ネット版「Д文学通信」9号(通算1439号)岩崎純一「絶対的一者、総合芸術、総合感覚をめぐる東西・男女の哲人の苦闘 ──ニーチェ、松原寛、巫女の対比を中心に──」(連載5)
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ネット版「Д文学通信」9号(通算1439号) 2021年11月11日
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「Д文学通信」 ドストエフスキー&宮沢賢 治:研究情報ミニコミ誌
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連載 第5回
絶対的一者、総合芸術、総合感覚をめぐる東西・男女の哲人の苦闘
──ニーチェ、松原寛、巫女の対比を中心に──」
岩崎純一(日大芸術学部非常勤講師)
二、哲人たちの哲学の根底
寛平少年(松原寛)の苦闘 ニーチェを選ばなかった近代日本のエリートにとっての自我、学問、母、女性
そして、同じくドイツ留学によりその風土と思想を目の当たりにし、鷗外に匹敵する自我の葛藤を展開した当代の人として、日芸の創設者、松原寛がいるのである。
松原寛は生涯、ニーチェや(清水先生の研究分野である)ドストエフスキーにはほとんど触れず(私もドストエフスキーについては門外漢で、下手に触れようがないが)、カントやヘーゲルやヴィンデルバントをぐるぐると追いかけ回して苦悶する、永久階段のような生涯を歩んだ。だが、近代日本人エリートの中でも、とりわけニーチェの少年期の悲嘆に寄り添うことのできたはずの哲人であったと思う。
森鷗外の場合は、文芸世界に身を置くことになる一方でドイツ医学(長寿という実利を目指す領域)に邁進したため、「神」や「宗教」の語や医学用語を散々浴びた後に、自我の葛藤が生じ、このように理知的に、五十歳前後の言葉で二十代の自我の格闘の記述ができた。先にも述べたように、どんな哲人も少年期から哲学書や小説が書けるわけではない。ただし、松原寛のような、一部の哲人は別である。自分の言葉で、少年期の末期に、それまでの自我の格闘を筆記できたのである。
ニーチェと松原寛は、生没年共におよそ五十年ずつ離れており、ニーチェが年上だが、その幼年・少年期の共通点は極めて多い。
ニーチェは牧師の家に生まれ、敬虔なキリスト教徒であったが、やがて母の期待であった牧師への道を絶ち、古典文献学者としての道を歩む。松原寛も、日蓮宗の父・佐一の下に育ち、かつ商家の次男として(長男・兄は傳平)乾坤一擲の実利欲求・功名心を持ちながらも、そこはキリスト教の信仰と弾圧の歴史ある島原半島であり、ミッションスクール東山学院でキリスト教への信仰が芽生えた。日蓮宗で商売人の家系の生まれという環境にあって、逆に自我の葛藤をキリスト教入信によって収めようとしたのである。
“It is our own duty, to introduce this true God to our fellow-country men”
(このまことの神をわが同胞の人達に説き示すは吾々の使命であり義務である。)
(『現代人の宗教』 一四頁)
これが、松原寛の旧制中学の卒業記念演説「知られざる神」“The Unknown God”の結語である。松原寛は、ニーチェよりも真剣に、牧師になろうと考えていたキリスト者である。いや、自分こそは真のキリスト者であると自らに言い聞かせる強引さに長けていた、キリスト教の表向きの学徒である。
實際その當時私は福音宣傳の熱にもえて居た。牧師を以て自分の使命だと考えて居た。
(『宗教の門』 六〇頁)
人生觀上の問題は、罪惡の救濟も宇宙生の不可解も、基督教で、解かれるものゝように思へて來た。若い人生の探求者には、一度はきつと襲い來る、厭世思想も神の恩寵の説で、どうやらなくなりさうに思へた。
(『現代人の宗教』 一八頁)
この点、私は両哲人とは異なって、キリスト教とは疎遠の曹洞宗の家に生まれ、かつ般若心経を毎日唱えたのは、離れて暮らす祖母くらいだった(祖父は父が高校生の時に他界し、私は会ったことがない)ため、信仰への懐疑ではなく、前述のような卑近な「自我と死と葬式」の問題、戦後日本の大衆道徳の欺瞞への抵抗運動として、哲学が萌芽したのだ。
そして、両哲人とも、学業の努力もさることながら、天性の学歴型エリートであった。ニーチェは古典文献学の知識を持ち、師リッチュル期待の星となり、松原寛も一高、東京帝大の頭脳を持っていた上、少年期から功利的な商売根性・権勢欲にも長けていた。松原寛の場合は、地上の実利への興味が学究精神よりも勝っていた。
