番場恭治氏の「小沼文彦氏が校正したドストエフスキー全集」を三回にわたって連載します。(連載2)

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番場恭治氏の「小沼文彦氏が校正したドストエフスキー全集」を三回にわたって連載します。

小沼文彦氏が校正したドストエフスキー全集(連載2)

番場恭治

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小沼文彦訳『罪と罰

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小沼文彦氏(左)と江川卓氏(右)1986年11月14日、清水正研究室に於いて

【2】日本のロシア文学者と距離、30年で個人訳

 小沼氏はソ連軍侵入による自宅軟禁、さらに抑留を体験する。シベリア抑留を特集した『文芸春秋』(一九八二年九月増刊号)で抑留体験について語った「ドイツ人の豪胆さ」には「ルーマニア終戦になり、そこで収容所に入りました」と語り「私は正式にいえばルーマニア政府によってソ連の管理する収容所に抑留されたことになります」と説明している。小沼氏は二十九歳から二年にわたり収容所などでの生活を体験した。ドストエフスキーは二十八歳から四年にわたりシベリアで刑に服したので、偶然とはいえ、二人とも三十歳を挟んだ時期に極寒の地で厳しい体験をしたことになる。

 後に小沼氏は、抑留体験を清水先生に面白おかしく語っている。収集した膨大なドストエフスキーに関する文献全てを没収されてしまったことや、移送列車の暖房で使うため枕木を盗んだエピソードだ。ただ、実際は精神的にかなりの緊張状態に置かれた時期もあった。手錠をかけられたこともあるという。戦前はスポーツマンで弁舌爽やかだった慶応ボーイが、こうした過酷な体験がきっかけとなり、嫉妬や憎悪で苦しむ人間へと変わったのではないかとも想像している。当時の胸の内を語った部分を「『悪霊』に導かれて」から引用する。

 

 約二年間にわたる自由を奪われた生活は、それまでで最も恵まれた読書と内省の機会を与えてくれました。私の血となり肉となったドストエフスキー観が生まれてきたのです。金と暇にまかせて買い集めた本の山の中で、すべてを忘れて読書に没頭できたことは感謝のほかはありません。収容所の鉄条網の中で読んだドストエフスキー、特にその『死の家の記録』の印象はまさに強烈なものでした。疑心暗鬼の不安の中で、いつ銃殺されるか、いつ無期限強制労働のラーゲリ送りになるかと、いまから考えると滑稽な妄想に悩まされながら読んだドストエフスキーは、はじめて私に神の問題を考えさせてくれたのです。

 

 小沼氏は『死の家の記録』について、筑摩書房の『ドストエフスキー全集』の第四巻のあとがきで「この記録小説は、見方によればドストエフスキーの最高傑作と言えないこともない」と高く評価している。収容体験などについてやや感情的に語っており、ドストエフスキーが死刑を執行直前に免じられたことに触れ「いかなる強靱な神経の持主でも、平静な気持ちでこれを耐え忍び、皇帝の仁慈に素直に感謝する気分になったとは思われない」と指摘した。さらに「こうした極限状況(注:処刑の場)にあってすらも神を見出そうとしなかった彼が、四年間の『死の家』の生活によって、ついに神を発見した事実は決して軽く見過ごしてはならないものであろう」と語っている。

 ドストエフスキーは四年にわたるシベリアでの懲役に続き、四年の兵卒勤務を経験する。『死の家の記録』のあとがきでは「無期限兵役という義務が心に重くのしかかってはいたが、イルトゥイシ河に沿って数百キロの護送の旅は、ドストエフスキーにとっては楽しいものであった。完全な自由にはまだほど遠いものではあったけれども、彼は五年ぶりにしみじみと自由の味を噛みしめたに相違いない」と指摘している。一方で自身の移送について「『悪霊』に導かれて」で「十年にわたる留学生活の最後のしめくくりは、六ヵ月をついやしたオデッサ(現在はウクライナの都市)からウラジオまでの護送旅行でした」として振り返っている。わざわざ「旅行」という表現を使ったのは、ドストエフスキーと自身の体験の類似性を強く意識したためではないだろうか。

 

 零下五十五度の酷寒もすこしも苦にはならず、係官をうまくごまかして持ちこんだ三巻の書簡集を唯一の伴侶として、赤軍兵士に護送される身を、シベリアへ流刑される偉大な作家の身の上になぞらえて、幼稚な感傷にひたる余裕もありました。

 

 ソ連による収容生活を終えた小沼氏は一九四七年に帰国し、ドストエフスキー研究で生きていく決意をあらたにする。

 

 荒廃の祖国にたどりついた私は迷うことなく現在の仕事に足がかりを求め、鍛え上げられた健康な身体をもとでに、初志を曲げることなくドストエフスキー研究に全力を注ぐことになりました。

 

