ネット版「Д文学通信」37号(通算1467号)岩崎純一「絶対的一者、総合芸術、総合感覚をめぐる東西・男女の哲人の苦闘 ──ニーチェ、松原寛、巫女の対比を中心に──」(連載第32回)
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ネット版「Д文学通信」37号(通算1467号) 2021年12月15日
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「Д文学通信」 ドストエフスキー&宮沢賢 治:研究情報ミニコミ誌
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連載 第32回
絶対的一者、総合芸術、総合感覚をめぐる東西・男女の哲人の苦闘
──ニーチェ、松原寛、巫女の対比を中心に──
岩崎純一(日大芸術学部非常勤講師)
十、大いなるディオニュソス感覚、総合感覚、「母なる」感覚への道
バレリーナや巫女たちと共に、ニーチェ、ワーグナー、松原寛の亡霊に問う
西の哲人たちの旧来の「総合感覚」論(群衆道徳の共時態を利用した「共通感覚」、「統覚」)
アリストテレスの総合感覚論については、二〇一七年に亡くなった中村雄二郎の『共通感覚論』が慧眼の書であろう。中村雄二郎は本著で、現在「コモン・センス(common sense)」は「常識」や「社会通念」を意味する語句であるが、その語源でアリストテレスの時代に用いられていた「センスス・コムニス(コイネー・アイステーシス)」は「共通感覚(五感の背後にある全感覚様態、ないしは五感の統合様態)」の意味であったことに着目した。また、その両者の同義性(再統合)を現在においてもいとも簡単に引き起こしている病理が分裂病(現在の統合失調症)であるとした。分裂病者において、常識の欠如の背後に(社会規範を破ろうと意図する魂胆ではなく)共通感覚の減衰があることに注目したのである。(一―六六頁)
中村雄二郎は、文脈としては、自己の出自・源泉(母胎)としての始原の宇宙を直観する総合感覚としての「共通感覚」を、カントの「統覚」と全く同一視し、これを専ら忘却した精神を分裂病と見ているふしがあり、この点は後述の通り、明確に私とは異なる。
この傾向は、いわゆる東大学閥を中心とするニュー・アカデミズム(中村雄二郎、吉本隆明、中沢新一などの思想)全般に私が覚える違和感である。この学閥は、戦後民主主義社会について、幼児の知覚・認識世界や人類の始原への回帰が要求されている時代であると言いながら、実質は精神病者や障害者や幼少期の人間を進歩の中途にいると見、自分たちを最大の進歩人であると言う二枚舌のところがある。
しかし、ともかく中村雄二郎が「分裂病では、総合感覚の欠如が常識の欠如と同義である」としている点が、慧眼なのである。これはむしろ、そもそも近代西洋医学的・キリスト教的「常識」のほうが、「無い」はずのもの、人々の群集心理が「神を殺しながら」創り出した価値、幻想でありながらそうでない「ふり」をして自分たちに嵌めている箍であり、分裂病者においては、「原初感覚への回帰ないし模索」が起きているという主張にはなっているように思う。
つまり、中村は、無意識の「共通感覚」も意識の「常識」も備わっているべきであるのが文明的人間であり、進歩的近代人であるとは見ているが、その両意識の距離を道徳と価値の捏造によって設けたことには近代人は気づいていないと見ており、分裂病者こそが「一者との合一は、全ての思弁を省略した直接性である」ことを逆説的に体験しているとするわけである。
従って、近代精神病理学の用語である「分裂病」や「統合失調症」とは、むしろ「自己と他者の道徳の解体と始原の再構築の試み」、「神の分裂と失調に苦しむ群衆への抵抗」と呼ぶべき可能性が出てくるのである。病理であるのは群衆のほうで、そこから弾かれた者が精神病理とされたと見るのである。これは私の基本的な思想でもある。
