ねた。好評だった『世界文学大系』の印税も小沼氏の収入となった。当時は本の価格も安く、よく売れたという。岩波書店や新潮社、旺文社からも小沼訳の作品が文庫本で出ていた。小沼氏が一九七〇年に「日本ドストエフスキー協会資料センター」を開設したころは、金銭的にも余裕があったと推察する。

 ただ、『ドストエフスキー全集』も、小説の刊行が終わって「書簡集」以降になると、大きく値上げした影響もあり、だんだん売れなくなったという。小説だけを集めた全十巻の『ドストエフスキー小説全集』を一九七六年から翌年にかけて刊行したのも、小沼氏からの働きかけだったという。

 余談だが、一九七八年に筑摩書房が経営破たんした際、社内で全集刊行をやめるという議論はなかったという。筑摩書房が「作家の日記」以外は文庫本として出版しなかったのは、新潮文庫などに価格面で太刀打ちできないと判断し、あきらめたらしい。

 

 横浜の自宅や渋谷のマンションを拠点としていた小沼氏が、箱根のほうへ移り、晩年を岩手県盛岡市ですごしたのも金銭的な事情が一因だったようだ。岩手県は、小沼氏の妻、勝子の故郷だった。筑摩書房の社長が金銭面で支援した時期もあったという。

 大西氏は『カラマーゾフの兄弟』の「創作ノート」の原稿を盛岡市の居酒屋で受け取った。小沼氏が食事代を払おうとしたが、筑摩書房の経費で支払ったのを覚えている。

 最後の訳書となった『ドストエフスキー未公刊ノート』の編集が詰めの作業に入ったころ、小沼氏の体調はすぐれなかった。未公刊ノートの訳注が空白になっていた。小沼氏に問い合わせると「資料が、もともとないから」ということだった。大西氏は「私が書こうかとも一瞬考えたが、やはり小沼氏の作品ということを考え、そのまま出版した」という。

 小沼氏は翌一九九八年十一月三十日に亡くなった。大西氏は「もうすぐ、命日ですね」とつぶやいた。

 

 大西氏への取材は、筑摩書房の喜入冬子社長、松田健氏を通じて紹介していただき実現した。生前の小沼氏を知る方は少なく、貴重なインタビューだったと思う。筑摩書房が刊行した『筑摩書房の三十年』『筑摩書房 それからの四十年』も参照したが、いずれも『ドストエフスキー全集』にほとんど触れていない。全集を担当した六人ほどの編集者のうち初代の土井一正氏、後に社長になった森本政彦氏らが登場し、個性的な編集者がそろった出版社だったのがわかった。

 取材した大西氏は、かなり実直な人柄であると感じた。関係者を傷つけることがないよう言葉を選びながら慎重に話していた。小沼氏について「担当者としては、マイナス面を世間に知られたくない気持ちはある」と明かした。一方で、ドストエフスキーに関連した他の著者の出版物については「つまらない本です」「大事な本です」と厳しい言葉で語った。昔気質の編集者らしさを垣間見た気がした。

 

著者プロフィール

番場恭治(ばんば・きょうじ)一九六七年石川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。共同通信社の経済部、中国特派員などを経て、現在はアジア経済ニュースを配信するグループ会社NNAに編集委員として出向中。ノーベル文学賞を受賞した莫言氏への北京でのインタビューなど中国における取材をもとにした新聞連載をまとめた共著『中国に生きる 興竜の実像』(株式会社共同通信社、二〇〇七年六月)がある。

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ネット版「Д文学通信」編集・発行人:清水正                          発行所:【Д文学研究会】

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2021年9月21日のズームによる特別講義

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動画撮影は2021年9月8日・伊藤景

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撮影・伊藤景

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ポスターデザイン・幅観月