 しかし、翻訳のスタートはドストエフスキーではなかった。小沼氏は帰国した一九四七年十二月に世界文学社からガルシンの『四日間』を出した。この本の末尾にロシア文学者の原久一郎が「小沼文彦君を推す」という文を寄せている。早稲田大で教鞭をとっていたときに教えたのが、夭折した小沼氏の兄、達氏だったという。清水先生は『ドストエフスキー論全集11』で、小沼氏が戦後ロシア語の仕事の相談のため訪れた原久一郎から出戻り娘との再婚を勧められたエピソードを紹介している。推薦文にはこうした背景もあったのかもしれない。

 小沼氏は、あるロシア文学の大家から「この作品は私がすでに訳してあるのだから、新しく訳す必要はない」と言われたエピソードを清水先生に明らかにしている。ドストエフスキーの作品を翻訳したくても、できなかった時期があったのだろう。ドストエフスキーの作品を初めて翻訳して出版したのは、一九五〇年十月に三笠書房から出した『虐げられた人々』とみられる。翌一九五一年五月に新潮文庫で『白痴』を刊行したのに続き、岩波文庫で一九五四年一月に『二重人格』を出した。三笠書房から一九五七年四月に『罪と罰』、翌一九五八年三月に『カラマーゾフ兄弟』を出版したが、いずれも抄訳だった。

 小沼氏は、日本におけるロシア文学研究や翻訳のレベルの低さを嘆いていた。ドストエフスキートルストイは戦前から広く読まれていたものの、ロシア語を本格的に学ぶ人は少なかった。二葉亭四迷米川正夫、中村白葉、原久一郎といった、現在の東京外国語大でロシア語を学んだ人たちの努力によりロシア文学の裾野は少しずつ広がったものの、語学力が抜群の小沼氏からみれば、あまりにもお粗末な水準だったのだろう。日本出版協会の『書評』(一九四九年六月)に掲載した小論「ロシア文学憎まれ帖」で日本におけるドストエフスキーの翻訳を厳しく批判している。原文の旧仮名遣いをあらため、続けて引用する。

 

 従来のロシア文学者が安閑としてああした無責任な翻訳をつづけて来られたのも、ロシア語が人の多く知らない語学だというお蔭なのである。ロシア語がせめてドイツ語、フランス語程度に普及していて、日本にももう少しロシア語の読める人が沢山出ていたら、到底いつまでもあんな泰平の夢を食っていられたわけのものではない。

 

 だから比較的忠実に、原文の文字を辿って固いけれども日本文になおした翻訳よりも、分からないところは二行でも三行でもとばして、コンマもピリオドも完全に無視して、ただずらずらと訳し終わったものの方が、一応日本文になっているという理由でこの国では名訳ということになるのである。

 

 同じくドストエフスキーの全訳に取り組んだ、米川正夫の翻訳も「ロシア文学憎まれ帖」で厳しく批判している。「ずらずらっと頭も終わりもない比較的読み易い日本文になっている、所謂こなれた日本文になっているという点を除けば、この翻訳は、誤訳、曲解、脱漏至らざるはなき無責任極まるものではないか」と指摘している。この文章を掲載した日本出版協会の『書評』をどれくらいのロシア文学関係者が読んだのだろう。半年後の一九五〇年の正月ごろ、小沼氏に金沢大で勤務する話が持ち上がった。東京におけるロシア文学研究の世界で生きていくのに嫌気がさしたか、気まずくなったのではないかと勘ぐってしまう。

 小沼氏は『ドストエフスキーの顔』(筑摩書房一九八二年三月)所収の「翻訳五十年」で「わたくし個人の考え方によれば、新訳はいくらたくさん出ても結構だと思います。長老のX氏のように、この全集は自分のだけがあればそれで十分だ、などと言うつもりはさらにありません」と閉鎖的な日本のロシア文学研究の世界を批判している。一九六八年八月の文章なので、自身によるドストエフスキー全集の刊行が始まった後に執筆したことになる。米川正夫の姿勢を批判しているとも考えられるが、戦後にロシア文学の大家から伝えられた言葉を思い出していたのだろうか。

 三十五歳の小沼氏は、金沢大講師として一九五一年五月に赴任する。北陸に行ったことはなく、現地の様子を知るため石川県で発行されている北國新聞を一年以上も前から取り寄せて読んだという。金沢大は、作家の井上靖らが学んだ旧制の第四高等学校が前身で、当時は城跡にキャンパスがある珍しい大学だった。小沼氏は赴任後に地元の雑誌「北国文化」(一九五一年十月号)に「金沢は文化の谷間か」という随筆を寄せ「金沢は予想に違わず私に大変はよいところのように思われます。不愉快なこともまだあまりぶつかりません。第一街がきれいです。東京のように街に紙くずがおちていません。砂ぼこりもたたないようです。これには全くほっといたしました」と述べている。「これからの半生を送るのに申分あるまいと喜び勇んで赴任してまいりました」とも述べており、当初この地に骨を埋める覚悟もあったようだ。一九五三年には金沢の放送局での連続講演をまとめた「新語の周囲」(大和出版社)を出版するなどしたが、その後、中央大講師に転じている。