かうして私の心のなかで資本家に對する意地と反抗とに漸く燃えて來たのは極めて自然ではある。ぐわん是ない功名心がその方面(黄金意識、地上の実利)へ向ふのは決して無理でなかつた。
(『哲學の門』 四―五頁。「ぐわん是ない」は「頑是ない」の旧音読表記。)
貧弱な乏しき生活にはとても堪へられぬと思つた。世から忘れられるやうな謹しやかな宗教家や、教師の生活を考へてもぞつとする程であつた。
(『宗教の門』 六六頁)
松原寛がキリスト者として洗礼を受けたのがこのような強欲時代の真っ最中であることが、まず信じがたい。のちに日芸の教師どころか、創設者となる人の発言とも思えない。いや、松原寛はその全生涯が強欲の全盛期であり、しかも商才があったからこそ、学園の一教師ではなく創始者・経営者となったとも言える。
実利願望を押さえ込むために神の力を借りるほかなく、自殺まで企てたことがある点は、私には想像できない不安定さが見て取れる。あるいは、ニーチェでさえ、こんな功名心に信仰を使ったことはないはずである。ニーチェは、キリスト教を利用して向学心を上げたり、師リッチュルに媚びたり、大学での地位向上を狙ったことなど、ないのである。
もしも燃ゆる功名心があるならば、束の間に生きる事を考へないで、何故永久の生命を戀しないのか。
(『現代人の宗教』 二三頁)
かくて私は地上の野心と世間の名聞を一蹴し去り得た。誘惑に打克ち得た強者の喜びを味つた。泣いて神に感謝した。
(『宗教の門』 六八頁)
泣いて神に感謝したのが、中学の卒業式の五日前のことであった。こんなところで「強者」を自称するあたり、やはりこっそりニーチェを読んでいたかと思うような口振りである。
そもそも、中学の終盤、そして一高を目指して上京したときは、哲学を、信仰の正しさの理論的基礎を与える作業と位置づけていた。ようやく、信仰が哲学の力によって功名心に勝つときが来たかと思えた。だが、その哲学によって信仰が揺らいだ。このタイミングで日蓮研究会を興して、実家・父の思想に近づいてみているところも、あまりに面白い。
両者の学歴エリート性と松原寛の商才は別にして、私は学力自体については両哲人と共通しているから、それはそれでどう苦しんでいるかは手に取るように分かる。学的欲求気質の人間の信仰というものは、必ず揺らぐようにできている。
これは、周囲の近い者たちが信仰する宗教の名が「キリスト教」であろうと「日蓮宗」であろうと何であろうと、必ず揺らぐ。信仰や存在や認識の「解明」をしようとする学究心理、「絶対の信仰」を「絶対の信仰の強引な相対化(言語化や解析・解釈)が最終的に至る絶対的なゴール地点」と勘違いしたがる心理から逃れられないのである。
そこには最終的に、後述する「絶対者」の解体と再構築の欲求という共通点があるからである。そして、その哲学の限界も、自身の学力に邪魔されながらも、薄々分かっている。ニーチェが「古典文献学」や「哲学」を超克して「反哲学」に転じたがごとく、松原寛も哲学に早々と疑問を呈するのである。
かうして高等學校三年の間に與へられたものは何もなかつた。
(『現代人の宗教』 三一頁)
都に居るの苦痛に堪へなかつたのは失戀のためではあつたが、京洛の地に志したのは、一には學的欲求から出でて居た。即ち西田博士や朝永博士の訓陶を受けようと思つたのだつた。
(『宗教の門』 八四頁)
哲學に凡てを捧げて、専心之に没頭しようとしたものの、哲學では滿たされない或者があるようで仕方がない。
(同 八六頁)
學窓を出でて後私は職業の關係から、文藝美術の方面に携はらねばならなかつた。(中略)併し藝術は藝術であつて、宗教的欲求が悉く滿さるべくもない。それに又職業上の堪へられぬ不滿は永い私の關西生活を辭さしめて、再び東都に私を送つた。
(同 九二頁)
松原寛が「失恋」の語に、女性との失恋と共に神との失恋の意を込めているに違いないことは、前回も書いた。職業上の堪えられない不満を抱え、美術記者の仕事を辞した点などは、職業上の作り込んだ表向きの自我と学術研究上の本拠としての自我とを、先に述べた通り何とか巧みに使い分けている私にしてみれば、やはり松原寛には超越存在の純粋信仰が必要なのだと感じざるを得ない。そのような信仰なしで自我を見てきた私からすれば、松原寛の信仰が分からないのはもちろん、初期のニーチェの敬虔なキリスト者としての信仰も、正確には分からないものである。