そうなると、「共通感覚」は、「やはり神の実在は是認せざるを得ない」としたカントの「統覚」に近いとも言えるが、細かく見れば、カントはカントで、神の導出のために「超越論的統覚」と「経験的統覚」とを分裂させる強引な技術を使ったことで、本来の「混沌の一者」を見る「共通感覚」から離れてしまったと言えるだろう。
ちなみに、先に西田幾多郎の哲学用語は分かりにくいきらいのある旨を書いたが、西田哲学を西田哲学以外の言葉で再構築しなければならないと述べたのは、中村雄二郎である。中村雄二郎も、カントの「統覚」をアリストテレスの「共通感覚」で語り直そうとしたものと言える。
だが、アリストテレスの「共通感覚」が、(人間が連絡手段を持たないプラトン的なイデア界に超越的に存在するのではなく)個物に内在する本質をとらえるための、分化された感覚器官の諸感覚の統合という、プラトニズムの修正としての試みを言うのに対して、カントの「統覚」は、神の連れ出しを発動する実践理性がその支配下に置く悟性の持つ、最重要の機能である自己同一性(アリストテレスの共通感覚をも配下に置く)のことをいう点で、やはりカントの「統覚」のほうが、人間と神とを乱暴に連結しているとは言えるはずである。
カントは、感覚(器官)的・感性的存在としての人間の資質を認めるにあたっては、これを「統覚」ではなく「直観」と言い、その感官による「直観」を人間の低次の直接知覚と見ており、一方で人間が叡智的存在であることを強調している。カントの考える人間概念には、五感の持ち主であるという生身の人間の匂いがほとんどしない。
元より、ライプニッツの主知的な「統覚」と「モナド」、「予定調和説」においても、人間・物どうしの関係の全ては神の設計であり、因果関係なく超決定的であり、「今生じた痛み」、「今生じた苦しみ」、「今生じた肉感」の一切は文字通り無いのである。
しかし、彼らの「統覚」概念が、群衆が巷で作り上げていくキリスト教の神に対し、強引ながらも始原の一者への「総合感覚」として設計された点においては、「共通感覚」と一致するものである。ライプニッツのモナドによる力動説も、デカルトの機械論を超克しようとしたものであった点では、むしろデカルトと群衆が見失った「生身の人間」の原理を説明しようとしたのである。このような、アリストテレス系列の元素論と異なる、唯物論と原子論と霊感論の折衷は、デモクリトスに始まるものである。
スピノザの「自然、即、神」の主知主義的な汎神観・一元論も、世界の全部分を生命と見る東洋の汎神論と異なり、さめざめとした決定論であり、ほとんど無神論や唯物論と見なされたが、そうは言っても、実際はデカルトの機械論よりも東洋的な一者観に一歩近づいたのである。むしろ、スピノザ哲学は、東洋的汎神論的解釈を適用したユダヤ教にも思える。
ここにすでに、哲人スピノザやライプニッツやカントと、アリストテレスやデカルトとの間に違いがあるだけでなく、スピノザやライプニッツやカントと群衆の神概念の差異も発生しているのであり、群衆道徳を必死で是正するために成された、人間と神・「物自体(本質)」との連結手段の設計も、カントにおいて最大の緊張に達したと見てよいだろう。
無論、このような緊張感と群衆道徳を「神を殺した」結果のニヒリズムであるとして批判し、カントと群衆の双方を丸ごと断罪したのが、ニーチェである。ニーチェのカント批判は、ショーペンハウアーが描いたカント像の批判にすぎないことは否めない。だが、「共通感覚」が社会心理学上の「常識」の意味に転化していくにあたり、まさに弱者道徳の蔓延こそがその転化の駆動体なのであるから、ここに「ニーチェの弱者道徳批判」を「総合感覚・始原への眼差しの忘失への反抗」と捉え直す試みが生じるのである。
私の場合は、中村雄二郎のように、「共通感覚」と「統覚」の所有を人類文明の開眼や前進と見たり、統合失調症者の世界認識様態をそれらの「喪失」・「欠落」と見たりする、社会進化論的・自然淘汰説的立場は採らない。むしろ、逆である。
