ネット版「Д文学通信」8号(通算1438号)。番場恭治「続・小沼文彦氏が校正したドストエフスキー全集【2】共著者への助言、勝子夫人の詩集」。

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ネット版「Д文学通信」8号(通算1438号)           2021年11月09日

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「Д文学通信」   ドストエフスキー&宮沢賢 治:研究情報ミニコミ

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続・小沼文彦氏が校正したドストエフスキー全集

 

番場恭治

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冷牟田幸子さんが小沼文彦氏とともに翻訳した本

【2】共著者への助言、勝子夫人の詩集

 

 「訳した文章は声を出して読むこと、声に出してすんなり読めるのが、読みやすい文章であるとおっしゃっていました」。

 小沼文彦氏とともに『ドストエフスキーの「大審問官」』(一九八一年十月、ヨルダン社)を翻訳した冷牟田幸子さんは、こうした助言をされたという。

 この本は『カラマーゾフの兄弟』の「大審問官」について論じた文章を研究者がまとめたものだ。『チャタレー夫人の恋人』のD.H.ロレンスの論文も収められている。小沼氏がロシア語、ドイツ語、それに英語のうちボイス・ギブソンの論文を担当、冷牟田さんがほかの英語の論文を翻訳した。

 

 冷牟田さんは一九三八年生まれ。早稲田大の英文科を卒業した。ドストエフスキーの勉強会に所属していた仲間の紹介により、渋谷の「日本ドストエフスキー協会資料センター」を訪れ、小沼氏と知り合った。宗教的な視点からドストエフスキー作品を論じた文章ができるたびに、小沼氏のもとを訪れ、夫妻から話を聞く関係だった。

 

 冷牟田さんからいただいた手紙には、小沼氏による、文章を書く上での助言も紹介されていた。「ぴったりする言葉が見つからないときは、頭の片隅に置いて、しばらく離れるとよい、思わぬ時にふっと適当な言葉が浮かびますよ」と述べていたという。

 翻訳作品に関しては「原作の文章の句点を尊重し、息が長くても、それがドストエフスキーの特徴なのだから、途中で切って二文にするようなことはしない、息の長さを味わってほしい」と語っていた。

 冷牟田さんは小沼氏の訳文について「私が先生の翻訳を読んでいて感じますのは、原作への深い敬意です。原作の雰囲気を、文章をできる限り忠実に日本語で伝えようと苦心されたように思います。平易な文章で、訳注の充実ぶりには目を見張ります」と述べている。

 『白痴』の訳文をめぐり、小沼氏と交わした興味深い会話についても紹介してくださった。手紙からそのまま引用する。

 

 『白痴』のロゴージンがホルバインの絵を前にして「それでなくても(信仰を)失いかけているさ」といいます。訳によっては「失っているさ」となっています。小沼先生に尋ねました。私は小沼訳で論文を書いていてすんなり論が展開します。「失っているさ」ですと、解釈の変更を迫られます。先生は手持ちの訳書を調べてくださいまして、木村浩訳と小沼訳のみが「失いかけているさ」になっている。これは、ロシアでの生活経験の有無によるとのことでした。

 

 冷牟田さんが近代文藝社から一九八八年五月に出した『ドストエフスキー 無神論の克服』は、『死の家の記録』から後期の大作、『作家の日記』などについて論じた文章をまとめたものだ。小沼氏は「刊行に寄せて」として「この国にもドストエフスキーの信仰の問題を論じた評論は多数ありますが、『キリスト教に関心を持ちながらも信仰を得ていない無信仰者』という立場をはっきりと打ち出した上での宗教論は、おそらくこの冷牟田論文がはじめてのものではないでしょうか」と評価した。

 余談だが、小沼氏は「刊行に寄せて」で肩書きを次のように書いていた。

 

 筑摩版個人訳『ドストエフスキー全集』訳者 小沼 文彦

 

 小沼氏は一九六六年に、短大創設に関わった静岡英和の仮礼拝堂で洗礼を受けた。冷牟田さんは、小沼氏がその後にカトリックへ改宗した経緯について「プロテスタントに入信されてのちカトリックに変わられました。四谷のイグナチオ教会で改めて洗礼を受けたと聞いております。一つには、慈母のように先生に接してこられた奥様の信仰の姿に導かれてのようです」と述べている。

 

 筑摩書房の編集者だった大西寛氏から、小沼氏の妻、勝子さんが詩集を書いていたことを教えてもらった。気難しい小沼氏と一緒にすごすことが多かった方だけに、気苦労は絶えなかったが、深い愛情は最後までかわらなかった。

 勝子さんは英語の下訳の仕事を求めて小沼氏のもとを訪れたのがきっかけで結婚した。小沼氏は再婚だった。一九二八年生まれなので、小沼氏より十二歳ほど若く、文学少女だったようだ。大西氏も何度か勝子さんに会っている。目がキラキラしていて、精力的な女性だったのが印象に残っているという。金銭的なことは、大西氏にかわって、勝子さんが差配していた。

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小沼文彦氏の夫人、勝子さんがペンネームで刊行した詩集

 

 勝子さんは「奥野華子」のペンネームで教文館から詩集の『白夜のレニングラード 『罪と罰』によせて』(一九八四年十月)と『春は神秘体』(一九八八年三月)』を出した。自費出版だったかもしれない。『白夜のレニングラード』のあとがきで、勝子さん自らが家庭内の様子を語っている部分がある。勝子さんの息づかいが感じられるので、そのまま引用する。