また、松原寛もニーチェ同様、若くして父の死を経験している。しかも松原寛は、時期は離れているが、父のみならず一人息子も先に失った。私の場合、一親等の肉親の死はまだ経験していないし、子もいない。そしてニーチェも松原寛も、母親に大切にされ、女性に囲まれて育った。これは私と全く同様である。ニーチェや松原寛にとって母親がどういう存在であったかは、痛いほど分かる。
恋愛と失恋のタイミングが私とは違うこと、私には松原寛のように離婚した妻どころか最初の妻もいないことなど、異なる点はあるが、それらは女性との実務上・法律上の関係の処理が影響しているのであって、母なるもの、女性性なるものの偉大さに圧倒された経験は、ニーチェも松原寛も私も同様にあるのである。
ニーチェと松原寛の共通性、いわばドッペルゲンガー現象並みの一致は、この通りである。ところが面白いことに、森鷗外がニーチェを乱用した一方で、松原寛は若き時、しかも人生最初の論文の冒頭でニーチェに触れたきり、もはやニーチェをほとんど使わない哲学を展開していった哲人である。
私達は昨年以来、しきりに生の跳躍だとか、内面の活動だとか云う風に、主観の力説や自我の高潮をあきる程も聞かされた。是れが皆衷心の発露、真摯の生活欲からあふれ出たものであるから、旧来より流行ってた官能の衝動や、本能の刺戟にのみ依りて、生活の最大目的や理想が遂行されたかの如く思って、刹那々々の快感を買えば足りるとして居た傾向より、如何に大なる進歩をなしたか分らない。文壇の通弊として、内面は空虚でありながら、只流行りであるからとて文字のみのカラ元気なものもないではないが、排技巧で満足していた文学が、生の発動の芸術でなければならぬ様になり、自我を燃焼さしても、赤い血潮を見ても止まぬ程、真実に生きなくてはならぬのである。是等の傾向は純哲学の方面ではベルグソンの創造進化や、オイケンの精神生活の独立やら、乃至ゼームスの実用論からの真理の解放やらと、一方純文芸の方ではイプセンの自我思想、又はニイチェの超人主義が更に闡明にせられるありて、旁々之等の諸種な思想が一時に一束になって紹介されたのが悉く影響して、斯かる極端な主観論や自我思潮を呈するに至ったのであるから、余りに早呑み込みして原思想家等の意を誤解して、得手勝手に取り集めて居るのも少くあるまいが、功利的に之を見て未だ翻訳は盛んであるけれ共、どうしても独創でなくては駄目であることを知らしめ、真面目に生活を考える様にならしめたのは、明かな事実と認めなければならぬ。
(「若き哲人の苦悶」 教育学術研究会編集 『教育学術界』第二九巻第二号
同文館 一九一四年 冒頭)
松原寛は、ここでいきなりニーチェを挙げ、ニーチェの超人主義などの新思想の流入について、誤解は多いものの、日本の学問潮流に一定の意義を成したと述べている。しかし、これ以降の著作を読めば分かるように、松原寛はニーチェ以前のカントやヘーゲルやシュライアマハーの渉猟や、新カント派のヴィンデルバントの翻訳に進み、これが松原寛哲学の「独創」となってゆくのである。
ニーチェや松原寛は、学歴エリートではあるが、テクニカルターム(学術専門用語)を知ろうが知るまいが、幼少期から(幼年・少年の言葉で)哲学ができた天才タイプである。森鷗外は、ニーチェをあちこちに大量に転用しながらオーソドックスな利他的個人主義を目指した西洋医学者でもあったが、松原寛はニーチェを引用せずに全著作にニーチェ風のディオニュソス的狂乱を感じさせることに成功しており、かえって学問の天才を兼ねた哲人であることが分かる。ニーチェが哲人であることはすでに知っているが、松原寛も哲人であることを知った私である。松原寛は、日本の価値転倒者としては、鷗外にも増してニーチェに似た男である。
ところで、そのような天才・松原寛と西田幾多郎との関係について、清水先生は次のような指摘をしている。
もし、リッチュルが後に『悲劇の誕生』(それは古典文献学の方法論を明らかに逸脱していた)を書くようなニーチェの、その独自な詩人的才能の特質を看破していたなら、二十四歳の彼を教授に推薦することはなかったであろう。その点、西田幾多郎は松原寛の独自の哲学的才能を見抜いた上で、彼を京都大学へ敢えて残さなかったと思う。この時点で松原寛は京都学派の圏内から外されたと言える。松原寛はソフィスト(学匠)達から離れ、街頭の哲学者ソクラテスとなるべく京都大学を去った。
(「松原寛と日本大学―山岡万之助・円谷弘・松原寛―」 『日藝ライブラリー』No.3 一九〇頁)
松原寛をあえて京都学派に仲間入りさせなかった(と清水正先生が指摘している)西田幾多郎も、娘などの肉親の死という悲しみを哲学に昇華させた哲人の一人である。もっとも、これはあまり西田幾多郎自身の少年期の自我の葛藤とは結びつかないように見える。