私はカントの「統覚」については、精神病者や障害者を度外視しているどころか、健常者の五感世界や素直な肉感世界をも冷酷に拒絶した、実践理性のエリートだけに許された「神の導出スイッチ」に他ならないと見ており、その「神」はイオニア哲学が捉えていたような「アルケー」や「始原の一者」ではないという意味で、「統覚」は未だ私が言う「総合感覚」ではないと見ている。
一方、アリストテレスの「共通感覚」について、私は、むしろ精神病者や神経症性障害者、発達障害者、知的障害者のほうが「統覚」よりも先験的に有するものであって、これをわざわざ「実践」しなければならなくなったのがカントとカント時代の大衆だと見ており、その意味で、「統覚」よりは始原を眺め、「物自体」を察していると解釈するのである。
ニーチェは、「共通感覚」や「統覚」を、ディオニュソスの神、始原との合一感覚の変形・改竄として論じたことはないが、ニーチェがもし論じたならば、私と類似した態度になるのではないかと思う。
元より私自身は、始原の深奥への回帰を自らの東洋的・日本的実存に忠実に探求したいという衝動から、「脳の近代的機能分化自体が総合感覚の退化である(ただし、もはやどうしようもない)」、「人間文明はそもそも始原からの離脱である」、「動植物の実存、オオカミの鳴き声、木の葉の揺れなどは、総合感覚であり、彼らのみが自己自身と世界を共通感覚し、直観し、統覚することができている」、「人間は始原の達観に最も近い現存在ではないか、という奢りから一度も離れたことのない思弁の名称を西洋哲学やユダヤ・キリスト教と呼ぶ」、「総合感覚の極致は東洋的・日本的覚知であり、とりわけ日本の神々への直覚である」という最も厳しい解釈を採るので(いわば、汎神論と唯物論とが一体化した「自然、即、神」の、極東における唯心論的スピノザとも言えるので)、精神病者や神経症性障害者や発達障害者や知的障害者や、言語を持たなかった古代人や、動植物のエラン・ヴィタールが「総合感覚」に一致すると見るのである。
ニーチェはある程度(内心ではかなり)、親東洋的・親仏教的であったから、私の文言に同意するか、むしろまだ絶叫が物足りぬと言うかもしれないが、「人間の総合感覚は、ソクラテス以前の西洋の哲人と、東洋・日本の哲人と、全ての未開民族にあり」とする私の見解には、ソクラテス以降の西洋の哲人・哲学者は腹を立てるだろう。この最も厳しい態度は、まさに私の芸術作品に現れ出るところではあるが、ここで今一度、アリストテレスやカントなど代表的な西洋哲人の総合感覚論を追憶しておいたのである。
執筆者プロフィール
岩崎純一(いわさき じゅんいち)
1982年生。東京大学教養学部中退。財団事務局長。日大芸術学部非常勤講師。その傍ら共感覚研究、和歌詠進・解読、作曲、人口言語「岩崎式言語体系」開発など(岩崎純一学術研究所)。自身の共感覚、超音波知覚などの特殊知覚が科学者に実験・研究され、自らも知覚と芸術との関係など学際的な講義を行う。著書に『音に色が見える世界』(PHP新書)など。バレエ曲に『夕麗』、『丹頂の舞』。著作物リポジトリ「岩崎純一総合アーカイブ」をスタッフと展開中。
ネット版「Д文学通信」編集・発行人:清水正 発行所:【Д文学研究会】
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動画撮影は2021年9月8日・伊藤景
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「松原寛と日藝百年」展示会の模様を動画でご案内します。
日大芸術学部芸術資料館にて開催中
2021年10月19日~11月12日まで
https://youtu.be/S2Z_fARjQUI(「
日本大学芸術学部芸術資料館での「松原寛と日藝百年」の展示会は無事に終了致しました。