 

 翻訳は外国文学研究のアルファであり、オメガであるとの意気込みで、最高の誇を持ち、日夜それに打ち込んでいる夫の仕事への、求められる形での協力は欠かせません。その上更に欲が深くて、仕事そのものに対して夫が抱いているような、いや、それに負けない程の愛情も持ちたいものと願っていました。〝善きことのために祈る祈りは、必ず叶えられる〟との信念のもとに、気付かれないように、そっと、家事のかたわらに、又、極く小さな時間の断片をも惜しんで祈らずには居られない程、日夜緊張が家中に漲って居りました。

 

 詩集は、一九七二年夏に小沼氏とロシアを訪れたのが一つのきっかけになったようだ。あとがきで「仕事で行く夫の『一緒について来い』との命令のような一言に胸を躍らせ、もう自分の中では血肉のように思われていたドストエフスキーの生地、ロシアの大地を踏む幸運に恵まれたのです」と明らかにしている。

 

 小沼氏と翻訳に取り組んだ冷牟田さんは、この旅行のときに起きたと思われる出来事について勝子さんから聞いていた。「ソ連再訪の旅に出てハバロフスクの上空に差し掛かりますと、先生は震え出ししばらく震えが止まらなかった」ということらしい。小沼氏は二十九歳のとき、ルーマニア留学中に終戦を迎え、ソ連による二年の抑留を体験している。『ドストエフスキー全集』で、収容体験を描いた『死の家の記録』の翻訳を後回しにしたのは、自身の抑留体験が心の傷となって作品と向き合うことができなかったためではないかと、あらためて思う。

 嫉妬と憎悪に苦しんだ小沼氏は、ときに勝子さんに対して激高することがあったと、複数の人が話している。勝子さんが家を出ようとしたこともあったようだ。

 勝子さんは、詩集のあとがきで、小沼氏を『罪と罰』の主人公にたとえ「我が家のラスコーリニコフ」とよびながら、旅行先での夫への思いを語っている。「強烈な個性の持主」「不気味な二重性」「常人の数十倍(?)とも思えるような狂気の、奔流の如きエネルギーを見せる人」という表現がある。複雑な性格で、感情をコントロールできない小沼氏そのものだ。

 ユーモラスな文章であるものの、ときに修羅場のようだった二人の生活を想像すると、哀しみのようなものを感じる。五十五歳か五十六歳ころの文章だ。長くなるが、そのまま引用する。

 

 団体行動から解放された自由時間内は、静かにゆっくりと街を歩き回りましたが、『罪と罰』の世界そのままを見る思いでした。

 ニェヴァ河の河岸に立っていると、何時の間にやらラスコーリニコフが同じように佇んで河面を見つめている錯覚を、その時ふと感じましたが、今でもそれが身近に甦って参ります。

 初めて見る白夜の幻想的な夜に、うっとりしている私の傍らで、同じようにニェヴァ河の河面にじっと見入っていたのは、小説の主人公ではなく、我が家のラスコーリニコフでした。

 この上なく強烈な個性の持主でいながら、作品の世界にピタリ相似形のように嵌りこむまでは、意味が解ったからといって、決して筆を進めようとはしない人、彼自身とは正反対に見える没個性の世界に、その強烈過ぎる程の個性を完全に零(ゼロ)にして、原作に日夜いどむ態度にならっての意味か、〝自分を全く無にせよ! 存在しないと思え!〟と宣い、一寸の虫程の五分の魂すらも絶対に認めずと豪語し、私にも〝無〟という極限を、苛酷に、芸術的に求め続けたように、自分自身もその極限に向かって、不気味な二重性をうかがわせながら、魔物のようにスルリと嵌りこむ特技を持ち、その時のすさまじい集中力と烈しい燃焼は常人の数十倍(?)とも思えるような狂気の、奔流の如きエネルギーを見せる人、の姿が其処にあったのです。

 両極端の振幅の極まった状態、毎日の生活そのものを、何時も極限の緊張状態に追いつめ、そうした極度の緊張関係の空気を貪欲に餌として生きている人、ドストエフスキーの作品の密度の息苦しさをそのまま生きている様な人なればこそ、ニェヴァ河の橋上に立たずとも、屡々ラスコーリニコフを、他の登場人物をも時をかえて彷彿とさせるのでしょう。

 神の存在についても疑問形のままで、聖書の知識と信仰は別ということを、私に思い知らせたのも他ならぬ我が家のラスコーリニコフでした。今では共に未熟ながらカトリック信者、キリストの子羊の道を歩み始めて夫は十年余になります。

 

 夫婦に子供はいなかった。小沼氏が亡くなった後、勝子さんは岩手の親類の世話になりながら暮らした。

      

著者プロフィール

番場恭治(ばんば・きょうじ)一九六七年石川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。共同通信社の経済部、中国特派員などを経て、現在はアジア経済ニュースを配信するグループ会社NNAに編集委員として出向中。ノーベル文学賞を受賞した莫言氏への北京でのインタビューなど中国における取材をもとにした新聞連載をまとめた共著『中国に生きる 興竜の実像』(株式会社共同通信社、二〇〇七年六月)がある。

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ネット版「Д文学通信」編集・発行人:清水正                          発行所:【Д文学研究会】

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撮影・伊藤景

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ポスターデザイン・幅観月