しかし、西洋的自我に対しては西洋的手法でとらえ直した東洋的自我で対抗するしかないという主意主義を超えて、絶対矛盾的自己同一するほかないという「場所の論理」への到達は、漱石の「則天去私」や鷗外の「利他的個人主義」とそう大差はないと思う。ただ松原寛は、西田幾多郎のような、悲哀についての書斎の机上における静かな思弁の真似ではいずれ不満に陥り、実業の造形芸術である学園を打ち立て、「街頭の哲学」、「生活の哲学」へと出て行かなければ気が済まない男であることを、西田幾多郎に見抜かれたのだろう。
西洋的自我は家族の死を他我の消滅と見るので、それを切り抜けようとする自我の悲嘆しか生じない。しかし、東洋的自我は家族の死を「有るか無きか」の「我」と「我」の交感、汎神・多神に包まれた場における「見るものなくして見るもの」の悲哀と理解するので、生じるのは大いなる「場所」の悲哀である。反省や思惟による死への抵抗である西洋人のロゴスの悲しみに対し、我々東洋人の家族の死は、行為的直観による場所の甘受としてのペーソスの悲しみである。
もしこれに抵抗する日本人がいたら、その人は国籍が日本というだけで、思想が日本ではないとしか言いようがない。私はそう思うが、そういう自負だけは、西田幾多郎にも、鷗外にも、漱石にもあった。松原寛にも当然あった。清水先生にも、そのような体験があった。ニーチェはそれを、西洋語で論じるほかなかった。私が昨今の浄土真宗の葬式で見る参列者の悲嘆と私の悲嘆が違って見える理由の真相も、ここに見えてきた。
私は学歴エリートの道には入らなかったが、日本的悲哀のエリートであるという自負はあるのである。西田幾多郎は、絶対無の自己限定という語を使い、久松眞一なども絶対無が東洋的無であると位置づけるのだが、彼らが共通して東洋的・日本的絶対無におけるペーソスの立派な担い手であったことだけは間違いない。
これだけ見ても分かるように、幼年・少年期の自我のディオニュソス的葛藤のほうを人間(現存在)の実存の必然であるとするならば、その葛藤をキリスト教信仰において行うか、日蓮宗信仰において行うか、漱石的・アポロン的な落ち着いた筆致で綴るか、鷗外的・ディオニュソス的な勇ましい筆致で書き殴るかは、全く重要な相違でないことが分かる。
むしろ、ニーチェ少年や寛平少年が信仰したとされるキリスト教なるものが、いい大人が群衆として信じているキリスト教よりも、実は当初からもっと徹底的に反中世・反近代キリスト教的で、もっと徹底的に原始キリスト教的で、それどころか前ユダヤ・キリスト教の自然信仰的で、宇宙の始原の直観であるようなことが、あるのではないか。換言すれば、人間は、幼年・少年期ほど、己の宗教信仰を純粋経験している。神というものを最もよく理解している。単に顔色を窺う対象が、時の政府か、時のキリスト教会か、神道界か、自分の親かによって、葛藤の表明手段が異なっているだけである。
人間が形而上のものを語る資格を有するのは、厳密にはこの時期のみであるというのが、私の意見である。あとは、「哲学」とか「宗教」といった世界の強引な思弁的分節化を繰り返すだけの悲愴が、本当は哲人の生涯でもあるのだ。
執筆者プロフィール
岩崎純一(いわさき じゅんいち)
1982年生。東京大学教養学部中退。財団事務局長。日大芸術学部非常勤講師。その傍ら共感覚研究、和歌詠進・解読、作曲、人口言語「岩崎式言語体系」開発など(岩崎純一学術研究所)。自身の共感覚、超音波知覚などの特殊知覚が科学者に実験・研究され、自らも知覚と芸術との関係など学際的な講義を行う。著書に『音に色が見える世界』(PHP新書)など。バレエ曲に『夕麗』、『丹頂の舞』。著作物リポジトリ「岩崎純一総合アーカイブ」をスタッフと展開中。
ネット版「Д文学通信」編集・発行人:清水正 発行所:【Д文学研究会】
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2021年9月21日のズームによる特別講義
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動画撮影は2021年9月8日・伊藤景
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「松原寛と日藝百年」展示会の模様を動画でご案内します。
日大芸術学部芸術資料館にて開催中
2021年10月19日~11月12日まで
https://youtu.be/S2Z_fARjQUI(「
日本大学芸術学部芸術資料館で「松原寛と日藝百年」の展示会が開催されています。