 四十五歳から筑摩書房ドストエフスキー全集に取り組んだ。一九六二年十月に刊行が始まり、第一回の配本は『未成年』だった。同じ時期に雑誌『文芸春秋』(一九六二年十二月)に寄せたコラム「犬とは何であるか」で、わかりやすい日本語を心がけたことを次のように説明している。

 

 翻訳を業とするようになってからも、自分で読んでわからない、また他人が読んでわからない訳文だけは絶対に書くまいという翻訳態度が生まれました。

 ドストエフスキーは難解と言われています。たしかにある意味では難解かも知れませんが、ロシヤ語で読めばとにかくわかるのに、日本語で読むとますます難解であるというのは、これは日本語の表現の問題ではないでしょうか。

 

 翻訳した日本語が読者にいつまで受け入れられるかについても語っている。『学鐙』(一九七五年一月)に掲載した「初期のドストエフスキー全集」で「五十年以上の寿命は望めないのであり、それが翻訳の、そして翻訳者の悲しい宿命なのであろう」と述べている。それでも「評論家にも、作家にもなれない、学者にもなれない、その才能のない一介の翻訳者にすぎない、ドストエフスキーの翻訳者であることに最高の満足を感じ、生き甲斐を覚えている」との考えを「『悪霊』に導かれて」の中で明らかにしている。

 

 ドストエフスキー全集は一九九一年に全巻の刊行を終えた。小沼氏は三十年にわたる翻訳作業により七十五歳になっていた。第八巻の『悪霊』のように翻訳がなかなか進ます、刊行が計画より大きく遅れたケースもあったようだ。『悪霊』の月報にある「編集室より」では「何分にも二千五百枚を超える大作であるうえ、〝訳注・あとがき〟からも汲みとれるような翻訳上の苦心、また訳者の一身上の事情などもあって、当初予想したよりもはるかに多くの期日を要し、今日に至ってしまいました」と説明している。

 清水先生は、小沼氏の夫人から聞いた当時のエピソードを「ロシア文学者・小沼文彦氏との三十年」で紹介している。「一身上の事情」とはこうした生活のことを指すのだろうか。

 

 ある日、夜遅く奥様から電話があった。何事かと思えば、小沼氏が家出をして帰ってこないという。何か気にくわないことがあったり、嫉妬の感情に襲われるとこういうことになるらしい。わたしはどうすることもできず、またそういうごく身内の話をされる奥様がふしぎでもあった。が、奥様が語ってくれた小沼氏の様々なエピソードはとにかく面白かった。

「夜中に突然私を起こして『悪霊』の話をされるの。スタヴローギンとかキリーロフの話を。神があるとかないとか……いきなり質問しておいて答えないものなら怒る怒る……前の奥さんなんかこの人が殺したようなもんです」

『悪霊』を訳している時がもっともひどかったそうで、奥様もだいぶ神経を傷めたようである。翻訳という仕事は人物が憑依しやすい状態を作るのかもしれない。

 

 筑摩書房の『ちくま』(一九九一年八月)に掲載した「命なりけり」で翻訳を終えた瞬間の気持ちを次のように振り返った。

 

『「未成年」創作ノート』の最後のセンテンスを書き終えペンを擱いたときには、不覚にもしばらく涙の落ちるのを禁じえませんでした。

 よくまあ無事に生き永らえて、途中で投げ出すこともなくここまでやって来られたものだというのが、いつわらぬ実感でした。

 

 実は、筑摩書房は一九七八年に一度、経営破たんしている。全集の発刊を続けられるかどうか危うかった時期もあったようだ。小沼氏は「さらに倒産というまったく予期しない事態に見舞われたにもかかわらず、そのままずっと仕事をつづけさせ、つねに支援してくださった筑摩書房の厚意には、それこそ感謝の言葉を知りません」と「命なりけり」に書いている。後半生をかけた翻訳作業だったが、ドストエフスキーだけでなく、この間にトルストイらの作品の翻訳も出版している。翻訳における気分転換が目的だったのだろうか、それとも経済的な事情があったのだろうか。

 

著者プロフィール

番場恭治(ばんば・きょうじ)一九六七年石川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。共同通信社の経済部、中国特派員などを経て、現在はアジア経済ニュースを配信するグループ会社NNAに編集委員として出向中。ノーベル文学賞を受賞した莫言氏への北京でのインタビューなど中国における取材をもとにした新聞連載をまとめた共著『中国に生きる 興竜の実像』(株式会社共同通信社、二〇〇七年六月)がある。

 

2021年9月21日のズームによる特別講義

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四時限目

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五時限目

https://youtu.be/itrCThvIhHQ

 

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動画撮影は2021年9月8日・伊藤景

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清水正・批評の軌跡Web版で「清水正ドストエフスキー論全集」第1巻~11巻までの紹介を見ることができます。

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清水正著『ウラ読みドストエフスキー』を下記クリックで読むことができます。

清水正•批評の軌跡web版 - ウラ読みドストエフスキー

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撮影・伊藤景

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ポスターデザイン・幅観月